盟神探湯(くかたち)
作/苫澤正樹 





 翌朝。
 祐一は、テレビから漏れるかすかな声で眼を覚ました。
「……JOHY-TV、JOHY-TV、福島あぶくま放送です」
「ん……」
 厳かに部屋に響く局名告知に顔を上げると、画面隅の時計が六時を示しているのが眼に入る。
「いけね、またつけっ放しにしちまったんだな」
 昨晩、昨日の桜の一件が気になっていた祐一は、何となく寝る気にもならず、遅くまでだらだらと深夜放送を見ていた。
 その間に、どうやらいつとはなしに眠ってしまっていたものらしい。
「このところ多いなあ……気をつけないと」
 苦笑しつつそうつぶやき、電源を切る。
 ここで、いつもなら昼までもうひと眠り、と二度寝を決めこむところだ。
 しかしその日の祐一は、寝直すどころか、
「……まあ、今日は逆に都合がいいけどな」
 そう言ってベッドから立ち上がると、いつも出かけるときに使っているリュックを取り上げ、そのまま部屋を出てゆく。
 そうして時間が時間ならば泥仕合を演じる場となる名雪の部屋を素通りし、階下へ下りる。
 その彼を、秋子が待っていた。
「おはようございます、祐一さん」
「あ、おはようございます、秋子さん。……どうもすみません、こんな早くから」
「いえいえ。わたしはいつもこれくらいですから」
 いつも通り、にこりと柔らかにほほえむ秋子の顔を横目に見ながら、祐一は暖かな湯気の漂う食卓についた。
「祐一さん、不動山でしたよね?今日登るところ」
「あ、ええ、そうです」
「バスで行くなら、注意した方がいいですよ。一時間に二三本しかないですから」
「大丈夫ですよ。時刻は調べてありますし」
「そうですか」
 不動山は、南森市の西の郊外、ちょうど白河や那須へと連なる山並みの端にある小さな山で、ハイキングコースとしてこの一帯ではそれなりに有名な山だ。
 気分転換にいつも学校で戯れている友人たちとこの山に登ろうと思うので、明日は早発ちする、そんな話を昨日の晩のうちにあらかじめ秋子にしてあったようである。
「それにしても……かわいそうですね」
「え、何がですか?」
「いえ、名雪のことですよ。あの子、今日突然部活が入っちゃって、行けなくなったなんて話してましたから」
「うーん……まあ、仕方がないですよ。あいつ、部長ですからね。休むわけにもいかんでしょう」
「それもそうですね」
 そんなことを話しながら時計を見上げると、時刻は七時になろうとしている。
 それに気づいた祐一は、急いで残ったパンをコーヒーで流しこむと、
「おっと、いけない……待ち合わせの時間があるんで、俺、もうそろそろ行きます」
 足許のリュックをかつぎ上げて食卓を立った。
「そうですか。気をつけていってらっしゃい」
「行って来ます」
 おっとりとした秋子の見送りを受けながら外に出る。
 外は、もう白々と明けて来ていた。しかも雲一つない快晴で、絶好のハイキング日和である。
 だが、祐一はそんなことには眼もくれず、どういうわけか厳しい顔つきで川沿いを北へと歩いてゆく。
 そのまま行けば、秋子に「待ち合わせの場所」として伝えた大橋東詰のバス停があるはずだ。
 しかし、彼はそこを素通りすると、駅前通りを駅の方へとしばらく歩き、そのまま札ノ辻の電停の前にあるファミリーレストランへと入って行ったのである。
 そうして自動ドアをくぐった時、
「あ、祐一さん、おはようございます」
 店の中ほどに座っていた少女に声をかけられた。
 小豆色の髪に、物静かな風貌。他ならぬ、天野美汐である。
「お、美汐か。悪いな、遠いのにこんな早くから」
「いえ、いつもこれくらいには起きてますから」
「そうか」
 そう言って美汐の向かいに座った祐一に、美汐は、
「そういえば……水瀬先輩はどうされたんですか?」
 本来ならば有り得ない質問をして来た。
 しかし、祐一の方も、その質問を訝しがることなく、
「ああ、名雪なら、七時過ぎに起きるって言ってたから、あと二三十分で来るんじゃないかな。起きられれば、の話だが」
 平然と答えてみせる。
「……大丈夫ですか、そんなことで」
「ま、秋子さんがついてるから大丈夫だろ」
 そんな問答をしながら三十分ほど待っていると、ぱたぱたと足音を響かせて名雪が店へ入ってきた。
「祐一、ごめん、遅れちゃって」
「まあ、いいよ。俺もきっちり起きられるとは思ってなかったから」
「うー……ひどいよ」
「いつもそれでひとさまに迷惑かけてるくせに、何を言うか」
 そこでいつもの掛け合い漫才じみた会話に突入しそうになった二人であったが、
「そんなことより、早く行かないと」
 美汐に急かされ、まじめな顔になる。
「あ、そうだよ、祐一。早くしないとお母さんが仕事に出ちゃうよ」
「そうだな、確か八時半だって言ってたし……移動時間を考えるとそろそろだな。何せ、待ち伏せなきゃいけないからな」
 このことである。
 実はこれから、祐一たちは例の「真名井の清水」の近くで勤めの行き帰りの秋子を待ち伏せ、彼女がそこで何をするかを見届けようとしているのである。


 祐一がそんなことを思いついたのは、ひとえに昨日、あの一件についていろいろと話した際の秋子の不審な行動からであった。
 衝撃を受け、深く考えこんでいるようにも見えたその姿に、
(何か心当たりでもあるのではないか……?)
 そう思った彼は、あれから秋子が夕飯の支度のため階下に下っていたのを見届けてから、こっそり二人にこの話をもちかけたのである。
 どうやら話から察するに、秋子があの清水のある林の前の道を通勤経路としているらしいことを考えてのものだ。
 最初は、
「人をつけるなんて、そんな」
 と言っていた二人も、秋子のいつにない動揺ぶりに何かを隠している、という感じは受けたらしく、最終的には同意してくれた。
 それに、祐一と名雪には、
「この際だから、捕まえてきちんと職業を訊いておきたい」
 という気持ちもある。
 秋子の職業を二人は知らぬ。
 居候の祐一はともかく、実の娘たる名雪が知らないとは面妖な話だが、秋子自身があまり仕事の話を好まない上、名雪自身もあまり訊く気もないようで、はっきりしたことは分かっていないのだ。
 ただ、秋子の部屋に歴史関係の本が多いことから、そういう分野の仕事をしているのだろう、と祐一は当たりをつけている。
 しかし、それならば、
「そう隠すようなものでもない……」
 はずなのである。
 とにかく、いろいろな謎に白黒をつけるいい機会ということで、わざわざハイキングと部活に行くと嘘をつき、時間差で家を出るというカモフラージュまでして作戦に備えたというわけだ。
 さて……。
 ファミリーレストランを出た三人は、眼の前の札ノ辻の電停から尾根原行の電車に乗りこんだ。
「わたし、こんなの初めてだよ」
「そうなのか?」
「だって、いつもはそうめったに遠くに行かないし……遠足の時もバスだったから」
 名雪は妙にうきうきしている。やはり、家から離れたところを走っているだけに、乗ったことがなかったのだろう。
 それに対し、美汐はいつも通り、落ち着いた面持ちで重苦しい釣掛モーターの音を聞いている。
「美汐はこれ、使ったことあるのか?」
「ええ、使ったことがあるなんてものじゃないです。家が見附(みつけ)の電停から入ったところですし、それにうちの父が交通局で電車の運転士をしてますから」
 見附は、札ノ辻から数えて二つ目にある電停で、旧奥州街道は南森宿の北のはずれにある電停である。
「え?お前のところの親父さん、運転士だったのか」
「あ、そうですね、まだお話ししてませんでしたね。……今度、休日にでもうちにいらっしゃって下さい」
「ああ、機会があったらな」
 そんな話をしているうちに、電車は通りを北へ上り、ものみの丘の裾を回ってその裏へと入ってゆく。
「次は、真名井、真名井……」
 ちん、と降車を知らせる古めかしいベルの音が鳴る。
 見れば、押したのは名雪だった。
 妙に嬉しそうなその姿に微笑みを覚えつつ、電車を降りた一同は、祐一の先導で例の林のところまでやって来た。
「八時二十分……もうじきに出る頃だな」
「祐一、これからどうするの?」
「そうだな……どこか、あそこの道が見渡せて、なおかつ身を隠せる場所を探さないと」
 そう言ってきょろきょろと周りを見渡す。
 眼の前は林、背後は住宅地である。住宅地では隠れようがないのは言うまでもないが、林に隠れるのも、秋子が入ってくる可能性を考えれば得策とはいえない。
 と、その時、美汐が、
「祐一さん、あそこなんかどうです?」
 不意に林沿いを東西に走る道の、住宅地側の道ばたを指さした。
 見ると、そこには林の飛地のようにして青々とした木が生い茂っている一角があった。
「ほう……」
 試しに入ってみると、かなり木が多いにもかかわらず小ぎれいにしてある。
 ただ丘の方を向いているため、南向きで日中はよく陽の当たる位置ではあるが、めいめい勝手に枝を伸ばした木々にそれも阻まれ、隠れていてもそう簡単には見つからないだろう。
 しかも、
「あれ、これ、生け垣だよ」
「ん?……ああ、本当だな」
 名雪の言う通り、この一角だけ生け垣がめぐらしてあった。
「こいつはいい。隠れるには最適じゃないか。しかし、何でこんなところにわざわざ……」
「あれのせいではないでしょうか」
 そう言う美汐の指し示した方を見てみると、そこには古びた小さな祠が二つ並んでいた。
 片方は普通の神社のようだったが、片方は稲荷神社らしく丹塗り(にぬり)の小さな社殿を備えている。
「なるほどな。……どれ、ひとつ、秋子さんが無事捕まりますように、とお願いしてみるか」
「そうですね」
「そうだね」
 狭い境内に、三人の柏手が響いたのは、それから間もなくのことであった。






 さて……。
 戦勝祈願(?)を終えた後、三人は道から見えないように生け垣の陰に隠れ、秋子を待ち受けることになった。
 秋子は勤め先に車で通っているため、車が来るたびに見極めをせねばならず、非常に面倒な作業である。
 そのあまりの煩雑さに、二人が、
「うーん……来ないよ」
「さっき、同じやつが通ったからな。もしかしたら、あれだったかもな」
「うん、そうかも……飛ばしてたから、よく分からなかったけど」
「仕方ないな。また夕方に来よう。それでだめなら、明日もあるしな」
「そうだね……」
 そんな撤収をにおわせる会話をし始めたときであった。
 突然、美汐が、
「……祐一さん!あれじゃありません?」
 道を指さして言った。
 見れば、向こうから小振りの国産車が一台、こちらへ向かって走って来ている。
 しばらく凝(じっ)と見ていると、その車は電停へ向かう道とのT字路の手前で止まった。
 誰か降りてくる。女性のようだ。
「祐一、あれ……」
「ああ、秋子さん、だな」
「秋子さんですね」
 特徴ある大きな三つ編みを眼にした瞬間、三人の意見は一致した。
 一方、秋子はずっと後ろの茂みに観客がいようとは夢にも思わず、誰もいないのを確認するかのように辺りをきょろきょろと見回すと、例の清水へ通じる道へと入ってゆく。
「どうするの?林の中へ入っちゃったよ」
「うーん……追うしかないだろ。見つかったら見つかったで、その時はその時さ」
 そう言うと、祐一はざっと道へと出てゆく。
 それに続いて、
「わっ、待ってよ」
「私も行きます」
 女性陣二人も後を追う。
 急いで清水へ通じる道へ向かい、すぐそこに秋子がいないことを確認してから注意深く進んでゆく。
「この先、注意しろよ。だだっ広い野っ原に出るからな」
 昨日同じ場所を歩いただけに、的確な指示を出す祐一に、二人は、
「分かったよ」
「分かりました」
 素早く答えてみせる。
 普段、あまりこんな集団行動などしない一同だが、いざとなるとなかなか堂に入ったものがあるようだ。
 さて……。
 そうこうしているうちに、清水の湧き出している野原が見えてきた。
 祐一は、道の出口に生えた木の陰に隠れると、慎重にその様子をうかがう。
 相手があの勘の鋭い秋子であるから、祐一も必然的に厳しい顔つきになっていたのだが、すぐに、
「あれ……?」
 何かに気がついたように気の抜けた声を上げた。
「どうしたの?」
「秋子さん、いないみたいだぞ」
「えっ?」
 祐一の意外な言葉に、まず名雪、次に美汐が、木の陰からこれもまた慎重に野原の様子をうかがってみる。
「……ほんとだ。いないよ」
「隠れている可能性はありませんか?」
「さあ……ともかく、いちかばちか出てみよう」
 そう言う祐一に従い、二人とも野原へと足を踏み出す。
 そうして改めて辺りを丹念に見回すが、秋子の姿は依然としてない。
「……隠れてるってわけでもなさそうだな」
「でも、そうでなかったらどこへ?」
「さあて、な」
「うー、分からないよ……」
 突然秋子が消え失せるという事態に直面した一同が、完全に途方に暮れようとした時である。
 急に名雪が、
「あれ?祐一、あれ、何かな」
 何かに気づいて野原の奥を指さした。
「ん?……どこだ?」
「ほら、あの草むらの中……何だか四角いものが見えるんだけど」
 見ると、水場の奥、湧き水の流れが今まさに地上に出んとしているところを曲がった横、方角でいうとちょうど北側にあたる斜面の草むらの中に、何か四角形の構造物が立っている。
 その言葉に、祐一は、
「何だろうな?近づかないと分からないな……」
 そう言って近づきかけ、不意に足を止めた。
 昨日の狂い咲きの桜のことを思い出したのである。
 だが、よく見てみると、今は眼の前にそんなものはない。昨日狂い咲いていたとおぼしき桜の木は、まだつぼみも固いような状態だ。
 こうなってしまうと、全く何が何だか分からない。祐一は、
(やっぱり見間違いだったのか……?)
 ただ首をひねるしかなかった。
 しかし次の瞬間、その考えは、
「ねえ、祐一、どうしたの?」
 祐一の気持ちを知って知らずか、心配そうに言う名雪の声で断ち切られてしまった。
 その促すような声に、祐一は、
「あ、ああ、すまん。……あれだったな?」
 一旦疑問を横に置くと気を取り直し、件(くだん)の草むらへと近づく。
 比較的踏み固められ草の少ない水場周辺と違い、完全に横側にあたるようなところだけにめったに人が来ないのか、高い草が生い茂ってかなり荒れている。
 それでも何とか踏み分けられた道を見つけて中へ入ってゆくと、眼の前に斜面から突き出すようにして立つ、苔蒸した石造りの井戸が現れた。
「古井戸か……」
 井戸といっても、釣瓶もポンプもなく、その代わりに半分朽ちた木の板がかぶせてあるだけの代物である。
「使ってるようには……見えませんね」
「だな。ちょっとのぞいてみるか」
 そう言って蓋を開け、のぞきこんでみる。
「真っ暗だな。まあ、当たり前といっちゃ当たり前だが……」
 何とか躰(からだ)の位置を工夫し、日光を入れようとするが、すぐそばに生い茂っている草に阻まれてうまくいかない。
 と、その時、ふと周りを見渡した名雪が、
「ねえ、そこの縁から斜面に登ってみれば?」
 祐一たちから見て前の方、斜面寄りの縁を指さしてみせた。
 よく見てみるとこの井戸、なんと斜面の裾に後ろ半分が埋まるようにして設置されており、一番後ろの縁などはすぐ下まで地面が迫っている。
 いかにも土砂が入りそうで、井戸の立地としてはかなり考えものだったが、それだけ水脈に近づけたかったと考えればいいのだろう。
 名雪の薦めに、祐一は乗り気でなさそうにしばらくの間斜面を見つめていたが、ややあって、
「うーん……そうしてみるか」
 そう言い、斜面を登り出す。
 例の縁の後ろ側にある斜面はかなり緩やかなもので、一同はすぐに安定した窪みを見つけて足を置くことが出来た。
「おっ、なかなかいいじゃないか。草の丈より高くなって見やすいし」
 そう言いながら、祐一は改めて井戸の中をのぞくが、光は奥の方へ行くほど弱々しくなり、底の様子などはあまりはっきりと分からない。
 ただ、底の方で乱反射してぴかぴかしているようには見えないことから、辛うじて涸れ井戸であることだけは分かった。
 それを見て、祐一が、
「何だ、涸れてるんじゃないか」
 気抜けしたようにそう言った時だ。
 後ろの方にいた名雪が、突然、
「きゃあっ!」
 と叫んで、何かにおびえるように急に暴れ出した。
 二人が驚いて見てみると、名雪の顔の前に、どこから下りてきたものか、ばかでかい女郎蜘蛛がいる。
 その前で、名雪が顔を青くしてあたふたとしているのだ。
 祐一は驚きつつもすぐに冷静になり、
「お、おい、大丈夫か。今追っぱらって……」
 手を出して蜘蛛を追い払おうとするが、なかなか届かない。
 と、そこで、悪いことに急に蜘蛛が足をわさわさと動かし出した。
 鼻先でそれを見せつけられた名雪が、
「ひいっ!い、い、い、いやーっ!」
 パニックの頂点に達し、逃げだそうとさらにもがく。
 そして、錯乱の余り、井戸を乗り越えようと縁に片足をかけ、さらにもう片方もかけようとした、次の瞬間である。
 上げようとした片方の足が何かにけつまづき、名雪の躰がふらりとぐらついたかと思うと、
「きゃああああっ……」
 魂消る(たまぎる)ような悲鳴と共に、そのまま井戸の中へと足から落ちこんで行ってしまったものである。
 眼の前で突如起こった出来事に、残された二人はしばらくの間呆然としていたが、すぐに顔面蒼白となったかと思うと、
「名雪、名雪ーっ!」
「水瀬先輩っ!」
 慌てて井戸をのぞきこみ、中に呼びかける。
 しかし、答えは返って来ない。
 その様子に、二人の顔色がさらに悪くなったのは言うまでもないだろう。
 何せ、深さの知れない井戸なのだ。深ければそれだけけがの程度も大きくなるし、最悪の場合、打ちどころが悪ければ即死である。
 こんなところで仲のよい知り合いを横死させたくないのは、二人とて一緒だ。
「名雪ーっ!大丈夫かっ、何か返事しろーっ!」
「水瀬先輩!返事してください!」
 必死になって呼びかけつつ、中をのぞくが、例によって全く見えない。
 しかし祐一は、心配の余り何とか名雪の姿を捕らえようと、眼窩も壊れよとばかりに眼をむいて闇を見つめる。
 と、その眼の前に、突然木の枝が一本現れた。
「わっ……!?」
 思いがけないものの出現に、半分悲鳴のような声をあげてのけぞった祐一に、
「祐一ーっ、わたしだよ、わたし」
 井戸の底から名雪の聞き慣れた声が響いてきた。
 それを聞いて色めき立った祐一が、
「えっ、な、名雪、大丈夫かっ!?けがは!?」
 枝の伸びている方向へ向けて声をかけると、名雪は、
「してないよ。だって、ここ、思ったよりもすごく浅かったから……」
 二人の心配をよそに明るい声で答えてみせる。
「浅いって……どれくらいだ?」
「えーと、わたしの身長より五十センチくらいかな……精一杯手を伸ばしてもちょっと届かなかったから、下にあった枝を使ったんだけど」
「……ということは、深くてもせいぜい二メートルくらいか」
 井戸というと、普通四メートルや五メートルの深さがあるものだが、ここはその半分以下だ。
 水脈が近いせいで深く掘らずともすぐに水が出たためか、さもなくば涸れた後に中途半端に埋めておいたためか……。
 ともかく、運がよかったわけである。
 そうは思ったものの、名雪の余りにいつも通りの返事に、祐一は一気に緊張の糸が切れて脱力してしまった。
 しかし、そんな祐一に、名雪は急にまじめな顔になり、
「それより祐一、この井戸、変だよ。横穴が続いてる」
 奇妙なことを言い出した。
「横穴?……何だそりゃ」
「分からないよ。でも、何だか丘の方へ向けてずっと続いてるみたい」
「………」
 理解しがたい事態に、祐一は黙りこんでしまった。
 どう考えても、普通の井戸に横穴なぞある道理はないからである。
 そんなことを考えていた時だ。
 祐一の注意がそれた隙に、名雪が、
「わたし、ちょっと入ってみるよ」
 そう言って横穴へひょいと入って行ってしまったのである。
 それに気づき、
「……って、えっ!?おい、危ないぞ!戻ってこい!」
 必死に呼びかけるが、聞こえていないのか返事は帰ってこない。
「くそっ、あの馬鹿……」
 その様子に、美汐も、
「ど、どうしましょう」
 さすがに困惑した表情を見せている。
 このまま放っておけば、何しろ地下だけに、何があるか分からない。
 祐一は、しばらくの間困り果てている美汐の顔と井戸の闇を見比べていたが、ややあって、
「仕方ない……俺たちも行くぞ」
 決心したように言った。
「そんな、危険です」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう。名雪をほっとけっていうのか」
「そ、それは……」
「ともかく、行くぞ。あの分なら、とりあえずきちんと入れることは入れるだろうからな」
 そう言うと、祐一はおもむろに井戸の中へ身を投じる。
 それを見て、美汐は、
「わっ、ま、待ってください」
 さらにあわてたようであるが、やがて、決心したように井戸の中へと入っていった。


