妖花
作/苫澤正樹 





 その日。
 福島県南部の街・南森(みなもり)は、春分の日を迎えようとしていた。
 もはや三月も末とあって、日陰で泥にまみれていた雪ももはや消え失せ、陽射しに冬の面影はない。
 確かに春は白河の関を越え、一路奥州街道を阿武隈川の上流にほど近いこの南森まで下ってきているようである。
 相澤祐一が、下宿先の水瀬家の庭先でその声を聞いたのも、そんな昼下がりのことであった。
 従姉妹の水瀬名雪の見送りを受け、外に出ようとした時、
「……あ、桜」
 不意に塀の向こうから女性の声が聞こえてきたのである。
 知った声ではない。どうやら、たまたま通りかかった女二人連れが、塀の横に立ち止まって桜談義に興じ始めたものらしかった。
「え?どれどれ?」
「ほら、あそこの家の庭の木の、ちょっと下あたりに……」
「ああ、あそこ?確かにそうね。……そっか、もう咲き始めてるんだ」
 早春の街角でよくあるような、実に他愛のない会話である。
 その他愛もない会話を、祐一は玄関先のたたきの上で凝(じっ)と押し黙ったまま聞いていたが、片方の女性が、
「もうすぐ春ってことかしら」
 そう言ったとき、不意に彼の口から、
「……春か」
 ぽつり、と小さなつぶやきが漏れた。
 ほとんどうわごとのような、ささやきにも近い声だったが、どういうわけか外の女性たちには聞こえたようで、
「あ……」
 一瞬驚いた顔で祐一の方を振り向いたかと思うと、気まずそうに会釈をして来る。
 その会釈に、祐一は黙って頭を下げた。
 そして、歩き始めた二人の後ろ姿を見送ることもなく、件(くだん)の桜の花に目を向けてみる。
 確かに、隣家との境にある桜の木の下の方の枝に、二分咲きにもならないような感じでぽつんと花が開いていた。
 しかし、それを見つめる祐一の眼には、何の感慨も起こっていないようである。
 祐一は、しばらくの間焦点が合っているようないないような眼つきでそれを見ていたが、
「……春か」
 再びそうつぶやくと、すっと眼をそらし、川沿いの道をとぼとぼと歩き始めた。






 それからしばらく後、水瀬家から東に五分ほど歩いたところにある、札ノ辻の電停の上に、祐一の姿を見いだすことが出来る。
 南森市交通局の手になるこの路面電車――南尾(みなお)線は、南森市中央部から北部の物見地区を通り、奥州街道に並行する形で市の北東部・尾根原(おねがはら)に至る、東北地方としては唯一の路面電車である。
 当然のごとく、商店街のある雪見町もほぼ真ん中を横切るのだが、祐一たちの住む連雀町界隈がルートから外れる上、歩いても十分もかからないところに百何十円も払うのも馬鹿馬鹿しいので、今まで全く使ったことがなかった。
 しかし、その日はどういうわけか、
(電車を使ってみようか)
 そう思い立ったのである。あまり生活に変化を求めない彼としては、珍しいことであった。
 だが、この珍しい思いつきが、この後の自分の生活に大きな影響を与える事件につながって来ようとは、この時まだ祐一は知るよしもない。
 さて……。
 しばらく待っていると、尾根原行の電車が車輪を軋ませながらやって来た。
 ものすごい音を立てて眼の前に停まった電車に、前扉から乗ろうとした祐一に、
「ああ、お客さん、後ろから乗って下さいね」
 車外放送で運転手の注意の声が飛ぶ。
 その声に慌てて後ろに引き返した祐一は、
(考えてみりゃ、後ろの扉が開いてるんだからな……)
 苦笑しつつ高いステップを上がり、真ん中あたりの座席に落ち着こうとした。
 しかし、不意に違和感を感じ、ふわりと尻を浮かせる。
「あれ?」
 見れば、ズボンの後ポケットにいつも使っている携帯電話が入りっぱなしになっていた。
「おっと……携帯電話、出すの忘れてた」
 祐一はそうつぶやくと、またしても苦笑しながら携帯電話を取り出してみせる。
 だが次の瞬間、何気なく携帯電話を裏返した祐一の眼が、不意に一点で止まった。
 そこには、一枚の写真シールが貼ってある。
 一頃若者の間で随分流行した、街頭のプリント機で撮影して作るものだ。ちょうど携帯電話が流行り始めたのとほぼ同時だったこともあり、こうやって携帯電話の裏側などに貼ることも多い。
「水瀬家一同 一九九九年一月二八日」
 そう女文字で記されたそのシールは、今年の一月の末、商店街のゲームセンターで撮ったものだった。