「へえ……こりゃ、すごいな」
 井戸の中には、確かに横穴があった。
 それも、人一人が立って歩けてしまうような、ほとんど通路ともいうべき大きさのものである。
「祐一さん」
「お、美汐、来たか」
「……これですか、横穴って」
「ああ。……何なんだろうな、この大きさ」
 闇の中、全く分からないという感じで祐一がそう言ったとき、不意に奥の方からぱたぱたと足音が響いてきた。
「祐一ーっ」
 明らかに、名雪の声である。
「名雪!……お前、大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫だよ」
「息苦しいとか、そういうことはありませんか?」
 例年、井戸や地下タンクの中にみだりに入ったために酸欠で死亡する、という事故が必ず数件はあるだけに、当然の質問であろう。
 しかし、そんな美汐の心配をよそに、名雪はけろりとした顔で、
「大丈夫だよ。だって、ほら……」
 奥の方の天井を指さしてみせる。
 よく見ると、そこにはわずかながら光がさしこんでおり、穴が開いているのが分かった。
「……空気穴?」
「そうみたい。この先にも、ところどころ開いてるし」
「うーん……」
 と、その時、祐一の脳裏にある考えが浮かんだ。
「なあ、美汐……この辺って、戦争中に爆撃されてたか?」
 要するに、太平洋戦争中の防空壕ではないか、というのだ。
 しかし美汐は、その問いを、
「いえ、それはあり得ませんよ。戦争末期に福島や郡山が爆撃されたことはありましたけど、それ以外は基本的にされてないはずです」
 明確に否定してみせる。
「そうか……すると防空壕の線はないってことだな」
 いよいよもって分からなくなってきた。
 完全に人の通ることを想定されて作られた人工の隧道(トンネル)に、その入口をカモフラージュするための井戸……防空壕でもなければ、こんなものが地下に造られている道理がない。
「まさか、宇宙人の基地だったりして」
「名雪……この状況だと冗談に聞こえないぞ、それ」
 はたから聞いているとふざけているようだが、今の状況では二人とも半分本気だ。
 その時だった。
 後ろの方で考え込んでいた美汐が、急に前方を指さし、
「祐一さん!あれ、明かりじゃありませんか!?」
 叫ぶように言い出したものである。
「えっ!?」
 驚いて見てみると、確かに隧道の先の方に明かりが見える。
 しかも、明らかに人工の光だ。
 さすがの祐一も、これには息を飲んだようで、
「誰かいるってことか、つまり……」
 愕然とした声でつぶやく。
 名雪に至っては、不気味さのあまり、
「ゆ、祐一、わたし怖いよ」
 震え声で言いながら祐一の後ろへ隠れてしまった。
「と、ともかく、見るだけ見てみよう」
「だ、大丈夫かな……もし宇宙人だったら」
 こうなってしまうと、名雪の突拍子もない推測も、全くそうには聞こえない。
 祐一も、
「ば、馬鹿、宇宙人なんているわけがないだろうが……」
 口ではいつも通り否定するが、その声はやはり震えている。
 ともかく、恐怖におののきつつ、一同は少しずつ奥へと入ってゆく。
 そして、例の明かりのところへたどり着いた時、隧道の壁に吊った小さな棚の上に置かれた皿の中で、炎がちろちろ燃えている姿が一同の眼に飛びこんで来た。
「なあ、これって……」
「ええ、掛燈台(かけとうだい)ですね」
 燈台といっても、当然ながら航路標識たるあの燈台ではない。
 細い台を作ってその上に菜種油を満たした皿を置き、こよりを差して燃やす、日本古来の照明具である。
 掛燈台というのは、鴨居や壁などに棚を吊ったり金具を引っかけたりして台を作り、その上に火皿を置いて明かりを採るものである。
「おいおい、平安時代じゃあるまいし……」
「まあ、これでともかく、宇宙人でないことだけははっきりしましたね」
「そうだな。宇宙人が日本の平安文化なんか知るわけねえからな」
「でも、何で燈台なんだろ?」
「さあ……」
 よく見ると、この先にもいくつか燈台が設置されているようで、ぽつりぽつりと明かりが続いている。
 こういう様子を見てしまうと、最後までたどってしまわないと気が済まないのが人情というもので、一同はそのまま奥へ奥へと明かりをたどって進んでゆく。
 そうして、二百メートルほど進んだところで、眼の前に石段が現れた。
「まだ下に続いてるみたいだな」
 先の方が曲がっているためここから先の様子はよく分からないが、大きな明かりが見えるので、降りたところが大広間になっていることは容易に推測できた。
「よし、壁伝いに下りていって、あの曲がる辺りで先の様子をうかがってみよう」
 祐一の鶴の一声で、名雪と美汐もそれに従う。
 そうして、じりじりと壁伝いに石段を下り、曲がり角まで来た時である。
 大広間の中から男性の声で、
「もし、そこの方。隠れているのは分かっているんですよ。姿をお見せなさい」
 とがめるような、しかし物静かな声が急にこちらへ呼びかけてきた。
 先ほどまでは隧道をたどることに精一杯で全く気にしなかったが、やはり気づかれていたのである。
 突然の斬りつけるような言葉に、祐一が身を固くしていると、しばらくして、
「どなたですか?きちんと顔を見せなければいけませんよ」
 女性の声がこれもまた静かに響いてきた。
 明らかに秋子の声である。
 その事実に、祐一が、
(秋子さん!?やっぱり……)
 驚きを隠せずになおも耳を傾けていたときである。
 その耳に、新たに別の声が聞こえてきた。
「あぅーっ……だ、誰なのよぅ!出て来なさいよぅ」
 その瞬間、祐一はおのれの耳を疑った。
(真琴……!?)
 このことである。
 独特のしゃべり、「あぅーっ」という口癖めいた声。
 忘れようとしても忘れられない、まさに元気だった頃の真琴の口調そのものだった。
 きわめつけに、そのせりふにかぶるようにして、ちりちりと鈴の音が聞こえる。
 二ヶ月前、自分が真琴に買い与えた鈴の音に間違いなかった。
 祐一は、夢中で顔を突き出し、大広間の様子を眼で確認する。
 右と左に、一つずつ建物が建っている。
 その中央で話し合う秋子の後ろ姿と、その先に立つ白装束の若い男性。
 その頭と尻から、黄金色の耳と尾が突き出している。
 そして、その横には……確かに、男性と同じく白装束で耳と尾を突き出させた真琴が、確かにいた。
 そのことを確認したとき、祐一は、
「……真琴!」
 そう叫びながら発作的に階段を駆け下りた。
 しかし、
「わっ……祐一!?うわーっ!」
 急に名雪の悲鳴が聞こえたかと思うと、不意に後ろに抵抗を感じ、バランスを崩す。
 そして次の瞬間、どんがらがったんとすざまじい音を立て、折り重なるようにして一気に石段を転げ落ちてしまったものだ。
「ぐう……」
「祐一……急にひどいよ」
 石段の下に沈んでしまった二人に、秋子が、
「ゆ、祐一さん、名雪!大丈夫!?」
 近づきながら呼びかける。
 しかし、二人はそれを聞かず、折り重なったまま、言い争いを始めた。
「お、お前、俺の服つかんでたろ」
「だって、怖かったんだもん」
「子供じゃあるまいし、勝手につかむやつがあるか」
「うー、そうだけど……今のは急に走った祐一が悪いんだよ」
 いつもならここで際限ない言い争いになるところだが、今回は上の方から下りて来た美汐に、
「祐一さん、水瀬先輩!そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
 強くたしなめられ、我に返る。
 気を取り直し、前に向き直ると、秋子が心配そうな顔で立ちつくしていた。
「……三人とも、どうしてここに?」
 その言葉に対し、祐一が、
「それは俺たちのせりふですよ。秋子さんこそ、どうしてこんなところにいるんです?それに、ここは一体何なんですか?」
 逆に問い返すと、秋子は、
「それは……」
 いかにも言いにくそうに口をつぐんでしまったが、ややあって、後ろを向き、
「言ってしまっても……いいですよね、ここまで来たら」
 さっきまで話していた男性にうかがいを立てた。
 そうして男性がゆっくりとうなずくのを見て自分もうなずくと、祐一の方へ向き直り、静かに言った。
「祐一さん、名雪、美汐ちゃん。ようこそ、ものみの妖狐たちの住まう場所へ」






「妖狐の、住まう場所……ですって?」
 突拍子もない秋子の発言に、祐一が訊き返したのは言うまでもない。
「そうです。ここは、真琴たち妖狐の住処(すみか)なのです」
「………」
「……信じていただけませんか?」
「いえ……信じられなくても、信じざるを得ないでしょう。真琴とそちらの人が、狐耳と尻尾を生やしてる時点で」
 そう言って、祐一が秋子の肩越しに真琴の方を見ると、真琴は、
「あぅー……」 
 男性の後ろに隠れるようにしてこちらを見つめている。
「念のため訊いておくが……本物の真琴だよな?」
 祐一が訊くと、真琴は、
「う、うん」
 ぎこちなくうなずいてみせる。
 それを見て、祐一は、
「戻って来れたんだな……」
 そうつぶやくと、彼女の方へと歩み寄る。
「うん……よく分からないんだけど、いつの間にかここへ戻って来てたの」
「そうか。……記憶、あるよな?」
「今度は……大丈夫。みんな覚えてるから」
 それを聞いて、祐一の顔が不意に歪む。
 そして、辛抱の糸が切れたとばかりに走り出したかと思うと、
「真琴っ……!」
 真琴をぎゅっと抱きしめようとした。
 しかし、その腕は、
「きゃあっ、祐一、駄目っ!」
 という真琴の叫びと共に彼女の躰をすり抜け、祐一はどさっと向こう側の地面に倒れ込んでしまった。
「ううっ……避けるなんてひどいじゃないか。せっかく再会出来たってのに」
「避けてなんかいないわよ」
「じゃあ、何で触れないんだ」
 そのもっともな疑問に、真琴は、
「それは……」
 口ごもったが、やがて、
「今のあたしが、肉体のない霊体だからよ」
 決心したようにはっきりと答えた。
「霊体?」
「要するに……お化けなの、あたし」
「お化け……」
 その事実に愕然とする祐一に、真琴は、
「いや、でも、消えちゃうなんてことはないのよ?きちんと戻ることも出来るんだから」
 あわてて言葉を付け足す。
「何だって?……じゃあ、本当に前のままで戻って来れるんだな?」
「うん……でも、それは祐一次第なの」
「え?俺次第だって……?」
 そうして、要領を得ない真琴の話に、祐一が首をひねっている時だった。
 急に、真琴の横にいた男性が、
「それについては、私が説明しましょう」
 そう言って口をはさんで来た。
 その様子に、祐一が、
「……そういえば、あなたは一体誰なんですか?」
 訝しげな声で問い返すと、男性は、
「あ、申し遅れました。私は、真琴の兄で妖狐族第七十九代目族長の、天野浦藻(あまのうらも)と申します」
 はっきりと名乗る。
「真琴の、兄……?」
「ええ。大体のことは、真琴から聞きました。その節は、大変妹がお世話になりましたようで……どうもありがとうございます」
 そう言って、恭しく頭を下げる浦藻に、祐一も思わず、
「あ、こ、これはどうもご丁寧に……。秋子さんのところに居候しております、甥の相澤祐一です」
 あたふたと頭を下げる。
「で、さっきの話なんですが……」
「ええ。あ、そうだ、立ち話も何ですから、そこの中で話しませんか」
「あ、それじゃ……お言葉に甘えまして」