 みな、普段から見ている顔が、その中にひしめいている。
 しかし、祐一の眼は、その小さなシールの中央に写っている、栗毛の少女に向けられていた。
 朗らかに微笑む、童顔のその少女を見ながら、祐一は、
(……真琴)
 いつしかその携帯電話を胸の中に抱きしめていた。


 この少女の名を、澤渡真琴という。
 このシールが撮られた月末まで、水瀬家に祐一同様居候していた少女である。
 彼女はもう水瀬家にはいない。いや、水瀬家どころか、この世にすらいない。
 だが、死んだのではなかった。
 正確に言えば……「消えた」のである。それも、遺骸も残さずに跡形もなく、である。
 普通に考えれば、人間が消えてしまうことなどあり得ない。
 だが、真琴は消えた。
 それはとりもなおさず、彼女が「人」でない存在だったことの証だと言っていいだろう。
 人ではない存在――真琴の場合、それは「妖狐」であった。
 南森市内北部、物見地区に広がる小高い丘・「ものみの丘」に人知れず棲み暮らすという、狐に似た物の怪である。
 全ては七年前、まだ祐一が休みのたびに親子共々叔母の秋子の許に行って長逗留をしていた頃、けがをしていた真琴を拾い、こっそり飼っていたことに始まった。
 あの時、休みが終わって東京に戻ることになった祐一は、秘密にしていた手前秋子に世話を頼むことも出来ず、やむなく真琴を元のものみの丘に返したのである。
 今から考えてみれば、愚かなことをしたと思う。あの寛容な秋子が、狐の一匹隠れて飼っていたくらいで、怒るわけもなかっただろうからだ。
 だが、祐一はそれをしなかった。
(こうするしかないんだ)
 そう思い、後ろめたさを感じつつ、ほとんど捨てるようにして真琴を置いていったのである。
 それから七年、祐一はこの頃の記憶を全て忘れ去ってしまっていた。当然、真琴のことも、である。
 しかし、真琴は覚えていた。捨てられた憎しみと、人の情への憧れを持って、彼女は人化し、祐一の前に現れたのである。
 祐一は、そんな彼女のことを、子供っぽく悪戯好きだが、優しいところも持ち合わせた娘だとだけ思っていた。
 だが、かつて「妖狐」と出会った経験を持つ下級生・天野美汐によって、そんな彼に衝撃的な事実が告げられる。
 真琴の正体だけではない。「妖狐」が人化するとき、記憶と命を犠牲にせねばならず、そのために精神が徐々に崩壊し、ついには数週間でそのまま命が尽きて消え去ってしまう、というのだ。
 その言葉通り、一月の末に熱を出したあと、真琴の幼児退行が始まった。まず箸が持てなくなり、次に歯が磨けなくなり、文字が読めなくなり……そして、ついに言葉すらも失ったのである。
 一歩一歩子供へと近づいていく真琴に、祐一は懊悩の色を隠せなかった。
 しかし、懊悩しつつも、秋子や名雪に支えられ、彼は真琴の残り少なくなった日々を充実させることに力を注いだ。
 あの写真シールも、そんな思いから撮ったものだ。
 そして、明日から二月、というその月の三十一日、真琴は、祐一の腕の中で静かに消えて行ったのである。
 ……その後、一見穏やかに見えた祐一の心は、予想以上にずたずたになっていた。
 抜け殻のようになった彼は、
(俺が七年前、真琴を捨てなければ、あいつもこんな辛い目に遭うこともなかったはず……)
 そう自分を責め続け、外にすら出られない状態が何日も続いたのである。
 もっとも秋子や名雪、そして美汐の支えによって、その状態だけは脱することが出来、今ではほぼ通常と変わらない暮らしをしている。それどころか、美汐が少しずつ明るくなっていることに喜びすら感じていたのだ。
 だが、やはり愛する者をあのような残酷なやり方で奪われた傷は、癒えることはない。
 時々、一人になると、真琴の思い出が目の前に現れて来る。
 殊に、自分が春まで生きられぬ運命だと知らず、
「春が来て……ずっと春だったらいいのに」
 そうつぶやいていた、その言葉が今も忘れられない。
 その思い出を偲ぶと共に、
(もしかしたら、真琴が帰ってくるかも知れない)
 そんな淡い期待を抱きつつ、無駄とも思えるようなものみの丘への日参を、ずっと続けて来たのであった。


 どれほどの時間が経ったのだろうか。
「……次は、真名井(まない)、真名井でございます」
 祐一は、そんな何の変哲もない車内放送で我に返った。
 突然耳に入ってきた声に、
(……えっ?)