 浦藻に言われるまま、大広間の右側にある建物に入った一同は、そこの座敷に座った。
「あ、どうぞ。楽にしてください」
 丁寧にもお茶までいれ、自分も座りこむと、浦藻は、
「さて……どうして真琴が祐一さん次第で戻って来れるのか、ということでしたね」
 ゆっくりと口を開いた。
「ええ……一体どういうことなんですか」
「それをお話しするには、私たち妖狐の素性からお話ししなければなりません」
「なるほど……それは、俺も一度知りたかったんですよ。何せ、美汐から昔話としてしか聞いたことがないので」
「美汐?」
「え、ああ、そこの小豆色の髪の子です」
 祐一に指さされ、美汐は、
「すみません、自己紹介が遅れました……初めまして、天野美汐です」
 いつも通り、丁寧にあいさつをする。
 それに続き、同じく自己紹介をしていなかった名雪が、
「あ、わたしは、水瀬秋子の娘で水瀬名雪です。お母さんがいつもお世話になってます……って、これでいいのかな?」
 何とも歯切れの悪い口調であいさつをした。
 浦藻はそれを見てほほえむと、話を元に戻すべく祐一の方へ向き直った。
「それで、その昔話ってどんな話なんですか?」
「ええ……何でも、ものみの丘には何百年も生きた狐だけがなれる『妖狐』という物の怪がいて、それが時々里へ下りていっては悪さをするので、災厄の象徴とされている、という話でしたが」
 祐一が、以前美汐から聞いた話をつぶさに話すと、浦藻は、
「ははは……やっぱり。秋子さんから聞いてはいましたが、相も変わらずひどい言われようですね」
 複雑な表情で苦笑してみせる。
 その様子を見て、美汐が、
「あ、いえ、だからといって、私も祐一さんもそうだとは全然思ってはいないんですよ。真琴を見ていれば、そんなことはないとわかりますから」
 あわてて付け加える。
「いえいえ、いいんですよ。私たちのような物の怪は、よく知らない人間の方々には気味の悪いものでしょうからね」
「そんな……」
 なおも気まずそうな顔をする美汐をよそに、浦藻は改めて話を始めた。
「さて、それじゃ、本当のところをお話ししましょう。さっき、何百年も生きた狐が妖狐になる、というお話でしたが、これは実はちょっと違うんです」
「違う?」
「ええ。私たちは確かに狐ではあるんですが、動物の狐とは根本的に違うところに起源を持っています。それに、何百年も生きるということもありません。せいぜい百年から百二十年です」
「へえ……そうなんですか」
 余りに意外な事実に、祐一は神妙な顔つきでうなずく。
「それで、私たちのやっていることなんですが……これも実は、さっきの話とは全く逆でしてね。悪事をなすのではなく、むしろ神に仕え、それを守ることが私たちの仕事なんです」
「えっ……?それって、お使い狐ってことですか?」
 と、これは名雪。
 その言葉に、祐一は、
「おいおい、それはお稲荷さんの話だろ。いくら狐だからって……」
 苦笑しながらたしなめるが、浦藻はまじめな顔のまま、
「いえ、あながち間違ってはいませんよ。ただ、稲荷神のお使いではなく、むしろ神職として稲荷神をお祀り(まつり)する方ですが」
 とりなすように言ってみせる。
「もともと、我々妖狐は妖力を持つことから、昔より自ずから自然の神々と感応しあう能力を持っていました。そのことが、八百万の神々を意識させ、それをお祀りすることに存在をかけるようになったのです」
「それが、お稲荷さんだったというわけですか?」
「いえ、人間の方々の場合と同じで、最初は稲荷神というわけではなく、単に土地を司り五穀の収穫を司る神が対象でした。しかし、人間の方々と交わることにより、その中で信仰されていた稲荷信仰に影響を受け、結果的に稲荷神をお祀りすることとなったのです」
 その話を聞いたとき、今まで黙っていた美汐が、
「ちょっと待ってください……妖狐と人間との間には交わりがあったのですか?」
 急に顔を上げ、驚いた声で訊ねた。
「そうです。普通物の怪といいますと、人間を憎み目の敵にするもののように思われていますが、我々の場合は違います。妖力という超自然的な力を持ち、言ってみれば神に近い存在である我々に対し、当時の人間の方々は深い敬意を払って下さいました。それに応えて、我々もまた彼らに敬意を払い、積極的にその中へ飛びこんで行ったのです」
「しかし……飛びこむといっても、そのためには人間にならないといけませんよね。妖狐は人化するのに大変な犠牲を払うはずだったのでは?」
「それなんですが……もともと、私たちには人化することに関しては何ら問題はありませんでした。好きなときに人化し、好きなときに狐に戻っていたのです」
 真琴の一件でいやというほど見せつけられた事実を一気に覆すようなその話に、美汐は、
「えっ!?じゃ、じゃあ、真琴はどうなるんですか?」
 激しい動揺の色を隠せないようだったが、浦藻は、
「実はですね、それにはまたこみいった事情があるんです。それについては、追い追いお話しします」
 そこであえて話を切り、元の話に戻ってしまった。
「さて、そんなわけで、我々は人間の方々と共に、丘の麓に神社を建てて稲荷神をお祀りしていたわけですが……ちょうど今から千五百年ほど前、そこに転機が訪れました。当時日本を治めておられた景行天皇の皇子、小碓命(おうすのみこと)こと日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折にここに立ち寄り、先に棚倉(たなぐら)に祀ってあった都々古別神社(つづこわけじんじゃ)を自ら分祀(ぶんし)され、その祭神でこの陸奥国の開発に尽くされた味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)という神様をものみの丘に祀って、そこを神社とされたのです」
「つ、つづこわけ……?」
 突然出てきた聞き慣れない神社の名前に、祐一や名雪はよく分からずぽかんとしていたが、美汐は、
「なるほど……」
 納得したようにしきりにうなずいている。
 その美汐に、祐一が、
「お、おい、分かるのか?何なんだよ、都々古別神社ってのは」
 そう訊くと、美汐は、
「あ、ご存じないですか?……ほら、須賀川の近くに棚倉って町がありますよね。そこの町中と、南の郊外の近津(ちかつ)というところにそれぞれある神社ですよ。先ほどの日本武尊が東征でここに立ち寄った際、戦勝を願って建てた神社だと言われ、陸奥国一宮(むつのくにいちのみや)と呼ばれて一時期絶大なる信仰の対象となっていました。まあ、日本武尊自身が伝説上の人物なので本当のところは分かりませんが、かなりの古社であることは確かです」
 さらりと答えてみせる。
「はあ……」
 あまりに聞き慣れない内容の話に、分かったような分からないような顔でうなずく祐一をよそに、美汐は、
「それで、もしかしてそれが延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の物見神社になったというわけですか?」
 さらに浦藻に訊ねる。
「へえ……美汐さん、よくご存じですね。その通りです。分祀後、この味耜高彦根命という神様が『耜』という名を持っていて農業に通じることから農業神として信仰されるようになって来た関係で、頂上の新しい神社を本殿とし、もともと私たちがお祀りしていた神社をそれに付属する摂社(せっしゃ)として、『物見神社』という一つの大きな神社を作ったのです。それがこの南森郷一帯、いや白河郡全体の厚い信仰を集め、ついにかの延喜式撰上の際に、式内社として列せられることとなったわけです」
 その専門用語の連続に、名雪が、
「え、延喜式って……えーと、日本史でちょっとやったけど、確か平安時代に出来た、律令を施行するための細かい規則のことだよね?それでその中に、『神名帳(しんみょうちょう)』っていう神社の名前を記したものがあって、それに載ってるのが『式内社』と呼ばれるとか何とか……」
 日本史の知識をふりしぼって辛うじて解説する。
 その解説に、祐一が、
「そういえば、そんなのがあったな。そいつに載っていれば、少なくとも千年前からあるって証拠だから、古い神社の目安になるって……」
 そう応じるが、彼もそれ以上のことは知らないらしく、盆の窪に手をやったまま困ったような顔をするばかりだ。
「それにしても、美汐、すごいな。前々から歴史が得意だとは思ってたが、神社に特化しているとは思わなかったぞ」
「ええ、中学校時代からの趣味ですから……」
「中学生で神社か……やっぱり、どこかおばさんくさいな」
「失礼ですね。文化的だと言って下さい」
 そんな、いつも通りの調子のせりふにいつも通りの調子の返事をした時だ。
 祐一が、不意に何かを思いついたように顔を上げると、
「あれ……ちょっと待てよ。ものみの丘の上に、神社なんてあったか?」
 訝しげな声で言い出したのである。
 それに、名雪も、
「……そうだよね。言われてみれば、そんなのなかったよね」
 首をひねりつつ同意する。
 ものみの丘の頂上には、東側が断崖、西側がひたすら広い草地というありさまで、建物は一つとしてなかったはずだ。
 そのことは、祐一のように毎週通わずとも、一度行ったきりの名雪にも容易に知れただろう。
「あの、その話って、千年以上も前の話ですよね?だったら、どこかに移ったって可能性も……」
 しかし、その名雪の言葉に、浦藻は首を振ってみせる。
「いえ、そうではありません。廃絶してしまったんですよ」
「……廃絶?」
「平たく言えば、なくなってしまったんです。跡形もなく」
 この言葉に、祐一と名雪は唖然とした。
 神社がなくなってしまった……神社などというものは、ずっと昔から変わらず続いているものと思いこんでいた二人にとって、とても信じがたい話である。
「神社がなくなるって……そんなことがあるんですか」
「ええ。うちの他にも、数多くの式内社がなくなっているといいますから」
 その言葉に、祐一が、
「そうなのか、美汐」
 美汐に水を向ける。
「そうです。確か、二三百社はもう既になくなってるはずです」
「そんなにか?理由は何なんだ?」
「例えば、川の中洲に建っていて、洪水で社殿ごと流されてしまってそのまま復興しなかったとか、戦乱か何かで祀っていた氏族が全滅してしまって祭祀が絶えてしまったとか、そういう理由ですね。変わったところだと、明治の末期に国が押し進めた神社統合運動のあおりを食らって、無理矢理他の神社に統合されてしまった、なんてのもあります」
 そのとうとうとした説明に、祐一は、
「はあ……なるほどな。千年の間に、それぞれいろいろあったということか」
 やたら感心してみせる。
 美汐はそれをいい加減にしておくと、
「確か……物見神社の場合、史料があまりにも少なくて、はっきりとは理由が分かっていないはずです。でも、結局は疫病かなにかの災害で、神職の一族含めこの界隈の住民がほとんど絶えてしまったせいだろう、というのが定説のようですが」
 あごに軽く手を当てながら、ひとつひとつ思い出すようにして言った。
「そうですか。確かにそれで間違いではないです。しかし、そうなった原因については、分かっていないのではないですか?」
「それは……さっきも言った通り、史料が全くありませんので」
「そうでしょう。……実はですね、その廃絶に至った原因こそが、さっきもお話ししました、我々妖狐が人化出来なくなったことと深い関係があるんです」
「何ですって……?」
 三人が一様に驚くのを見て、浦藻は深くうなずいてみせると、
「それをお話しするために、まずご覧になっていただきたいものがあります。私について来て下さい」
 そう言い、席を立った。