 反射的に窓の外を見てみると、電車は既に路面の併用軌道を過ぎ、専用軌道を走っている。
 しかも、その先に見えているものみの丘も、いつもと全く違い、立木に覆われた急勾配の斜面を晒しているではないか……。
 嫌な予感がした祐一は、あわてて降車ブザーを押し、電停に停まるのを待った。
 そして電車が、片面一面だけの低いホームへと滑り込んだのを見計らって、
「すみません、ものみの丘の登り口って、どこでしょうか」
 運転手に訊ねたのである。
 その問いに、運転手は少なからず戸惑ったようで、ひとしきり頭をひねった後、
「うーん、登り口ねぇ……。少なくとも、こっちにはないんじゃありませんかね。物見町の電停の近くにならあるけど」
 困ったように答えた。
「えっ、物見町って……」
「一つ前の電停ですよ」
「ぐあっ……」
 嫌な予感が当たった。乗り過ごしてしまっていたのである。
「歩いて行けますかね?」
「いやあ……ちょっと無理でしょうね。何せ、丘をはさんでまるきり向こう側だから」
「………」
 しかも、いつの間にかものみの丘の裏側に来てしまったものらしい。
「どうせ物見町じゃ、対向電車との交換で必ず停まるんですから、あらかじめ訊いててくれれば降ろしてあげたのに」
 さらに困った表情で言う運転手に、祐一は、
「……何とかそこまで出る方法、ありませんか」
 なおも食い下がってみるが、
「えー……そうですねぇ、この先、線路沿いに行ったところに大きな交叉点があるんですが、そこを右に曲がってまっすぐ行けば、出られるかも知れませんけど」
 どうもはっきりした答えが返ってこない。
 仕方なく、
「はあ……分かりました」
 そう返事をすると、彼は運賃を払って電車を降りた。
 路盤が悪いのだろう、尻を振りながら走り去って行く電車を見送った後、祐一は呆然と周りを見渡した。
 電停の周囲は、どこにでもあるような、細い路地の入り組んだ住宅地である。
(とりあえず、歩いてみるか)
 いつまでもそこにいても仕方がないので、祐一は電停を降り、ものみの丘の方に歩いてみることにした。
 さっき運転手に教えてもらった交叉点も見えたことは見えたが、かなり遠く、そこをさらに右に曲がって歩く、などということをするのはいかにも億劫に思われる。
 それならば、いっそのこと、
(自分で登り口を探してしまおう……)
 というのだ。
 幸い、ものみの丘の裾までは一直線で行けそうだったので、祐一は電停前の道を歩いていったのだが……。
 小さな川を越したところで、その道が林に突き当たって終わってしまったのである。
 ものみの丘の裾は、まだ先だ。しかも、林の中に立ち入るにしても、私有地のようで入るのはためらわれる。
「はあ……今日はよくよくついてないとみえるな」
 そうしてこんなへんぴなところに来る原因を作った己の粗忽さを棚に上げつつつぶやいた時、祐一の視界の端に、
「真名井の清水」
 と書かれた杭が見えた。
 試しに行ってみると、どうやらこの先に湧水源でもあるようで、その杭の横からほとんど獣道のような道が林の中へ続いている。
(こんな杭まで立っているのだから、開放されているんだろう)
 そう思った祐一は、思い切ってそこから踏み込んでみた。
 何のことはない、林の小道である。
 しかし、しばらくてくてくと歩いて行くと、急に林が途切れ、広い野原の中に出た。
 しかもよく見てみると、野原をぐるりと回るようにして、細い川が流れている。
 眼だけでたどって行くと、どうやら丘の裾にある水場からあふれ出ているものらしい。
「へえ……こういうのも、悪くないな」
 その水の清冽さと、穏やかな風景に心和む思いのした祐一は、登り口を探していたことなど忘れ、水場に近づいていった。
 思った通り、水場からは、どこから引かれているのか、真ん中から清水がこんこんと湧き出し、小さな山を作っている。
 その光景に、
「飲めるかな、これ」
 などと言いつつ、思わず手のひらを結んで水を飲もうとした時である。
 祐一は、前方に何か妙な気配を感じた。
 汲んだ水を水場に捨て、前を見る。
 その彼の眼の前に、目を疑うような光景が広がっていた。
「桜……?」
 何と、そこではまだこの時期には咲いていないはずの桜が、一本だけ満開の花を咲かせていたのである。
 開花予想日は、まだ二十日も先のはずである。
 それによしんば開花予想日であっても、すぐに満開になるわけではないのだから、ましてや予想日前に満開など、明らかに奇妙であった。
「狂い咲き、ってやつか?」
 よく分からぬながらも、祐一はそちらの方へ歩いて行く。
 だが、近づくにつれて、祐一は奇妙な感覚にとらわれた。さっきまで、単に美しいと思われた眼の前の桜が、急に不気味な妖艶さを帯びて見えて来たのである。
「……何だ?」
 その妖しい雰囲気に、本能的に祐一が足を止めた時、急に風が吹いた。
 それに伴って満開の花びらがざあっと音を立てて散り、周囲が桜吹雪に覆われる。
 普通ならば美しい光景なのだが、今の祐一にはどういうわけか恐ろしい光景のように思えてならない。
 余りのことに、金縛りにでも遭ったようにその場に立ちすくんでいた祐一に、異変が起こったのはその時だった。
「な……?」
 胸が焼けつくような、吐き気にも似た感覚が、腹の底から突き上がって来る。
 横を向いて吐こうとするが、吐くことが出来ない。
 その間にも、全身を襲う不快感に、段々と息が荒くなって行くばかりだ。
「と、とにかく、水……」
 そして、余りの息苦しさに、あわてて踵(きびす)を返し、水を飲もうとした時である。
「ぐはぁっ……」
 祐一の五体が突如激しく痙攣し始めたかと思うと、そのままどおっと激しい音を立てて草地に倒れ込んでしまったものだ。
 そして、
「むう……」
 と一つ呻いたきり、そのままぴくりとも動かない。
 あとには、ただ清水と風の音が、静かに響いているだけであった。






(……どこだ、ここ?)
 気がついた時、祐一は漆黒の闇の中にいた。
(まだ、気絶してるのか?……いや、気絶してるなら、こんな風に考えられないはずだ)
 しかも、五感もしっかりしているし、手足の自由も利くようである。
(……夢?)
 そうとしか考えられない。
 だが、そう考えても祐一にはどうにも釈然としなかった。
 そんなことを考えていた時である。
 不意に、闇の奥の方から、人の話し声が聞こえて来た。
「……大変……祐い……」
「……えっ……祐……いっ……の、お……」
 断片的でよく聞こえないが、どうやら女性が二人いるようである。
「な……しら……」
 そして、それに答えているかのように、男性の声も聞こえて来た。
 しばらく聞いていると、次第に声がはっきりして来る。
「ねえ、どういうことなの?ねえ?」
「もしかして……」
「そんな……」
 それを聞いていて、祐一は、
(あれ……?)