 外に出ると、まず浦藻は大広間の中央で足を止め、
「あ、ちなみに、これが物見神社のご神体です。今は神籬(ひもろぎ)にお祀りしてありますが」
 そこにそびえ立っている大きな構造物を指さし、説明してみせた。
「神籬?」
「神社の元になったといわれる、古(いにしえ)の祭壇ですよ。もともとは依代(よりしろ)となる木や山の周りに常磐木(ときわぎ)――常緑樹のことですが――を植え、玉垣で囲ったものだったんですが、今はこのように、荒薦(あらむしろ)を敷いて八脚案(やあしのつくえ)を置き、さらにその上に枠を結んで依代の榊の木を立てるのが正式の方法です」
「へえ……」
 そう言われて見てみると、薦の薄茶に白木の白という淡い色彩の中に青々とした榊が立っているその光景は、何とも素朴な感じがするとともに、それだけでも何とも神聖な香りがする。
「何だか、背筋をしゃきっと伸ばしたくなるな、こういうのを見ると」
 そんなことを言いつつ神籬を見上げている祐一に、浦藻は、
「さて、本来なら先に拝んでいただかなければならないんですが……今は話の方が先です。どうぞ、こちらへ」
 そう言うと、神籬の横を通り抜け、右の壁に開いた大きな穴へと向かう。
 そして、その入口にかかっていた注連縄を外すと、中へと入ってゆく。
 そのあまりの暗さに、祐一が、
「いやに暗いな……」
 そうつぶやくと、すぐそばにいた真琴が、
「あ、祐一、今狐火出すから」
 そう言ってぱちんと軽く指を鳴らす。
 すると、その手のひらに、青白い火の玉が浮かんだ。
 さすがに、「妖狐」と名がつくだけのことはある。
「ちょっと不気味な色だけど……我慢して」
 すまなそうにそう言う真琴に、祐一が、
「あ、ありがとう」
 照れくさそうに礼を言ったとき、不意に行列の足が止まった。
「ここですか?」
 祐一の問いかけに、浦藻が、
「ええ」
 これもまたあらかじめ出しておいたのだろう、手のひらの狐火で先を照らしてみせる。
 そのほの白い光の先に、何か黒い大きなものと、その周りを取り囲む紫色の光の筋のようなものが見えた。
 それを、眼を凝らして必死で観察したあげく、祐一が、
「……岩?」
 自信がなさそうに言うと、浦藻は、
「そうです。でも、ただの岩ではありません。あれは殺生石(せっしょうせき)です」
 驚くべき言葉を口にした。
「えっ……殺生石って、九尾の狐のあれでしょう?人をさんざんたぶらかした上、石になって那須で毒気を吐いていたのを、玄翁(げんのう)って坊さんにとんかちでぶち割られたっていう」
「ええ」
「でも、そこで確か全部砕かれたっていいますし、その砕かれたやつが今も現地に残ってるっていいますけど……それが、何でここにあるんですか?」
「ええ……それはですね、実は殺生石は、今那須に残っているもので全部ではないんです」
「えっ……といいますと?」
「実は、今からちょうど六百二十年前の康暦元年――西暦では一三七九年になりますが――に玄翁和上が殺生石を砕かれた時、かけらの一部が上空高く舞い上がっていたんです。そしてそれが、よりによって山一つも二つも離れたここ南森まで飛んできて、不幸にも物見神社の本殿に直撃したのです」
「ええっ……」
「しかも、ただ直撃しただけではないのです。始末が悪いことにこのかけらには、九尾の狐が生前に持っていた恨みがこびりついていたんです。そして、本体が玄翁和上によって成仏したあとも、ひとり意志を持ち、邪悪な瘴気(しょうき)と呪いをもってこの一帯の人々に災いをもたらしました」
「………」
「落下からわずか数ヶ月の間に、木や草はことごとく枯れつくし、水は干上がり、人間の方々は疫病に苦しみながらばたばたと亡くなって行きました。まさにその光景は、地獄絵図だったと聞いています」
「……あなたたちは、何もしなかったんですか、それで?」
「もちろん、手をこまぬいていたわけじゃありません。安全な地下へ生き残っていた人を避難させ、一方地上では殺生石を何とかして封印しようと八方手を尽くしました。しかし、効果はなく、ついには地上はおろか、この地下にまで殺生石の邪悪な気が入りこんでくるようになったのです」
「………」
「そこで、追いつめられた当時の神職は、自分たちの命を妖力に変え、それをもって殺生石を封印するという禁じ手に出ました。そして……殺生石の周囲に強力な結界を張った代わりに、私の先祖である当時の族長を除いた神職全員が消滅してしまったのです」
 そう言うと、殺生石の周りに張り巡らされた、紫の光線を指さしてみせる。
「あれが、その時の結界です。私たちがこうして近づけるのも、あのおかげなんです」
 その悲痛な顔つきに、美汐が、
「なるほど……命を、かけて張っただけのことはありますね」
 神妙な声で応じると、浦藻は深くうなずいてみせる。
「それだけならば、まだよかったでしょう。しかし、あの殺生石は、満身創痍の我々をさらに追いつめるような呪いをかけたのです」
「呪い?……もしかして、それが?」
「その通り、例の人化の術の封印です。それ以来、我々は人化のために記憶と命を引き替えにした上、精神崩壊して消滅せねばならなくなったわけです」
 そうして、もともとあの殺生石は九尾の狐の怨念が暴走したものですから、我々が人間と親しくつきあうのをよしとしなかったのでしょう、と分析してみせる浦藻に、祐一が、
「あれ、でも、今浦藻さんは人間の姿では……」
 至極当然の疑問を投げかける。
「いえ、私も真琴と一緒で、霊体なんですよ。試しに触ってみますか?」
 そう言われて、祐一が浦藻の腕に触れてみるが、すかっと空振りしてしまった。
「はあ……確かに。でも、こんな風に話せるのなら、人化しなくても問題ないのでは?」
「いえ、これはこの中だけなんです。外に出るときは、狐の姿にならないといけないんですよ。そうなると、意志疎通なんてろくに出来やしませんからね」
「……じゃあ、それ以来、外部の人間との接触は全くないわけですか」
「そういうことです。私たち自体がこの結界の維持だけで精一杯なので、本当は誰かに助けを求めるべきなのですが……それも出来ません」
「………」
「そうこうしているうちに、
私たちは妖力はおろか、生命力そのものもどんどん削られてしまいましてね……。最盛期には百人を軽く超えていた同族が、私が引き継いだ段階では何と私を含めても四人にまで……今では令さんが欠けてしまいましたから、三人ですよ。もう、絶滅寸前です」
「………」
 淡々と語るその言葉に、祐一と美汐は眉をしかめ、困惑したように軽く首を振った。
(これは、容易ならない話だ……)
 そういうのである。
 余りに伝説とかけ離れた事実に驚いたというのもあるが、それ以上に、
「人化した妖狐が消えるのは、妖狐の掟によるものだ」
 今まで長い年月の中でいたずらに歪められて、まことしやかに流布されてきたそんな話を信じ、妖狐たちのことを、
「人の情のない、ただのけだもの」
 とまで思い、一度は恨んだことがあっただけに、いざ当人たちに会ってそれが非常に立派な存在であり、絶滅に瀕しながらも必死にその役目を果たそうとしているということに気づいて、何とも申しわけない気持ちになっていたのだった。
 名雪は、そうして黙ってしまった二人をしばらく見つめていたが、ややあって、
「……あれ?ちょっとおかしくないですか」
 首を傾げながら訝しそうな声で言い出した。
「名雪、何だよ、おかしいって」
「だってそうでしょ。こちらからは出て行けないっていっても、誰かがここを見つけて入って来る可能性ってのはあるんじゃないの?」
「ふうむ……」
 言われてみればそうである。
 こんな誰でも入ってゆけるような野原にある井戸なのだ。妖狐の住処と知っていて入る人間はまずいないだろうが、近所の子供か何かが遊んでいるうちに迷いこんだりする可能性は充分ある。
 現に自分たちも、名雪が井戸の中に転落したせいで、思わぬ闖入者(ちんにゅうしゃ)となり得たではないか……。
 その名雪の疑問に、浦藻は盆の窪に手を当て一瞬困ったような顔をしたが、しばらくして、
「本当なら、それがあってくれれば助けの呼びようもあるんですけどね。ところが念の入ったことに、例の呪いの一環で、あの入口の井戸の周りにもしっかり結界が張られてしまっていて……。あそこの部分だけ、普通の人には見えないようになっているんですよ」
 言いにくそうに答えた。
「えっ……そうなんですか?」
「ええ」
「それじゃ、 現にあれを見て、なおかつここへ入ってきてる秋子さんや俺たちはどうなるんです?みんな、特別な力なんか持ってない、普通の人間なんですよ」
「いえ、ここでの『普通』かどうか、というのは、何かの能力のあるなしの問題ではないんですよ。実は、血筋が合っているかどうかの問題なんです」
「……血筋?」
「ええ。……神職家の血筋をくんでいるかどうか、それがあそこを通れるかどうかの条件なんです」
「な、何ですって……?」
 この衝撃的な話に、三人が眼を白黒させたのは言うまでもない。
 今まで、 家系図も残っていないようなごく普通の庶民の家だと思っていたものが、まさかに、千五六百年を超える旧家と関わりがあると言われるとは、
「夢にも思っていなかった……」
 のである。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。……秋子さん、本当の話なんですか、これ?」
 混乱する頭を必死に制禦しつつ、祐一が訊ねると、秋子は、
「ええ……」
 静かにうなずいてみせる。
「そんな……じゃ、わたしの家も含めて、ここにいるみんなの家が、全部そうだっていうの?」
 と、これは名雪。
 その質問に、秋子は考えこむように少し眼を伏せたが、やがて、
「いえ……美汐ちゃんは『天野』で浦藻さんと一緒だから可能性はかなり強いけど、祐一さんについては分からないわ。……ただ、うちの水瀬の家の場合は、物見神社の神職家の親戚筋にあたる家柄だということが、既に分かっているのよ」
 ぽつりぽつりと新しい事実を語り始めた。
「えっ!?親戚筋って……」
「うん、実はね、どうやら神職家の血筋には本家と分家の二つあったみたいで……。一つは妖狐のままで神社の神職に、そしてもう一つは神社を離れて町中に人間として住んでいたらしいの」
「もしかして、その人間として住んでいた方が……うちってこと?」
「そういうこと。それで、他の家では完全に忘れられていた神職としての記憶が、どうやらうちだけに残っていたようなの」
 と、その時、この親子の会話を黙って聞いていた祐一が、
「それって、何か証拠があるんですか?」
 急に口をはさんだ。
「証拠ですか……何せ代々口で伝えられていることですので」
「じゃあ、浦藻さんの方で何か記録が残っているとか……」
 浦藻にも同様に話を振ってみるが、
「いえ、それがですね……二百年ほど前までは残っていたのですが、地震でやられましてね。社伝を記した写本が一冊だけあったんですが、その時の失火で全部燃えてしまったらしいんです。ですから、こちらにも記録のようなものは一切ありません」
 明確に否定されてしまった。
「あ、でも、秋子さんの水瀬家とは、そうやって証拠がなくなってしまう以前からのおつき合いですのでね。今、証拠がなくても我々としては何の問題もないんです」
「えっ……ということは、つまり、少なくとも二百年以上おつき合いを……」
「そういうことになりますね。何せ、約四百年も前かららしいですから」
 驚くべきことをさらりと口にされ、祐一は顔をこわばらせたままうなずいた。
 その横で、名雪がさっきから口をぽかんと開いたまま、呆然と話を聞いている。
 無理もない。水瀬家の一粒種としてこの世に生を享けてから十七年このかた、全く聞いたこともない話なのである。
「お母さん……そんなに長く続いているんだったら、どうしてわたしに言ってくれなかったの?」
 やっとそれだけ言った名雪に、秋子は、
「ごめんなさいね。この話は一子相伝で、成人しないと教えてはならない決まりになっていたから」
 すまなそうにとりなす。
「一子相伝……つまり、当主だけに秘密裏に伝えられてきたってこと?」
「そうよ」
「でも、お母さん、正確には当主じゃないでしょ。他からお嫁に来たんだから……」
 その名雪の言葉に、秋子は、顔をふっと曇らせかと思うと、
「それはね……お父さんが死ぬ前に、お母さんにこの役目を託してくれたから、よ」
 噛みしめるように答える。
「お父さん!?」
 父の名を聞いて、名雪が急に色めき立った。
 名雪は、父の顔を知らぬ。彼女がまだ物心もつかない二三歳の頃に、がんで若くして亡くなったからだ。
 その話自体は幼稚園の頃に聞かされていたが、それ以上のことは秋子の悲しみを子供なりに察したせいか、訊く気になれないままに今まで来てしまった。
 やはり、母子家庭で互いに支え合うように生きてきた親子だけに、その辺の心遣いは行き届いているようである。
「名雪さん、あなたのお父さんは、ここによく仕事帰りに通ってきていたんです。建前では、我々妖狐一族の呪いからの解放と物見神社再興、という大きな志がありましたが、我々にもお父さんにも、そして人間のみなさんにもそんな力はありません。ですから、その役割はもっぱら、外の情報を我々にもたらすことにありました」
 浦藻が語るところによると、これは歴代の当主に言えることで、明治時代に文明開化が起こった際、西洋文化や新しい時代の社会体制をいち早く伝えたのも、当時の当主だったという。
「本当に、水瀬家のみなさんにはお世話になっているんですよ、私たちは。おかげで、いつ外へ出ても恥ずかしくないだけの知識を持つことが出来たんですから」
 しみじみと語る浦藻に、一同は思わず眼を伏せてうなずいた。
「それで、ここまで説明したところで、話は一番最初に戻ります」
「え?……ああ、どうして俺次第で真琴が戻ってこれるのか、って話ですね」
 このことである。いろいろな新事実の説明ですっかり忘れていたが、このことを聞かなければ終わらない。
 祐一は身を乗り出すと、
「俺次第だ、といいますが……まさか、俺にあの殺生石をぶっ壊せ、とか言うんじゃないでしょうね?」
 ここまでの話で大体察しがついたのか、恐る恐る訊ねる。
 いくら真琴に惚れ抜いているとはいえ、自分はただの人間だ。あんな化け物石を砕くなど、どう考えたって出来るわけがないし、させるわけがないだろう。
 そう思っての発言だったが、予想に反して浦藻は、
「え、ええ……実は、そうなんです」
 思いがけない答えを返してきた。
 これに、祐一の眼が点になったのは言うまでもない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんなこと突然言われたって、俺はただの高校生なんですから……」
「それは充分承知しています。でも、そこをあえてお頼みするのです」
 そのいやに確信したような浦藻の口調に、祐一は、
「……何か、勝算でもあるんですか?」
 訝しげに訊ねた。
「ええ……勝算、というわけではないんですが、あなたが何かの鍵を握る存在であることは間違いないようです」
「鍵を?俺が?」
「そうです。このところ起こっている数々の異変から見た結果ですが」
 それから浦藻が語ったところによると……。
 一つ目の異変は、真琴が戻ってきてしまったことだという。
「祐一さんと美汐さんもご存じの通り、人化した仲間は、二週間から三週間ほどで熱を出し、精神を崩壊させて跡形もなく消えてしまいます。もちろん、霊魂ですらもです。今までの仲間もみなそうで、戻ってくることなどありませんでした」
 しかし、真琴は霊体ながら戻ってきている。小さな異変のようだが、今まで例のなかったことだけに、浦藻も、
(のっぴきならぬこと……)
 と感じたようだ。
 そして二つ目の異変が、何と例の狂い咲きの桜なのだという。
「このお話を秋子さんから聞いて、瘴気(しょうき)を発して人を惑わす手口からして、これは殺生石の仕業に違いないと、さっそく原因解明に向かったのですが……案の定、殺生石裏の通気口からわずかに結界からはみ出た妖気が漏れていて、桜の木を操っていたことが分かりました」
「なるほど、やはりあいつの仕業だったんですか……でも、今日来る時は大丈夫でしたが」
「ええ。石で通気口をふさぎ、結界をかけておいたので、今は大丈夫です」
「なるほど……」
「しかし、肝心なのはそこではありません。問題は、なぜ、被害にあったのが祐一さんだけだったのか、ということです」
 秋子の話によると、祐一を助けた時、例の桜は他の桜と同じく、つぼみを固くしたままだったという。
 それに、他の人間が同じ目に遭っていれば大騒ぎになるだろうに、まったくその気配もない。
 これはとりもなおさず、祐一だけを狙っていたということではないのか……。
「実は殺生石は、結界の隙をついて外界の様子を感じ取ることが出来るようなのですよ。それを考えると、祐一さんに何か敵意のような、特別な感情を抱いていることも充分考えられます」
「………」
「そこに来て、あの結界をやすやすと越えて来るんですからね……いやでも、あなたが特別な存在であると思わざるを得ません」
「そうですか……でも、俺は何度も言うように、ただの人間ですよ。それでもいいんですか」
「ええ……祐一さんなら、何か突破口を作れるのではないか、と思うんです。ただ、詳しい方法については、これから考えることになるとは思いますが」
「ふうむ……」
 あくまで控えめに頼みこむような浦藻のせりふに、祐一はあごに手を当てると、改めて殺生石を凝と見つめた。
 神秘的な紫の光線の中、どんと腰を据えたむくつけき岩。
 そのふてぶてしい姿に、それまでむしろ呆然として話を聞いていた祐一の顔に急に怒りの色が立ち昇った。
(こんなどこの馬の骨とも知れない岩のために、俺たちはあんなに苦しんだのか……!)
 このことである。
 この殺生石という化け物石がここ南森に飛来さえしなければ、妖狐たちも幸せに暮らしていられただろうし、ましてや記憶と命を犠牲にして人化し、出会った相手――祐一や美汐――に塗炭の苦しみを味わわせることもなかったはずなのだ。
 祐一は、殺生石に突きつけた鋭い視線を離さずに、横眼で真琴を見た。
 つい二ヶ月前に自分が体験した、身を切るがごとく残酷な体験が、脳裡にまざまざと蘇ってくる。
 その中で、家族の契りを結び、最期まで精一杯生きようとした真琴の、ひたむきな姿を思い出した頃には、
(こいつを、もう悲しませたくない)
 祐一の心も、おのずから定まっていたようだ。
 ふっと殺生石から視線を外し、浦藻の方へ向き直った祐一は、
「分かりました。やれるところまで、やってみましょう」
 はっきりと、そう言った。
 その言葉に続いて、名雪と美汐が、
「祐一……わたしにもやらせて。お手伝いするよ」
「祐一さん、不安はありますが、ほかならぬ真琴のことです。手伝わせてください」
 次々と名乗りを上げる。
 それを見て、浦藻と真琴が、
「そうですか……本当に、ありがとうございます」
「ありがとう、祐一、名雪、美汐」
 丁重に頭を下げる。
「商談成立ですね」
「で、問題の方法なんですが……」
「ええ、それなんですが……今のところ、神職家の末裔を探し出して、協力を願うのがいいかと」
「でも、一切史料が残っていないんですよね?どうするんですか」
「それは……」
「祐一さん、それについては、わたしの方で昔からいろいろと調査しているので、その縁をたどって行けるかもしれません」
「そうですか……」
「ともかく、こんなところで議論していても仕方ないですから、戻りましょう」
 そんなことを口々に話しながら、一同は殺生石のある部屋を後にする。
 事件は、その直後に起こった。






 最初にそれの存在に気づいたのは、真琴だった。
「ねえ、お兄ちゃん……何か変じゃない、あっちの方」
「何だって?……そういえば、何だかまた、妙な気配がするな」
 兄弟が口々に言い合うが、もとより人間である祐一たちには分からない。
「何ですか、また侵入者とか?」
 後ろの方から祐一がやや厳しい面もちで声をかけると、浦藻は、
「ちょっと待っていてください」
 そう言い残し、足音を忍ばせて先へと駆けてゆく。
 そして出口の壁に張りつき、慎重に中をうかがった後、静かに手招きをした。
 それを見て、一同もさっきの浦藻と同じように足音を忍ばせて彼のいるところまで近づく。
「何ですか……?」
「祐一さんの言う通りでしたよ。ほら、あそこ」
 そうして、浦藻の指し示すままに大広間の中をのぞきこみ、
「今度は一体……」
 迷惑そうに言った祐一が、その侵入者の姿を見て瞠目(どうもく)した。
 大広間の中央の床には、浦藻の言う通りに人間が一人、躰を横に向けて無造作に転がっている。
 しかし、彼が驚いたのはそんなことではなかった。
(あれは、あゆ……!?)
 このことである。
 そう、どういうわけか、全く妖狐たちとは関係のないはずの知り合いの少女、月宮あゆの姿がそこにはあったのである。


 月宮あゆ――この少女と祐一が出会ったのは、この南森に七年ぶりにやってきてすぐのことであった。
 雪見町の商店街で、たい焼きの屋台で万引き(当人は『食い逃げ』などと言っているが)をはたらいて逃げてきた彼女が、たまたま出会った祐一を、一緒に逃げてくれと無理矢理逃走劇に引きずりこんだのがそもそもの始まりである。
 「うぐぅ」という奇怪な口癖、背中で強烈に個性をアピールするプラスチックの羽根つきのリュック、そして何ともとぼけて子供っぽい口調。
 その個性が服を着て歩いているような姿には、さすがの祐一も、
「こいつは変なやつだ」
 と一言の内に断定したほどであった。
 その翌日、またしても同じたい焼き屋で万引きをして、「今日はこしあんだから」などとわけの分からぬ言いわけをしてのけたのにはさすがの祐一もあきれ果てたが、このことで二人は本格的に交誼を結ぶこととなった。
 そうしているうちに、祐一が彼女と七年前の冬に出会っていた旧知の仲であることや、ずっと何か大事な落とし物を探し続けていることも分かってきたのだ。
 しかし、一月の末、ちょうど真琴の幼児退行でごたごたしていた時、急に、
「探し物が見つかったから、もう会えないと思う」
 と言いだし、そのまま行方をくらましてしまったのである。
 そのあゆと、こんな形で再会しようとは、さすがの祐一も思い及ばなかった。
 枯葉色のダッフル・コートにミトンという、今の季節としては暑苦しいくらいの服装。
 そして何より背中には、彼女のトレードマークともいうべき、例の羽根つきリュックが輝いている。
 どれをとっても、月宮あゆその人であった。
 そのことは、あゆと少なからず交誼のあった名雪や秋子にも知れたらしく、やはり祐一同様、眼を白黒させてあゆを見つめている。
 そんな三人の様子を見て、浦藻が、
「もしかして、お知り合いですか?」
 祐一の顔をのぞきこんで訊ねる。
「え、ええ、あゆっていう女友達です。そうだよな、名雪」
「えっ!?……う、うん。確かにあゆちゃんだよ」
 名雪がうなずくのを見て、祐一も確信したらしく、
「それにしても、一体、なぜ……?」
 とつぶやきつつ、あゆの方へと近づいてゆく。
「おい、あゆ。あゆなんだろ?何でこんなところで寝てるんだ、起きろよ」
 そうしていつも通りに声をかけ、寝そべったあゆの肩をつかもうとした時だ。
 無造作に突き出したその手が、何とあゆの肩をするりと通り抜け、どさりと床の上へ落ちこんだものである。
「えっ……!?」
 一瞬、祐一には、何が起こったのか皆目見当がつかなかった。
 あゆの肩にかけようとした腕が、何の抵抗もなくその躰を貫いている。
 その事実に気づいた時、彼の顔から血の気がさっと引いた。
 眼の前のあゆには肉体がない……すなわち、真琴や浦藻と同じような「霊体」であるということである。
 しかし、一旦死んだ(正確には消えたのだが)真琴と違って、あゆはきちんと生きていたはずだ。
 それが分かっているだけに、祐一の衝撃はすざまじいものがあった。
「そ、そ、そんな……!?何で、何であゆが霊体なんだ!?」
 そう叫んだその声は、半ば恐怖に満ちてすらいる。
 あゆが霊体たる証拠を眼の前で見せつけられた名雪と秋子も、余りのことに息を飲んでしまい、声を発しようとしない。
 と、その時だ。
「う、うーん……」
 あゆがうめき声を上げ、躰を前後にうごめかした。
「ひぃっ!」
 自分の腕をすりぬけながら躰を揺らすあゆの姿に、祐一は発作的に手を引く。
 そうとも知らず、あゆは起きあがると、祐一を見とがめ、
「あ、あれ、祐一くん?」
 相変わらずのとぼけた声で呼びかける。
 しかし、その声に祐一は、
「……う、う、うわぁーっ!」
 完全なパニック状態になってしまい、こちらをのぞいている一同の許へ脱兎のごとく逃げ帰った。
 そうしてぶるぶると後ろの方で震えている祐一に、あゆは、
「うぐぅ……そんなに驚かないでよ」
 困ったような声で呼びかけるが、彼は一向にこちらを向こうとしない。
 これではらちが開かないので、仕方なく、秋子があゆに近づいた。
「あゆちゃん……あゆちゃんよね?」
「うん、秋子さん」
 朗らかに答えるあゆに、秋子はゆっくりと腕を差し出し、躰を触ってみる。
 案の定、触ることも出来ずにすかっと通り抜けてしまった。
 しかし、秋子はそれにさして驚くこともなく、
「確かに……霊体みたいね」
 うなずきながら言う。
 その言葉に、
「うぐぅ……やっぱり分かるの?そう、今のボク、お化けなんだ」
 あゆが照れくさそうに言った時、ようやく祐一の錯乱も一息ついたようで、
「お化けって、お前……何で?」
 恐る恐る近づきながら訊ねてきた。
「うぐぅ……ひどいよ、祐一くん、逃げるなんて」
「馬鹿言え。つい先日まで生きていた人間が、突然幽霊になって現れれば、誰だって驚くぞ」
 その祐一の言葉に、あゆは何とも不満そうな顔をしてみせるが、祐一はそれをいい加減にしておいて、
「それより、これはどういうことなんだ?」
 訝しげに訊ねる。
 しかしあゆは、その問いに、
「う……」
 どういうわけか困ったような表情で黙り込んでしまった。
「お前、これってとんでもないことなんだぞ。死んでるって証拠なんだから」
「………」
「一体何があったんだよ。一月の末くらいに、探し物が見つかったからもう会えない、って言ってた、あれは何だったんだよ」
「………」
「もしかして、あの後、交通事故にでも遭ったとか?」
「………」
「おい、何とか言ってくれよ。黙ってちゃ分からないぞ」
 追及するような祐一の口調に、あゆは悲痛な面もちでうつむいていたが、ややあって、
「……学校」
 のどの奥から絞り出すような声で、やっとそれだけ言った。
「え?学校って……お前の通っている学校で、何かあったのか?」
 祐一が心配そうに言うと、あゆはますます表情を暗くして、ぶんぶんと首を振る。
「じゃ、何なんだ」
 奥歯に物のはさまったようなあゆの言葉に、祐一がしびれを切らしたように言うと、あゆは、
「だから……学校だよ。祐一くんと、ボクの」
 不思議なことを言い出した。
 その言葉に、祐一がますます不機嫌の体になり、
「俺とあゆの?馬鹿いえ、お前と俺は、違う学校だったはずじゃ……」
 顔をしかめながら否定しかけた。
 が、否定しかけて、祐一は急に言葉を止めた。
 祐一の顔が、大広間の空間に張りついたかのように凍りついている。
 自分とあゆの「学校」……この謎かけのような言葉に、
(自分は確かに覚えがある……)
 そのことを、今はっきりと思い出したのだ。
 そして、それが一体何ものであったか、思索をたぐり寄せた時だ。
 祐一の脳裡を、突如としてすざまじい勢いでさまざまな映像が駆けめぐった。
 雪の積もった雑木林、その中央に立つ天を衝くばかりの巨木、辺り一面を赤く照らす夕陽、木に登る幼き日のあゆ、一陣の突風、そして……深紅に染め上がった巨木の下の雪。
 それらが、まるでこま送りの速い無声映画(サイレンス)でも見ているかのように、祐一の眼の前を走りすぎ、そのままいつまでも際限なく繰り返される。
 その有りさまを、祐一は呆然として見つめていたが、ややあって、
「うっ……うあああああああああああああーっ!」
 子供が癇癪を起こした時のような、奇妙な叫び声を上げ、その場にうずくまってしまった。
 そして、そのままバランスを崩したかと思うと、どおっと大きな音を立てて、地に倒れてしまったものである。
 そのあまりに異常な事態に、一同が、
「ど、どうしたんです、祐一さん!」
「祐一!しっかりして!」
 めいめいに呼びかけるが、祐一は、
「俺があゆを……俺があゆを……」
 とうわごとのように繰り返すばかりである。
 しかし、それもしばらくしてやんでしまい、祐一は秋子の手の中でがくりと気を失ってしまった。


 それから三十分ほど後、祐一の姿を、大広間の左側にある建物の一室に敷きのべられた布団の上に見出すことが出来る。
「うっ……ううん」
 祐一が眼を覚ましたのは、ちょうど真琴が額に当てた濡れ手ぬぐいを、水でしぼろうとした時であった。
「あ、祐一……眼が覚めたのね」
 嬉しそうに言う真琴に、祐一は、
「真琴か……お前がやってくれたのか?ありがとうな」
 静かに礼を言う。
 その気絶する直前と打って変わった冷静な口調に、一同がほっと胸をなで下ろしたのは言うまでもない。
 しかし、真琴に、
「それよりも祐一、一体どうしたっていうのよ?」
 そう言われた途端、祐一は床からはね起き、
「あ、あゆ、あゆは!?」
 あゆを探して辺りを見回す。
 そのただならぬ様子に、祐一の左側に座っていたあゆが慌てて、
「祐一くん、ボクはここだよ」
 祐一の眼の前に顔を出してみせる。
 そのあゆの顔を認めた途端、祐一は、蒲団から飛び出したかと思うと、
「あゆっ……許してくれっ!」
 あゆの前に激しく土下座をしたものだ。
 その突然の動作に、あゆはしばらく呆然としていたが、しばらくしてふっと顔を曇らせ、
「そう……祐一くん、思い出してくれたんだね」
 ぽつりと言う。
「ああ、そうだ。こんな大事なことを忘れるなんて、俺は何ていう馬鹿なんだ……」
「そ、そんな、祐一くん」
 頭を抱えて悔恨の口調で話す祐一と、それを見ておろおろするあゆの姿を、一同は何が何だか分からないというようにぽかんと見つめていたが、ややあって、真琴が、
「ちょっと、悪いんだけど……あたしたちにも、分かるように話してよ」
 言いにくそうに言い出した。
「あ?……ああ、すまない」
 その言葉に促されるまま、祐一は、全てを一同の前で話し始める。
 七年前の冬、あゆと出会って遊ぶ中で、市街地の西にあたる大師堂地区にあった林の中、巨木が一本立っている場所を「学校」と名づけたこと。
 雪見町にあるゲームセンターのクレーンゲームで、天使の人形をとってやり、それをあゆに「三つだけ願いを叶えてくれる天使」と言って渡してやったこと。
 そして、祐一が東京へ戻る日、その天使の人形に二つだけ願いを託したあゆが、「夕焼けを見るために二人で巨木に登りたい」と言ったのを先に登らせたせいで、彼女が上まで登ったところで突風のために転落し、全身を強く打撲したうえ大量に出血して救急車沙汰になったこと。
 全ての真実が、はらわたを一つ一つ引きちぎるかのような苦痛をもって、祐一の口から語られる。
 一連の話を聞き終えた時、一同は余りのことにしばらく呆然とするしかなかった。
「じゃ、じゃあ、あゆちゃんは……ずっと幽霊だったの!?」
 何度か自分の家に来て、一緒に飯を食っていただけに、名雪がとても信じられないという顔で訊く。
 その問いを受けて、あゆは、
「うん……でも、幽霊じゃないんだ。ボクは、まだ死んでないから。あれから、ずっと眠ってて……」
 ためらいがちに言い、
「その辺は……秋子さんがよく知ってると思うけども」
 ちらりと秋子の方を見る。
「そう、あれからあゆちゃん、昏睡状態になっちゃったのよね……。ただ、祐一さんは伝えようがなかったせいで、亡くなったと思い込んでいたみたいだけど」
 一つずつ、冷静に記憶を組み合わせるが、さすがの秋子も余りの事実に動揺を隠しきれないようだ。
「そう、なんだよね……ボク、ずっと真っ暗な中で夢を見ていたんだ。祐一くんと一緒に楽しく遊ぶ夢と、あの日の夕焼けの夢。もう、もう二度と見られない光景……ずっとそればかり見ていたんだ。それで満足していたはずだったんだよ。……でも、祐一くんの気配がこっちに近づいてくるのを感じて、やっぱり会いたいと思って……一生懸命、会えるように、せめてこの躰は動かなくても、意識だけは祐一くんに会えるように、って祈ったんだ。そうしたら……急に光に包まれて、いつの間にか、こんな格好で商店街にいたんだよ。全てを忘れて、ね」
 今にも泣き出しそうな声で、ぽつりぽつりと語るあゆの言葉を、祐一はうつむいたまま聞いていたが、ややあって、
「あゆ……そうだったのか、そうだったのか……!」
 絶叫に近い声で言うと、そのまま堪えきれずに激しく慟哭し始めた。
 のども枯れぬばかりの声と、音を立てて流れ落ちる涙。
 余りに激しいその感情の爆発に、あゆは、
「ちょ、ちょっと、祐一くん、落ち着いてよ……」
 自分も泣きそうだったことなど忘れ、むしろ戸惑いの色を見せている。
 しかし、そのあゆの声は祐一には届かない。彼の口からは、
「俺は、最低だ……あゆが死んだと思い込んだのをいいことに、つらい思い出だからって逃げて、眼をそらして、都合のいいように解釈して……そして、自分の犯した罪をすっかり忘れちまった。それで、あゆが俺に本気で会いたいって思って……何としても会って、俺と一緒に暮らしてみたいと思って、生霊にまでなって来てくれたってのに……俺は、ちっとも気づいてやれなかった。お前のつらく、悲しい気持ちも分からないで、つまらないちょっかいばかり出して……最低だ、最低だ、最低だ!」
 息つく暇もなく、次々と自分を責め立てる言葉が飛び出してくる。
「祐一くん、そんなに自分を責めないでよ……ボク、気にしてないんだから。思い出してもらえなくても、祐一くんともう一度会えただけで、ボクはそれで満足だったんだから」
「……言うな、言わないでくれ!」
「そ、そんな……嘘じゃないよ、本当にそう思ってるんだから」
 そんなあゆのとりなしにも、祐一は、激しくかぶりを振り、
「いや、いや、いや……お前がいいって言っても、俺はよくないんだ。誰が見たって、俺のやったことは最低だ。その罪を、俺自身が雪(そそ)がない限り、俺はお前に会わせる顔がないんだ!」
 泣きじゃくりながら言い張るばかりで、全く聞かない。
 と、その時、さすがにたまりかねたか、美汐が口を出した。
「待ってください、祐一さん、あゆさんの言うことも聞いてあげてください。自分が悪い、自分が悪いのいっぺん調子じゃなくて」
 しかし、そんな美汐の言葉も、祐一は、
「美汐……俺を罵倒したかったら、素直にそうしていいんだぞ。俺を傷つけまいと、慰める必要なんてない」
 完全にはねつけてしまう。
「そ、そんな、ゆ、祐一さんを罵倒するなんて……」
 余りに祐一らしくない発言に、美汐はどもってしまい、そう答えるのがやっとだ。
 その美汐の様子を見て、奥の方にいた浦藻が、
「祐一さん、聞いてあげてください。あゆさんを含め、誰もあなたが自分を責め立てることなど望んではいないんですよ」
 たしなめるように言い出したが、これに祐一は、何と彼をじろりと睨みつけ、
「……あなたに何が分かるってんですか」
 吐き捨てるように言ったものである。
「何ですって……?」
「それとも何ですか、俺がシロだと、神様が保証してくださるって言うんですか」
 その挑みかかるような口調に、浦藻の顔に一瞬怒りの色が昇ったが、すぐに冷静になり、
「いいでしょう。私も神に仕える者です。あなたがそう言われるのなら、実際に神にことの黒白をつけていただこうではありませんか」
 祐一を睨み返すようにして言い出した。
「ちょっとお兄ちゃん、ど、どうする気なの」
 突然の兄の発言に、真琴が戸惑って口をはさむが、浦藻は、
「黙っていなさい」
 いつになく厳しい声でぴしゃりと言う。
 一方、祐一の方は、まさか浦藻が本気で神意をうかがう、などと言い出すとは思わなかったので、毒気を抜かれてしまい、
「えっ!?ほ、本気でやるんですか?」
 困惑しておろおろとしている。
 しかし、そんな祐一に、浦藻は、
「落ち着きなさい。元はあなたが言い出したことでしょう。その代わり、恨みっこなしですよ。……もし、これであなたが邪と出たなら、その時は好きなだけ自分を責め立てるがいいでしょう」
 冷たく言い放ち、真琴を引き連れて建物の外へと出た。