 いつしか妙な感じを覚えていた。
(この声、どこかで……)
 このことである。
 しかし、どうしても思い出すことが出来ない。確かに、どこかで聞いたことがあるはずなのだ。
 だが、その考えは、すぐあとの男性の声に絶ち切られてしまう。
「もしかして、あれがまた……」
(『あれ』?『あれ』って……あの桜のことか?)
 考えてみるが、この四人の話している内容自体が皆目見えてこないので、さっぱり分からない。
 考えるのをやめて再び耳を傾けてみる。
 が、次の瞬間、それまで不安そうに話し合っていた声が、ぷっつりと途絶えた。
(えっ……?)
 そのうちまた聞こえてくるかと思ったが、辺りはいつまでも不気味な静寂に包まれているばかりだ。
 その状況に、不安の募った祐一は、
「おい……誰もいないのか?」
 ついに声を出した。
 だが、その声は、むなしく響き渡るだけである。
「おい!答えろ!ついさっきまで、そこで話してたじゃないか!」
 そして、不安の余り癇癪を起こしたときである。
 不意に、ぱっと眼の前が明るくなった。
「え……?」
 呆然として眼を見開いていると、誰かがのぞきこんでくる。
 水色の髪に、穏やかな顔、そして桃色のカーディガン……誰あろう、叔母の秋子その人だった。
 その後ろに、見慣れた天井が見えている。自分の部屋のベッドの上であった。
「あ、秋子さん……」
「よかった、眼が覚めたんですね」
「秋子さん、どうして、俺……」
 当然の疑問を言いかけたとき、急にドアが開き、誰かが入ってきた。
「祐一っ」
「祐一さん」
 その聞き慣れた声に振り向いてみると、そこには名雪と、真琴の一件以来親しくしている天野美汐がいる。
「美汐……どうしてここに」
「ええ、たまたまこちらにおうかがいしたら、秋子さんが祐一さんを抱えて車から出て来るのに出くわしまして……」
「秋子さんが?」
「ええ」
 美汐の言葉に、祐一が秋子の方を振り返ると、彼女は心得たように説明を始める。
「実は、お仕事の帰りにのどが渇きましてね。普段なら、その辺の自動販売機で済ますんですが……今日は、たまたまあの林の近くを通りかかったので、たまには清水でも、と思ったんです」
「そこで、水場のところまで行ったら、俺が倒れてた、と」
「そういうことです」
「はあ……」
 信憑性があるような、ないような理由である。あそこで車を止めて、わざわざ林の奥の清水を飲みに行く必然性はないからだ。
 しかし、普段からどこか予測できないような行動をする秋子だけに、そんな好事家めいたことをしてもおかしくないようにも思える。
 そんなことをぼんやりと考えていると、今度は、
「それより、祐一さんの方こそ一体どうしたんです、あんなところで……」
 こちらも当然の質問が飛んできた。
 その問いに祐一は、隠すことでもないのでことの経緯(いきさつ)を包み隠さずに話した。
 しばらくの間、一同は黙って話を聞いていたが、例の桜の話になった時、
「ちょっと待ってよ、桜って……今、まだ三月だよね」
 名雪が怪訝そうな声で訊ねて来た。
「ええ。開花予想日はまだ二十日以上も先ですよ」
 と、これは美汐。
「だが、本当に咲いてたんだ。それも、満開だぞ」
「えー、おかしいよ、絶対。見間違いじゃないの?」
「馬鹿いえ、どこの世界にあんな目立つものを見間違うやつがいるってんだ」
「うー……確かにそういえばそうだけど」
 どうにも納得が行かない、という顔で黙りこむ名雪の横から、
「狂い咲き……ってことになるんでしょうか」
 今度は美汐が言葉を継ぐ。
「俺もそうだと思うよ。よくあるっていうしな」
「でもそのことと、祐一さんがその後で気持ち悪くなって倒れたのを関連づけるのは、ちょっと早計ではありませんか?そんなことがあるとは常識的に考えられませんし、第一、あそこの周辺にも人がたくさん住んでいるんですよ。もしそうなら、もっとたくさん被害者が出て、噂なり何なりになっていてもいいはずじゃありませんか」
 正論であった。
「それに、祐一さんも最近随分疲れているみたいでしたし……そのせいとか」
「疲れてたのは事実だが、ぶっ倒れるほどじゃなかった。何せ、あの桜に近づいた途端、急にだからな。どう考えてもあれのせいにしか思えないんだ。それに……」