 建物の外へ出ると、浦藻は、
「真琴、探湯瓮(くかべ)をこれへ」
 きびきびと真琴に指示を出す。
 その言葉を聞いて、真琴は一瞬ためらったようだが、
「何してるんだ、早く」
 浦藻に急かされ、慌てて部屋の奥の方へその「探湯瓮」なるものを取りに向かった。
 それを見て祐一は、せわしなく動く兄弟の姿に戸惑い、
「何だ、一体何をしようってんだ……」
 困ったように言ってみせる。
 しかし次の瞬間、美汐の方を振り向いた時、彼女の顔色が青くなっているのに気づいた。
 そのただならぬ様子に、祐一が、
「おい……どうしたんだ?これから何が始まるんだ?」
 訝しげに訊ねると、美汐は、
「……盟神探湯(くかたち)です」
 表情を変えず、静かに言った。
「盟神探湯?何だそりゃ」
「誓約(うけい)と呼ばれる、神話上での裁判儀式に類するものの一つです。二つの結果が生じるような儀式を行い、もし参加する者が正ならば一方の結果に、邪ならばもう一方の結果になるように、と神の前で宣言し、生じた結果によって正邪を判断するものです。もっとも、正邪の判断だけではなく、罪の有無、戦の勝ち負けの判断などもあるのですが……」
「何だ、要は占いじゃないか」
「そうとも言えますが……普通のやり方じゃないんです。特に盟神探湯は……」
 そう言って「盟神探湯」の説明を始めようとした美汐の声は、
「準備が出来ました。みなさん、こちらへ」
 という浦藻のかけ声によって断ち切られた。
 一同と共に、納得が行かない、という顔つきで神籬の前に向かった祐一の前にまず差し出されたのは、水の入った桶だった。
「儀式を始めます前に、これで身をお清めください。本来は禊(みそぎ)のごとく全身を清めて頂くのですが、急ぎですので両手と口だけおすすぎ下さい」
「はあ……」
 その厳かな口調に、祐一は言われるままに手と口をすすぐ。他の一同もそれに従った。
 そして、神籬の前に敷かれた薦(むしろ)の上に、浦藻の指示通り、祐一だけを前に出して横に並んだところで、浦藻は、
「さて……これより、祐一さんの正邪について判断するために、盟神探湯の儀を始めます。まず祝詞を奏上いたしますので、その間ご静粛に願います」
 静かに言い、祝詞を書いた巻紙を持って背を向ける。
 そして、「おう……」と警蹕(けいひつ)の声(神の降臨に注意を喚起するための声)を上げると、滑るように祝詞本文へと移ってゆく。
「掛けまくも畏(かしこ)き物見神社(ものみのかみやしろ)に底つ石根(いわね)に宮柱太知り、高天の原(たかまのはら)に氷椽(ひぎ)高知りて坐(ましま)す味耜高彦根命、日本武尊、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の大前を拝(おろが)み奉りて、畏(かしこ)み畏みも白(もう)さく……」
 上代語の特殊な語彙が連続する。何か盟神探湯の儀の内容について言っているようなのだが、一般人である祐一には全く分からず、怪訝な顔を崩さずにそれを聞いていた。
 長い祝詞奏上が終了した後、浦藻は、
「それでは、これより火を鑽り(きり)、湯を沸かします」
 そう言い出した。
(湯を……?)
 祐一が改めて顔を上げ、神籬の前を見てみると、中央に素焼きの大きな壺が一つすえられ、底の周りに薪が何本か置いてある。
 これが、先ほどの「探湯瓮」というものなのであろう。
 その探湯瓮に、真琴がいっぱいになるまで水を注ぐ。
 その横で、浦藻は、縄文時代に使われていたような棒と板を使った火起こしを使い、火を起こしている。
 かの出雲に鎮座する熊野大社の、火鑽神事(ひきりしんじ)を思わせる光景であった。
 随分と長い時間をかけたあと、やっと板から煙がくすぶり、小さな火がちろちろと顔を出す。
 浦藻はそれをあらかじめ用意してあった別の細い木の棒に移すと、それを火口(ほくち)代わりにして、薪に火を移す。
 それを真琴が火吹竹で吹くと、火はあっという間に火力を増し、探湯瓮の水を焚き上げて行く。
 そして、いい加減沸騰し、ぶつぶつと泡立ってきたところで、浦藻が、
「祐一さん、こちらへ」
 祐一を探湯瓮の前に呼びだした。
 ぐらぐらと煮え立つ探湯瓮と真面目な顔の浦藻を交互に見ながら、戸惑いの表情を浮かべる祐一に、浦藻は、
「いいですか、先ほど私は、神にこう申し上げました。
『これより火をもって湯を沸かし、その中に手を突きこませます。その際、その者に罪がなければ決して火傷することなく無事であるように、またその者に罪があれば必ず火傷するように』と」
 信じられないことを言いだしたものである。
「えっ……!?」
 それを聞いた途端、祐一の顔が一気に青くなった。
 暗に煮えたぎった湯の中に、手を突きこめと言われたのだから、当然であろう。
 しかし、そんな祐一の様子に構わず、浦藻は、
「それでは、腕まくりをして、ひじまでこの湯の中に浸けてください」
 平然と言い、祐一の腕を取って袖をまくる。
 ここまでされて黙っている祐一ではない。
 右腕をつかんだ浦藻の手を、無理矢理に引きはがすと、
「冗談じゃない!火傷するに決まってるじゃないか!」
 激しい口調で食ってかかった。
「そんなことはありません。火傷するかどうかは、あなたの罪次第です」
 浦藻の取りなしにも、祐一は、
「馬鹿いえ、こんなことで分かるもんか。こりゃ魔女裁判だ!」
 必死の形相で抗議する。
 しかし浦藻は、
「口を慎みなさい!」
 凛然として言い放った。
「う……」
「盟神探湯の儀は、そのような無辜(むこ)の民を罪に陥れんためのいんちき裁判とは違うのです。騙されたと思って、やってごらんなさい」
「………」
 祐一は、今や浦藻の気魄(きはく)に完全に呑まれていた。
 なおもぐつぐつと煮え立つ探湯瓮と、自分の腕を見比べる。
 浦藻は、罪がなければ火傷しないと言ったが、それを信じたとしても、自分は火傷するだろう。
 何せ、あゆを半殺しにしたあげく、その現実から眼をそらそうと全てを忘れてしまったのだから……。
 ちらりと、こちらを見ている他の面々の方を横眼で見てみる。
 やはり、眼の前で祐一が煮え湯の中に手を突きこむよう強制されているのを見て、心穏やかではないようだ。
 名雪や美汐などは片膝を立てて、いざとなればこちらに飛びこんで来る構えである。
 しかし、その前には、いつの間に張られたのか、結界が走っている。
 これでは、飛びこみたくても飛びこめないし、逃げたくても逃げられない。
 まさに、八方ふさがりであった。
 その現実をまざまざと見せつけられた祐一は、しばらくの間苦渋の表情を面に表していたが、ややあって、
(ええ、ままよ。火傷したところで、あゆへの償いだと思えばいい)
 半ばやけになってそんなことを考えた。
 そして、勢いよく右の袖をまくり上げると、
「えいっ……!」
 気合い声をかけ、おもむろに湯の中へ腕を突き込んだものである。
「きゃあっ……」
「ゆ、祐一さんっ!」
 背後で、一同の悲鳴が響きわたる。
 祐一は、ぎゅっと眼を閉じたまま、長いこと身動きもしなかったが、やがて、
「あれ……?」
 気の抜けたような声を上げた。
 腕を浸けた湯は、未だ火の勢いのままに煮え続けている。
 それなのに、
(ちっとも熱くない……)
 のである。
 湯の中で腕を回したり手を開いたり閉じたりしてみるが、いくらそんなことをしてみても、湯の熱さは伝わってこない。
「………?」
 後ろで見ている観客陣も、祐一が煮え湯をかき混ぜているのを見て、何が起こったのかさっぱり分からず、呆然としている。
 祐一は、思い切って腕を抜いてみた。
 先ほどまで、恐ろしい温度の中にあった腕には、傷ひとつついていない。
 赤くなってもいないし、痛くもない。至って正常なままであった。
「ゆ、祐一!大丈夫!?」
「祐一さん!?」
 祐一が急に湯から手を引き抜いたのを見て、一同が口々にその安否を確認する。
 その一同に、祐一は、
「あ、ああ、大丈夫だ。この通り、何でもない。信じられないことだが……」
 湯に浸した方の腕を振ってみせた。
 信じられない、という感じのざわめきが、一同の中からわき起こる。
 そのざわめきを、浦藻は、
「みなさん、ご静粛に」
 静かに言って収めると、祐一の方に向き直り、
「これで、お分かりになったでしょう。あなたが『罪』と思っていることは、天つ神(あまつかみ)は『罪』とは思っておりません」
 祐一の眼をまっすぐ見ながら言う。
 しかし、祐一は全く納得が行かない様子で、
「で、でも、罪を犯したことには変わりはないのでは……」
「ですから、それは『罪』ではないと申し上げたでしょう」
「だ、だけど」
 なおも食い下がる。
 その祐一を、浦藻はぎろりと睨みつけたかと思うと、
「お黙りなさい!」
 その細い躰の、どこから出て来たのかと思うほどの大音声(だいおんじょう)で、ぴしゃりと決めつけた。
「う……」
 その一喝にひるんだ祐一を一瞥すると、浦藻は静かに語り始める。
「あなたはまだお分かりにならないようですね。もっとも分からないからこそ、このように危険な誓約を強引にやって頂いたのですが、ね」
「………」
「確かに、あなたは結果的にあゆさんにひどいことをしたかも知れません。落ちた直接の原因たる突風は仕方ないにせよ、先にあゆさんを木に登らせたのは、あなたの過ちだったと言えないこともありません。落ちた後、その現場の凄惨さと、あゆさんをそんな目に遭わせたという後ろめたさのために、現実を正視せず、記憶から消し去ってしまったことも、言ってみればあゆさんの存在を踏みにじり、自分のやったことを曖昧にしてごまかしてしまった、卑怯な罪と言えないこともないでしょう」
「………」
「しかし、これらのことが、果たして『罪』と責められるのでしょうか?前者については、危険な木の上に女の子を先に登らせたのはまずかった、という判断も成り立ちますので分かりませんが、後者の方はどうでしょうか?」
「………」
「現実から逃げたこと、それをあなたは『罪』とおっしゃいます。しかし、しかしですよ……ならばあなたは、その『罪』と称する行動――すなわち、余りに辛い経験から逃げ出し、記憶の中に封じこめる行動――を、しない自信があった、いや、今もあるとでもいうのですか?」
「そ、それは……」
「それは?」
「それは……残念ながら、ない、です」
「そうでしょう。一般的に、現実から逃げ出すことは、神に対する不敬行為のように言われて責められます。しかし、幼い身で、自分の友人が木から落ち、頭から血を流して倒れて死に瀕している、ということを眼にして、正常でいられる人間がどこにいるでしょう。そんなものを見れば、誰だってつらいでしょう。誰だって嫌でしょう。誰だって忘れてしまいたいでしょう。あなたは、その気持ちに従って、忘れてしまったまでのことです」
「………」
「祐一さん、人間は弱いものなのです。恐らく、あなたは、自分の心をいつでも正しく律することが出来ると思っているのでしょう。しかし、それは傲慢な考えです。いざとなれば、おのれの心なぞ、簡単に自分の思いを離れてどこかへすっ飛んでいってしまいます。そうなれば、もはや制禦は出来ません。心に適わぬこともしましょう。傍から見ればとんでもないと思うこともしましょう。しかし、それは自分では止めようがないのです」
「………」
「自分勝手なことを、ひとさまに悪いことをしたのだから罪に決まってるじゃないか、とお思いでしょう。しかし、そもそも社会で、白黒をつける必要があることなどどれくらいあるのでしょうか。少なくとも、日常生活の中ではその必要はほとんどないでしょう。誰しも、いいことも悪いこともしなければ生きては行けません。それがいろいろ絡み合って、この世は成り立っているのです。そこに、必要のない正邪を持ちこむことは、いたずらに秩序を破壊し、人を傷つけるだけです」
「………」
「もっともですね、逃げたことが自然な心の働きだ、と言っても、逃げおおせようと思うことは誤りです。いつかは、その逃げたことと直面せざるをえないところまで来ます。そうなれば、大抵の人間は、今の祐一さんのように逃げたことを『罪』として苦しみ、自分が何をすべきか葛藤します。自分の弱さを認めたくがないために、ね」
「………」
「しかし、その葛藤の中で、『罪』という概念が弱さを認めたくないがゆえの不毛な概念であったことに、自然に気づく時が来ます。そうすれば、おのずから自分のしたことに向き合い、始末をつけようと精一杯進んで行くことが出来るのです。真に強い者は、そのようにして生まれるものなのです」
「………」
「本当はですね、こういうことはあなた自身が自分で気づくべきことなんです。しかし祐一さんの場合、それが出来ていながらまったく自覚がありませんでした。ですから、こんな荒療治に出たんです」
 その思いがけない言葉を聞いて、祐一は、驚いたように顔を上げ、浦藻を見た。
「俺が……出来ていたって?どういうことですか」
「やっぱり、自覚がなかったんですね。真琴のことですよ」
「真琴の?」
「そうです。話は大体真琴から聞きましたが……あなたは、最初こそ自分が真琴を捨てたせいでこんなことになったと自分を責めていましたが、やがて、真琴の限られた時間を少しでも充実させてやろう、と捨て身の努力をしたそうですね」
「え、ええ」
「その充実させてやろうという行動ですが、少なくとも二つの見方があるでしょう。償いという義務感から、善意をもって真琴を甘えさせたという考え方。そして、償いの如何にかかわらず、真摯に真琴という人格に向き合い、ただ誠意をもって真琴を最期まで生かしてやろうとしたという考え方です」
「………」
「実際のところ、あなた自身も、そして私自身も、それらのうちどちらかであると言い切ることは出来ないでしょうね。しかし、少なくとも、後者の方が大半であるということは出来るでしょう」
「……何故ですか?」
「例えばあなた、そうやって幼児退行する真琴に接している時、自分が真琴を捨てたからこうなっただの、これは自分の罪だだのと考えていましたか?」
「い、いえ……真琴が消えた後で、またそういう気持ちにはなりましたが」
「そうでしょう。そんなことを考えれば、絶対人間は自虐的になります。自虐的になれば、到底あんな行動に出ることは出来ません」
「………」
「それが出来るのですから、あゆさんに出来ないわけがないでしょう。もし、自分で責任を感じるのなら、罪だ罪だと自分を責め立てずに、ただ真摯にことの始末をつけようと努力することですよ」
「そう、ですか……」
「分かっていただけましたか」
「え、ええ」
 そう言って祐一がしっかりとうなずくと、それまで厳しく引き締められていた浦藻の顔にふっと笑みが浮かんだ。
「ほら、涙を拭いてください。せっかくの美男子がもったいないったらありゃしない」
 そう言って手ぬぐいを渡すが、祐一は瞑目したまま、じっと浦藻に手を合わせている。
 それを見て、浦藻は照れくさくて仕方がないという顔になり、
「やめてくださいよ。私は躰こそお化けみたいなもんですが、別に仏さんになったわけじゃないんですから」
 しきりに手を振ってみせる。
 しかし、祐一は、
「おや、これは異なことを……俺は神だと思って拝みましたがね。ご神職ですし」
 いたずらっ気たっぷりににやりと笑ってみせる。
 その言葉に、浦藻は一瞬「しまった」というような顔になったが、すぐに破顔し、
「はは……こりゃあ確かに……」
 言いさしたかと思うと、
「違えねえや」
 ころりと伝法な口調になった。
「は、はは……」
「は、はは……」
 朗らかに笑う二人の足許で、薪を焼き尽くした火が、ぶすぶすとくすぶっている。






 その後は、
「まあ、せっかく来て頂きましたし、堅苦しい話は後日にして……」
 という浦藻の一声によって、半ば茶会のような雰囲気になった。
 もちろん、完全によく状況の分かっていないあゆに対する事情の説明をしたり、あゆ側の事情も聞いたりした。
 何でもあゆの語るところによると、探し物=天使の人形のことを思い出したものの、祐一が真琴とつきあっているのを見て、観念して消えようとした。
 しかし、そこで神とおぼしき何者かに会い、
「お前の好いていた者の幸せのために尽力すれば、特別に生き返らせてやる」
 と言われたのだという。
 姿が見えなかったので相手が誰かは分からなかったが、夫婦だったらしいことから、美汐などは、
「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)では……」
 とも推測したが、詳細は分からない。
 ともかく、どうしても生き返りたい、という気持ちのあったあゆはそれを受け、二月中頃に生霊よりも存在の薄い霊体となって蘇り、それから状況把握のために長いことかけずり回ったようだ。
「とにかく、大変だったんだよ……神様、何も教えてくれなかったから」
 あゆが調査を始めた頃には、既に真琴の一件も終わっていたので、そう簡単にはいかなかった。
 姿を現して祐一に訊けば早かったが、祐一自身がかなりまいっていることや、下手に眼の前に現れたりすれば今日のようなことになりかねない、ということを考えると、それだけは出来なかったという。
 結局、姿を消したまま祐一を密かにつけ回して、行動を観察するしかなかった、というあゆに、祐一は、
「おいおい……じゃあお前、ずっと俺のことをストーキングしてたってわけか。趣味の悪いやつだ」
 わざと嫌そうな顔をしてみせる。
「うぐぅ……仕方がなかったんだよ。でも、部屋の中までは入らなかったから……」
「当たり前だ。部屋の隅で、男の密かなる楽しみの数々を見届けられちゃ、俺だってたまらん」
「ひ、密かなる楽しみって?」
「……あゆよ、世の中には知らない方がいいこともあるんだぞ」
「うぐぅ……」
 それで、一通り状況をつかんだ後、とりあえず妖狐の住処にいる真琴の様子を見ようと、今日ここまでやって来た。
 しかし、やって来たのが浦藻が例の通気口をふさぐ前だったので、うっかりそこで殺生石の妖気に触れてしまった。
 そして余りの苦しさに一旦飛び去った後、また戻ってきたものの、あの大広間にたどり着いたところで力つきてしまった……ということらしい。
「それで、突然祐一くんや秋子さんがいたりするもんだから……びっくりしたよ」
「そうだろうな。まさか、俺もお前に会えるとは思ってもみなかった」
「とにかく、祐一くん、浦藻さん、真琴ちゃん。ボクもお手伝いするよ。祐一くんを助けろって言われてるし、それに……」
 言いさして、あゆは、突然赤くなったかと思うと、
「今も祐一くんのこと……好きだから」
 思いもかけないことを言いだしたものだ。
 この言葉に、祐一が、
「ぷっ……」
 驚きのあまり飲んでいた茶を吹き出しそうになった。
「祐一くん、汚いよ……」
「そ、そんな場合か!あ、あゆ、お、お前なんてことを……」
「まあまあ……いいじゃありませんか、祐一さん。その想いがあったおかげで、こうやって再会出来たんですから」
「そりゃまあ、そうですが……」
 まだ納得がいかないという感じの祐一をよそに、秋子は、
「さあ、お菓子を持って来てますから、食べてください」
 部屋の奥から差し入れたらしい茶うけをいろいろ持って来た。
 そのあとは、めいめい勝手なものである。
「いちご、いちご」
「うぐぅ、名雪さん、それボクの……」
 などと、いちご大福やいちごポッキーなどを奪い合う名雪とあゆ。
 そして、
「だから、土佐神社では味耜高彦根命と一言主命が同一の神であるという話があるんだけど……」
「でも真琴、一言主命は系譜上、不明な神なんだぞ」
「それに、雄略天皇に敬意を払われたかと思うと、逆に追放されたりする、変な神様ですし」
「まあ、あくまで社伝ですから……」
 などと、祐一にはとてもついて行けないような神社話に興じる真琴と浦藻、そして美汐と秋子。
 祐一は、真琴のことを率直に言えば子供だと思っていただけに、そのような専門的な会話に加わってまったく遜色がないことに驚きながら、話が一段落するのを待っていた。
 そして、結局論争が真琴の負けで終わったのを見て、祐一は、
「おい真琴、久しぶりで会ったんだ、ちょっと二人きりで話そうぜ」
 そう言って、彼女を外へ誘いだしたのである。
 しかし、当の真琴は、どういうわけか、
「あぅーっ……」
 そうつぶやいて、恥ずかしそうにうつむいている。
「おい、どうしたんだよ。恥ずかしがる仲じゃないだろうが……」
 祐一がとりなすが、真琴は動かない。
 それでも、秋子と浦藻に、
「行ってらっしゃい。せっかく恋人同士になったんだから」
「そうだぞ、真琴。お前、いつも会いたい、会いたいって言ってたじゃないか」
 優しく言い聞かされ、しぶしぶ席を立った。
 そんな真琴を、祐一は建物の入口にある階段に座らせるが、真琴は、
「………」
 黙ったまま、なかなか祐一を見ようとしない。
 ちりん、と手を動かすたびに鳴る鈴の音も、どこかよそよそしい。
 その様子に、さすがの祐一もしびれを切らした。
「おい、一体何だってんだよ」
「………」
「俺、何か悪いことでもしたか?」
「………」
「まさかお前、浮気したんじゃなかろうな」
 この「浮気」という言葉に、真琴が突然反応した。
「ちょっと、祐一!失礼なこと言わないでよ!」
 食ってかかる真琴に、祐一は、
「じゃ、じゃあ何なんだよ……俺に何かやましいことでもあるのか?」
 驚きながら言う。
「やましいことなんてないわよ。た、ただ……」
「ただ?」
「ただ……」
 と、そこで、真琴が耳たぶ……いや、この場合は耳の中まで真っ赤になったかと思うと、
「ただ、消える前のことを考えると、恥ずかしくて仕方ないからよぅっ!」
 一気に叫んでみせたものだ。
 意外な答えに、祐一が、
「はあ?……しょうがないだろ、最後のあれはそういうもんだったんだから」
 拍子抜けがしたように言うと、真琴はぶんぶんと首を振り、
「そうじゃなくて、そっちのほうじゃなくて、それより前のことよぅっ」
 さらに顔を赤くして言う。
「前のこと?……ああ、いたずらとか、いろいろな悪さのことか。何でそれが?」
 平然として言う祐一に、真琴はさらに顔を赤くしたかと思うと、
「だ、だってそうじゃないのよぅ!いやしくも妖狐の族長の妹が、夜中にひとさまの部屋に忍びこんで殺虫剤焚いたり、お風呂に味噌入れたり、お使いのお金使いこんだり……それで、祐一や名雪や秋子さんを困らせたりしたんだから、今思い出すだけでも恥ずかしいわよぅっ!」
 首をぶんぶん振りながら、耐えられないというように言い返す。
 ちりちりと激しく鳴る鈴の音の中、この発言に、祐一は唖然となった。
 あの頃は、どんなに悪いことをしても秋子に許してもらえることをいいことに、祐一が叱りつけても反省の色すら見せなかった真琴が、今再び会った時には、自分の昔の行為を恥じている。
 先ほどの神社談義といい、これといい、前の真琴と今の真琴の間に見えてくるあまりの落差に、祐一は戸惑いを隠せなかった。
 しかし、だからといって、真琴の核となる性格自体は、
(変わっているわけじゃない)
 のである。
 そう思った祐一は、すぐににやりと笑うと、
「あーあ、もし触れたら、ここで一つ頭を小突いてやるところなんだがなぁ」
 真琴の頭のあたりを、拳でぶんと振ってみせた。
「な、何でそんなことするのよ」
「ばーか……そんなこと、気にする必要ないからだよ。俺もみんなも、お前のことを恥ずかしいやつだなんて思ってないんだからな」
「……でも、祐一は、あたしのこと子供だ子供だって馬鹿にしてたじゃないのよぅ」
「そ、それは……そうだけどな、でも、お前が変わったのが分かれば、俺だって認識を改めざるを得ないぞ。それどころか、進んで改めてやる」
「本当ね?」
「ああ、本当だ」
 真琴に眉をひそめて凝と見つめられ、祐一は狼狽しながらもそう答えざるを得なかった。
(これからは、うかつに真琴のことを馬鹿に出来ないな……)
 このことである。
 しかし、いつまでまいっていても仕方がないので、祐一は話を変えることにした。
「そんなことより、真琴……ひとつ訊きたいんだが」
「ん?何?」
「……浦藻さんって、昔、何かあったのか?」
 その問いに、真琴はあっけにとられたようであったが、すぐに、
「何でそんなこと訊くの?」
 問い返してきた。
「いや、な……さっき、盟神探湯の後で、俺に説教しただろ、あの人。でも、よく考えたら、お前の兄貴なんだから俺とそれほど違わないはずなんだよな。それがあんな人生訓みた話したって、普通はあまり説得力ないだろ。でも、あの人は、何だか妙に説得力があるんだよ……。だから、何かそういう経験をしてるんじゃないかと」
 祐一がそう言うと、真琴は、ふぅっ、とため息をつき、
「お兄ちゃんも……いろいろあったからね。あたしのせいで……」
 軽くうつむきながら言ってみせる。
 真琴が今まで余り見せたことのないその表情に、祐一が、
「何だって……?」
 怪訝な顔で問い返すと、真琴は静かに話し始めた。
「祐一……祐一は分かってると思うけど、あたしの『澤渡真琴』って名前は本名じゃないの。昔、祐一が好きだった近所のお姉さんの名前を、勝手に取ったものだから」
「そういえば……聞いてなかったな、お前の本名。やっぱり、浦藻さんと同じ『天野』なんだろ」
「うん……観月(みづき)。天野観月っていうの」
「へえ……いい名じゃないか」
 お世辞ではない。本気でそう思ったのだ。
「でも浦藻さん、『真琴』って呼んでたけどな」
「それは、あたしがそうしてくれって言ったから。だって、好きな人に『真琴』ってずっと呼ばれてたんだから、あたしもそっちの方が落ち着きがよくて……」
「こいつ、言ってくれるなぁ」
「そんなことはともかく……実は、あたしと浦藻お兄ちゃんは、本当の兄弟じゃないのよ」
「えっ……」
「本当は、従兄弟なの。祐一と名雪みたいに」
「へえ……」
 そういえば、浦藻と真琴は、兄弟のわりに顔が似ているとはいえない。
 それも、顔の輪郭が真琴は丸っこいのに、浦藻は細長いなど、根本的に異なっている部分も結構ある。
 自分と名雪の眼の大きさが明らかに違うのと、同じ要領であろうか……。
「ただ、今は養子に入って、扱いとしては本当の兄弟だけどね」
「養子って……お前、何でまた?」
 その祐一の問いに、真琴は、
「……あたしの本当の両親、あたしが十三の時に死んじゃったのよ」
 顔をうつむけて答える。
 しかし、その声は、どういうわけか悲痛なものではなく、むしろ逆の、嫌悪するかのような陰鬱なものであった。
「どうした?……何だか、余り悲しそうじゃないな」
「そりゃそうよ。ひどい両親だったもの……」
 そう言うと、真琴は露骨に嫌な顔をして、暗い床を厳しい眼でにらみつけた。
「あの人たちはね、あたしを自分の思い通りにしないと気が済まない人たちだったのよ。自分たちの思い通りのことをやらせて、自分たちの思い通りに出来るようにさせる。それだけしか知らないような人たちだった。……それが出来なかったり、少しでも逆らえば、そこに待っているのは過剰なまでの制裁。殴られたり、ご飯を食べさせてもらえないくらいならまだまし、最後には言葉で、あたしの心を痛めつけて……あんたなんかうちの子じゃない、おまえのことなんかもう信用しない、そんな言葉を、何回言われたことか!」
 そう言って、拳を握りしめ、がばっと立ち上がった真琴を、祐一は、
「お、おい、気持ちは分かるが、落ち着けよ」
 慌ててなだめる。
 彼としても、ここまで激昂した真琴を見るのは初めてだった。
「家族の愛なんか、感じたことなかったわよ……そのくせ、従兄弟の浦藻お兄ちゃんには優しいんだ。またお兄ちゃんもそれに甘えてたから……あの当時は、何でこんな嫌な従兄弟がいるんだろうって思ってた」
 話によると、祐一と初めて狐の姿で出会ったのも、そんな状況下だったという。
「それから両親はね、あたしが十三の時、四十一で死んじゃった。別に事故ってわけじゃなくてね、寿命だったんだけど」
「寿命?……人間と一緒だって話だったんじゃなかったか?」
「うん、本当はそうなんだけど……今は、殺生石の呪いのせいで、極端に短くなってるの。人口が極度に減ってるのもそのせい」
「何だって……とんでもない話だな」
「信じられないかも知れないけど、本当なのよ……それでね、そんな風に突然死んじゃったもんだから、さすがにあたしもショックだったし、悲しみもしたけど……正直なところ、これで解放される、って思ったの」
「………」
「でも、精神的に解放されても、あたしはまだ一人じゃ暮らせない。だから、親戚に預けられることになったんだけど、母親は一人娘の上両親は死に絶えてたし、父親は二人兄弟で……。もう、その時点で決まりよ。父方の叔父さんの家……つまり、天野の本家に行くことになったの」
「………」
「その当時、天野の本家も大変なことになっててね。もともと叔母さんが早くに亡くなってた上、叔父さんもあたしが来る前の年に心臓病で急死しちゃって……仕方がないから、お兄ちゃんが十六歳で族長の地位を継いでたの。そこに、他に親戚もないことだし、両親を亡くした同士で気も合うだろうと迎えられたわけなんだけど……あたしは、さっきも言った通りお兄ちゃんが大嫌いだったから、嫌で嫌で仕方なかったのよ」
 本来なら、両親を亡くした同士ならば、それなりに同じ境遇の人間として心理的に近くなりそうなものだが、やはり真琴と浦藻では親に対する考え方が違ったせいか、そういうことは起こらず、逆にぶつかり合うことが多かったという。
「養子に行った当時は、ずっと部屋に閉じこもってたの。あたしの気持ちなんて、誰にも分からない、話すだけ無駄……そう思ってたから。お兄ちゃん自身は、どうにかあたしを理解しようとして七転八倒してたけど、ほとんど空回りだった。そして、あたしをますますかたくなにして行って……」
「………」
「しばらくしてお兄ちゃんは、それは自分の不徳のするところだ、と自分を責め始めたわ。しまいには、小さいころの自分のあたしに対する態度がいけなかったんだ、とまで考え出しちゃって……。後から聞いた話だと、その辛さに堪えかねて、自分の想像の世界の中に逃げたこともあったみたい。そうしては、逃げるなんて卑怯だ、って自分をまた責めて……もう、ぼろぼろよ」
「………」
「そんなお兄ちゃんの気も知らずに、その頃のあたしは、人間の世界に憧れていたの。前に、祐一に拾われて優しくしてもらったことと、突然捨てられた恨みが忘れられなくて……。もちろん、人化すれば記憶をなくしちゃうし、命もないことも知ってた。でも、嫌な記憶ばかり持って生きてゆくより、いっそ全て忘れて死んだ方がまし、そう思って」
「………」
「本当は族長、つまりお兄ちゃんに相談しなきゃいけないんだけど……そんなことしたら駄目だって言われるのは目に見えている。だから、お兄ちゃんの眼を盗んで人化の秘法の方法を調べて……」
「それで、人間になって、俺の前に現れた……ってわけか」
「でも、それで結果的によかったのかも知れない。だって、祐一や名雪や秋子さんのおかげで、あたしは家族の……いや、人間の愛の何たるかを、身をもって体験できたから。だから、本当は消えちゃうの、嫌で嫌で仕方なかったんだけど、あきらめるほかなかった。……もっとも、それを薄々感じ始めた頃のあたしは、すっかり子供になっちゃってたけど、ね」
「しかし、予想に反して、お前は浦藻さんのところに……」
「そう。本当に、予想外だったわ。気がついたら、あの神籬の前に倒れてたんだから。最初に見つけたのが、お兄ちゃんだったんだけど……その姿といったら、もう、見れたものじゃなかった。やせて、疲れ果てて……きっと、ずっと自分を責めていたんだろうと思うの。それを見たら、もう謝らずにはいられなくて」
「………」
「あたし、謝って、謝って、謝り尽くした……だって、自分の狷介さがお兄ちゃんを追いつめたようなものだもの。それに対し、お兄ちゃんも謝って、謝って、謝り尽くしたわ。自分が悪いんだ、自分のせいであたしは心を開かなかったんだ、って。……そうやって、互いに自分を責め合う日々が続いて、その果てに、あの結論に達したの」
「………」
「そう、もう自分が悪かったと責めてばかりいても仕方ない。逃げたり、閉じこもったりしたけど……それは自分の弱さのため。今までの苦しみは、それを認めたくがないためのものだった。そう思った時、何だか胸がすっきりしちゃって。やっと、これでやり直すことが出来るって……」
「……なるほどな」
 長い真琴の話を聞き終えた祐一は、しばらくの間感慨深げに瞑目していたが、ややあって、
「それじゃ、なおさら俺は、お前を……いや、妖狐一族のみんなを救ってやらなけりゃいけないな」
 微笑を浮かべながらそう言った。
「え?」
「だってそうだろう?せっかく、そこまで苦労して、ぶつかり合って、意義のある人生を送ってるっていうのに……こんな穴ぐらの中で一生涯過ごすなんてもったいないじゃないか」
「う、うん……」
「それに、俺は、真琴がそばにいてくれた方がいいからな。お前だって、そうだろ?」
「う、うん、もちろんよぅ」
 戸惑いながらもしっかりとうなずく真琴を見て、祐一もまた力強くうなずく。
「さあ、戻って改めてお茶でも飲もうぜ。……何、肉まんがないのがちょっと不満だって?そりゃ仕方ないだろ、もう四月だぞ。……秋子さんに作ってもらえばいい?お前なぁ、飯が食えなくなるぞ。……そういえば、霊体のくせに飯は食えるし、物には触れるし、都合がいいよな、本当。……お化けが人に触れたらお化けじゃないって、まあ、そりゃそうだが、あゆの例があるからな。……あれは神様のご威光でああなってたんだから、反則だって?……まあ、そうかもな。は、はは……」