「……それに?」
「何だか、呼ばれていたような気がするんだ。こっちへ来い、こっちへ来いって」
「……呼ばれて、ですか」
「ああ。今から考えてみれば、あの時、こんな時期に満開の桜なんて変だな、と思った途端、躰(からだ)が自然と桜の方へ歩き始めたような気がする」
 祐一の要領を得ない話に、美汐はなおも怪訝そうな声で、
「でも、呼ばれるって……一体誰に?」
 そう言いかけたが、次の瞬間、はっと顔を上げたかと思うと、
「祐一さん……もしかして」
「え?」
「もしかして、あの子たちが呼んだとでも……?」
 おびえるかのような声で言い出したものだ。
 その固い口調に、祐一が顔をうつむけ、小さく首を縦に振ってみせると、美汐は、
「そんな……祐一さんは、あの子たちが災厄の象徴だなんて、そんな馬鹿げた話をまだ信じてるんですか!?」
 急に五体を震わせながら、彼女としては珍しいほどの剣幕で祐一に迫ってきた。
「いや、信じちゃいない、信じちゃいないよ。仮にも俺だって妖狐に惚れた身だ。真琴の仲間が人間を傷つけるような真似をするなんて、俺も思いたくない」
「だったら、どうして!」
「いや、だからな、別にあいつらが俺を誘い出してあんなひどい目に遭わせたとか、そこまで言うわけじゃないんだ。だが、あの桜は何かのメッセージなのかも知れない、と思ってみただけだ」
「………」
 その祐一の言葉に、美汐は唇をかんだまま再び黙ってしまった。
 美汐もまた、中学生の頃に「藤森令(れい)」という名の妖狐の少女と出会い、交誼を結びながら眼の前で消滅されるという、祐一と全く同じ経験をしてきている。
 それだけに、世間で言われているような「妖狐は災厄の象徴」という誹謗にも似た俗説を持ち出されることは、
(我慢のならないこと……)
 なのだ。
 そのことは、あの日学校で妖狐のことを祐一に語って聞かせた時、
「あの子たちは……そんな子たちではありません。あの子たちは……」
 のどの奥から絞り出すように悲痛な声でそれを否定してみせたことからも分かる。
 祐一を支えるうちに、あたかも立ち直ったかのように見えた彼女であったが、やはり昔の心の傷は癒えていないのだ。
 今にも泣き出しそうな顔でうつむいている美汐に、祐一は困惑したが、
「それに、あいつらのせいだと、まだ決まったわけじゃないだろう。それとも、妖狐関連の伝説の中にそういう話があるとか、そういうことでもあるのか?」
「いえ、そんな話は聞いたことがないです」
「じゃ、なおさら分からないじゃないか」
「そう……ですね。すみません、つい取り乱してしまって」
「いや、構わない。そんな連中じゃないことは、お前が一番よく知っているんだからな……」
「………」
 祐一のとりなしに、美汐はすまなそうにみたび黙りこむ。
 と、その時、黙って二人のやりとりを見ていた名雪が、
「あ、そういえば……お母さんは?さっきから何も言わないけど」
 急に秋子のことへ話を向けた。
 そういえば、秋子はさっきから一言も言葉を発していない。
 いつもなら年長者として自分たちの会話に的確なアドバイスをくれる秋子としては、明らかに奇妙であった。
「ねえ、お母さん」
「………」
「ねえ、お母さんってば」
「……えっ?どうしたの、名雪」
「どうしたの、じゃないよ。わたしたちの話、聞いてたの?」
「え、ええ。きちんと聞いてたわよ」
「どうしちゃったの?お母さんらしくないよ」
「いえ、本当におかしな話だな、どういうことなんだろう、と思って……」
 いつもの秋子なら、ここで穏やかな表情のまま頬に手を当てて答えるところだろう。
 だが、そう答えた秋子の眼は、何か考えこむように遠くを見ている。
 しかも、声も心なしか上ずっているのだ。動揺しているのは明らかであろう。
 母のただならぬ様子に、名雪はなおも何か訊ねたそうにしていたが、何となく追及するようでためらわれたとみえ、それ以上は何も言わなかった。
 そうして場の雰囲気が気まずくなりかけた時、祐一が、
「……それよりも、秋子さんは桜を見たんですか?」
 根本的な質問を秋子にぶつけた。
「ええ。祐一さんが見たのと同じような満開の桜は見ましたけど」
「それで、近づいてどうだったんですか?」
「ええと、どうだったかしら……何せ、祐一さんを助けるので精一杯でしたから。桜だってそれこそ、視界の端に入ったくらいで」
「………」
 どうも歯切れの悪い答えであるが、緊急時だったのだから仕方のない話だろう。そう思って、祐一はそれ以上の追及をやめた。
 だが次の瞬間、秋子が、
「ともかく、もう一度現地に行って調べてみましょう。ここでいろいろ言っていても仕方がないですし」
 大胆な提案を述べたのには、祐一も驚きと疑問を隠せなかった。
「し、調べるって……どうするんですか」
「わたしの友達に科学調査の専門家がいるので、その人に頼んでやってもらおうかと思ってます」
「はあ……」
 確かに、賢明な判断ではある。科学的に分析してもらえば、原因が何なのか自ずと白黒はつくだろうからだ。
「でも、それをやって科学的に結果が出なくて、結果的に妖狐たちのしわざ、なんてことになったらどうするんです」
「その時はその時ですよ」
「………」
 とりようによっては行き当たりばったりにも思えるような秋子の物言いに、祐一はなおも不安を拭えないようであったが、彼女の余りにも自信に満ちた雰囲気に押され、それ以上何も言えなかった。
 窓の外を、雁の群れが山形の列をなして飛び去ってゆく。
 近所の家々からは、もうそろそろ、晩飯を作る湯気が立ち上って来る時分であった。



<つづく>
(平十三・二・二十五)
[平十四・一・三十/補訂]
[平十六・二・八/再訂]
[平十九・三・二十四/三訂]

[あとがき]

 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 「花ざかり」第一回目「妖花」、いかがだったでしょうか。
 この「花ざかり」は、ファンサイト「PureWhite」を運営されていたNocturneさんの所に寄稿していたものです。
真琴エンディング後、真琴が帰ってくるまでの話を連載でやろうというもので、真琴属性の人間として、また真琴の再来を期待する身として、全力を傾けるつもりの作品です。その第一回目としては、それなりによく出来たと私自身は思っております。
 ただその一方で、これを投稿することは結構な冒険でした。
それというのも、この「花ざかり」では随分いろいろと大胆なことをやってしまっていたからです。
 まず、文体がそうです。この文体、オリジナル作品(原稿用紙に手書きのため、完全にオフラインですが)を書く際にずっと使ってきた文体で、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」で知られる時代小説家の池波正太郎さんの文体を手本にしています。それを考えると、はっきり言いまして、「Kanon」の雰囲気に合うかどうか不安です。一方で、これが私なりの個性だ、とも思うのですが……やはり私が知る限り前例のないことなので不安でした。
 またもう一つは、設定です。実は私は架空の街などでものを書く場合、やたら設定を現実的にしたり細かくしたり自分の趣味に引きつけたりする傾向があります。ここで路面電車が出てくるのも要は私が鉄道好きなせいですし、舞台となる「南森市」の町名なども現実の元宿場町の地方都市にかなり例のある、言ってみればロマンチックさのかけらもない泥臭い一面を持った名前です。こういうことをやると元の作品のコンセプトを忘れてしまって暴走するようなことになりかねないのは分かっているのですが、どうしても自分の世界の中で彼らを書いてみたいという気持ちが強く、板挟みになっておりました。
 幸い、結果的には不評どころかそこそこ好評で、先のような心配が全くの杞憂であったことが分かったのでよかったのですが……今度はこちらでどのように反応が返ってくるか心配ではあります。このような作品ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、第二回目でお会いいたしましょう。
 なお、漸次設定を公開してゆくつもりでおります。今回の設定はこちらです。


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