 結局、その日決まったことは、真琴と浦藻が今の状態では外に出られない関係上、話し合いは適宜ここに集まってするということと、一番躰の自由が利くあゆを連絡(つなぎ)に立てて、何かあった時にはそれで連絡を取り合うということだった。
 そして、二日後にまた会うことを申し合わせると、
「それじゃ、また」
「気をつけてくださいね」
「祐一、みんな、またね」
 浦藻と真琴の見送りをうけ、一同は大広間の側面にあったもう一つの出口から外に出る。
 正式な入口である古井戸が、余りに出づらい構造をしているので、バイパスとして作ったものらしく、これもまたしっかり深い草むらの中にカモフラージュしてあった。
 周りに誰もいないことを確認し、恐る恐る出てみると、外は既に夕焼けに染められている。
「いや、随分長くいたもんですね。秋子さんもいつもこんなになるまでいるんですか?」
「まさか……お仕事がありますからね。今日はたまたまお休みだったから、いられたようなものですよ」
 それに、駐車違反で切符を切られたらかないませんし、と秋子は笑いながら言った。
 林の外に戻ってみると、車は幸いにも巡回を免れたらしく、まだきちんと道ばたにあった。
「今日は早起きで、みんな疲れたでしょ?送って行ってあげますよ」
 そんな秋子の言葉に甘えて、三人は車に乗せてもらうことにした。
「いやあ……秋子さん、今日は、どうも申しわけありませんでした。嘘ついたりして……」
 ドアを閉め、エンジンキーを回す秋子に、祐一が申しわけなさそうに言う。
「本当、わたしも驚きましたよ。みんな、人が悪いんだから……」
「いえ、本当にすみませんでした。どうしても、秋子さんの様子が気になって」
「そうでしたか?」
「そうでしたか……って、話の間にぽかんとしていれば、誰だって変だと思いますよ」
「あら、いやだ……あそこでそんな桜を見たって聞いた途端、殺生石のことが気になってしまって……」
「そうでしょう。秋子さんらしくなかったですよ」
「わたしとしたことが……本当は、きちんと説明をしてからお連れしようと思っていたのに」
「まあ、いいじゃないですか。結果的に、うまく行ったんですから」
 そんなことを話していると、横合いから美汐が、
「祐一さん、きちんと謝らなくていいんですか?」
 眉をひそめながら言う。
「あ、そうか……どうも、すみません」
「いえいえ、もういいんですよ。……あ、それより」
「何ですか?」
「今日のことで、大体ことの次第は分かったかと思いますけど……でも、もう一つ聞いておきたいことがあるんじゃないんですか?」
「え……?」
「仕事ですよ、わたしの」
「あっ……」
 そうであった。元はといえば、そこまではっきりさせたいと思えばこそ、こんな思い切った行動に出たのである。
「ついでですから、ちょっと寄って行ってみますか?近いですから」
「え、いいんですか?」
「ええ。……これからいろいろとお手伝いさせて頂くこともあると思いますから」
 そう言うと、秋子は車を反転させず、そのまま道をまっすぐ走らせ始める。
 五分ほどで住宅地が途切れ、車は田園の中を走ってゆく。
 ややあって小さな集落と、それに不釣り合いなくらいの大きな病院の建物が現れた。
「あれ、こんなところに病院が……」
「南森赤十字病院ですよ。あゆちゃんが入っいてるはずです」
「えっ……そうなんですか!?」
「ええ。近津道(ちかつみち)の電停から歩いて来れますから、眼が覚めたらお見舞いに行ってあげてくださいね」
「へえ……」
 そう言っているうちに、車は赤十字病院の北の隅で左に曲がると、そのまままっすぐ走って市電の線路沿いにある小さな三階建てのビルの前にたどり着いた。
「着きましたよ。ここです」
「ここですか?……何だ、電車でも来れそうなところじゃないですか」
「まあ、そうなんですけど……近津道の電停と寮荘(りょうしょう)の電停の中間なので、どちらからも行きづらいんですよ。だから、わたしも車で来てるんです」
 そう語る秋子の言葉を聞きながら、眼の前のビルを見てみる。
 一階はガレージ、二階以上は事務所というごく普通のビルで、よく見てみると入口に「財団法人常磐木会(ときわぎかい)」と書かれた表札がかかっているのが見えた。
「常磐木会……?何をやってるところなんですか?」
「ええ、南森一帯の郷土史、特に神社仏閣についての調査や保存事業を行ったり、郷土史関係の本の出版を行っているところです」
 話によるとこの常磐木会には、素人の郷土史研究家から大学教授まで、南森市内に住む多くの郷土史関係者が属し、定期的に会合を開いたり機関誌を出したりするほか、多くの出版スタッフを雇って質のいい資料を出版したりしているという。
 しかも秋子は、何とその会長職を務めており、自ら調査・研究と出版の両方を手がけている、なかなかのやり手だそうな。
「えっ……か、会長なの、お母さんって!?」
「そうなのよ。元はお父さんが会長でお母さんが社員だったんだけど、お父さんが死んだ後でお母さんが継いだの」
「でも、私も図書館なんかでこちらの本を何度か拝見させて頂いてますけど……秋子さんの名前はなかったような」
 と、これは美汐。
「それはそうかも知れませんね。『山崎秋子』で書いてますから」
「あ……」
 「山崎」は、秋子の旧姓である。
 しかし、そこで祐一が、
「ちょっと待ってくださいよ。となると、変じゃないですか?」
 後ろの座席から口を出した。
「え、変って?」
「いえ、秋子さんって、あまり仕事のこと話すのが好きじゃないみたいなので。名雪も知らないっていいますし……でも、こんな立派な仕事をしてるんなら、もっと威張ってもいいんじゃないかな、と思いまして」
 このことである。
 この問いに対し、秋子はため息をつくと、
「それなんですけど……ちょっと事情がありましてね」
 困ったような顔で言ってみせる。
 秋子が語ったところによると……。
 実は常磐木会は、秋子が会長になってから二年ほどした頃に、どういうわけかある政治セクトに眼をつけられ、およそ五年以上もの長きにわたって執拗な嫌がらせを受けていたというのである。
「いえ、わたしたちはひとさまに迷惑をかけたり、法律に違反するようなことは何もしていないんですよ。それなのに、その人たちが因縁をつけて来て……。調査を妨害したり、ビルの前に押しかけてスピーカーで叫んだりするのは日常茶飯事。しまいには、会を誹謗中傷するようなビラを市内にばらまいたりして……。おかげでわたしたちは、いつどんな目に遭うか分からないと怯えてたんですよ」
 名雪や祐一にきちんと職業を言わなかったのも要はそのせいだ、と秋子は言った。
「ほら、その頃まだ名雪は小さかったから、下手に教えてしまうとどこで言ってしまうか分からないでしょう。もしそれで、会をつけ狙っている人たちに眼をつけられて、何かあったら取り返しがつきませんから……」
 結局五年半ほど経った頃、その政治セクトは公安警察によって別件で家宅捜索を受け、構成員全員が逮捕されて潰滅してしまったため、今では何も心配することはないのだが、それ以降も何となく言いそびれてしまって今まで来てしまったのだという。
「そうだったんだ……お母さん、大変だったんだね」
 自分の母がかつて直面した壮絶な体験に、名雪が悲痛な面もちで言う。
 その名雪に、
「そうなのよ……不安にさせて、ごめんなさいね」
 丁重に頭を下げる秋子に、名雪は、
「ううん、そんな怖い人たちに狙われてたんなら、仕方ないよ」
 取りなすように言い、秋子の眼を見た。
 しかし、やはり照れくさかったらしく、すぐに眼を離すと、
「わたし、そんなこと知らなかったから、何か人に言えない仕事でもしてるかと思っちゃったよ……」
 額に手を置きながら言う。
 と、その時、それを聞きとがめた秋子が、
「あら?名雪、あなた、お母さんのこと、そんな風に思ってたの?」
 わざと眉をしかめてみせた。
 それを見て、
「えっ、えっ、違うよ、祐一がそう言ったんだよー」
「おい、ちょっと待て!人のせいにするなよ!」
「でも、最初に言ったのは祐一じゃない」
「そりゃそうだけど……でもなあ」
 二人が狼狽しながら言い合い始める。
 その二人に、秋子はいたずらっぽい笑みを浮かべてみせると、
「あらあら……責任のなすりつけ合いはいけませんよ。これは、二人とも今日の晩ご飯はわたしのお気に入りジャムですね」
 と言う。
 と、その言葉に、今までかしましく言い合っていた二人が、
「ええっ……」
 驚きに満ちた悲鳴を上げ、黙りこんでしまった。
 秋子の「お気に入りジャム」……二人にとっては、忘れようとも忘れられない食べ物である。
 外見は橙色で、一見マーマレード風なのであるが、食べてみると全く違う。
 大体、ジャムのくせにほとんど甘くないのだ。舌触りもやたらにざらざらして、何とも無機質な味がする。
 そのとてもジャムとは思われない味に、祐一が、
「……食べ物ですよね?」
 思わずギャグ漫画のような、間抜けな質問を発してしまったほどのものなのだ。
 それを食べさせられるとなれば、二人が色を失うのも当然と言えるだろう。
「秋子さん……本気ですか?」
「ええ。せっかく、物見神社のことも知って頂いたことですし」
「……それとこれとは関係ないでしょうに」
「いいえ、関係あるんですよ。だってあのジャムは、神職家に伝わる秘伝の飴なんですから」
「ぐあっ……」
「名雪には将来この役目を継いでもらわなければいけませんし、祐一さんもこの一件に関わるからには、食べて頂きませんと、ね」
「………」
 二人とも、一言もない。
 その二人の横では、何も知らない美汐が、不思議なものでも見るかのような顔つきでその光景を見つめていた。
 低い築堤の上を、南森駅前へ向かう電車が一両、消え残る夕焼けの光に薄く照らされながら静かに駆け抜けてゆく。
 鉄橋のガーターの音が、切なげに鳴った。



<つづく>
(平十三・五・六)
[平十三・九・二十一/補訂]
[平十四・一・三十/再訂]
[平十六・二・八/三訂]
[平二十・二・八/四訂]

[あとがき]

 どうもこんにちは、作者の愛宕の山です。
 「花ざかり」第二回目「盟神探湯」、いかがだったでしょうか。
 前回の「妖花」で、不評ならば続けないと宣言いたしましたが、意外とみなさまによい反応や温かいお言葉を頂きましたので、第二話を書かせて頂きました。
 今回は前回と違い、非常に長くなってしまいまして、自分でも驚いております。書き終えた後で試しにタグを除いた総容量を出して、原稿用紙に換算したところ百二十五枚弱(!)にあたることが判明し、さすがに冷や汗を流してしまいました。
 その上、神社関係の専門用語を用いた難解で量の多い説明や、数多くの登場人物の登場、そしていろいろな出来事の描写などで、非常に内容が混み合っており、見苦しいものとなってしまっているのではないかと思います。
 しかし、言いわけをするわけではありませんが、ここで挙げました設定というのは、これから先、非常に大切になる設定でして……。
 殊に、「妖狐一族=廃絶式内社・物見神社の神職で、殺生石の呪いにより人化を阻まれている」という設定は、話の大前提になる関係上外せませんし、周辺の設定も、これと密接に関わる関係上、どうにもここでやってしまわないとあとにつながりません。
 それに、神道関係の用語は普通の人には非常に難解で、分かりやすく説明するだけでもかなりの行数を食います。とりあえず、美汐を説明役に立ててみましたが、やはり長くなってしまいました。
 そんな事情から、このように長いものを出す羽目となってしまいまして、読んでくださった方には苦痛を感じられたかも知れません。本当に申しわけありませんでした。
 それと、本文後半で出てくる浦藻の説教についてなのですが、これについても、「Kanon」の解釈に触れるものである以上、いろいろなご意見があろうかと思います。
 私の場合、どちらかというと「Kanon」に対しては、善悪・恩讐の価値判断を越えて、不器用にぶつかり合い、苦しみ、悩み、それでひたむきに一生懸命に生きていこうとする登場人物たちに対する賦であると考えています。だから、「罪」とか何とか言い合うのはやめようではないか、と。
 ただ、私はあくまで一介の新参者にすぎませんので、それがいかに小賢しいことを言おうと、もっと前よりこの作品と関わり、深い洞察をなされている方も多くいらっしゃることを考えれば、まだまだ浅い、と言われるのではないかと思います。もしご不快に思われましたら、お詫びいたします。
 ともかく、ここまでお読み下さいまして、まことにありがとうございました。
 それでは、第三回目でお会いいたしましょう。
 なお、今回の設定はこちらです。


[附記]

 文中の神名については、『古事記』(以下『記』)と『日本書紀』(以下『紀』)で表記が異なるものもありますが、一般的に神社では後者の方を用いる傾向があるため、ここでは『紀』に統一いたしました。
 なお、参考のため各神名について対応を挙げておきます。

 『紀』−『記』
 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)−阿遅耜高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)−倭建命(やまとたけるのみこと)
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)−宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)−伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)−伊邪那美命(いざなみのみこと)

 あと、文中で盟神探湯のシーンが出てまいりますが、これは『記』『紀』の神話の中で出てくる儀式を、あくまで作者が神社の神事らしく創作したものです(祝詞もそれらしく適当に作ったものです)。実際の神社の神事でも「盟神探湯」なるものはありますが、これらは新年の幸福を願ったり祓いのために、釜に沸かした湯に草を浸けるという、『記』『紀』の神話とはまったく異なったものです。あくまで、妖狐一族の力を表現するための手段としてご理解下さい。
 なお、『記』『紀』で出て来る盟神探湯についての説明はこちらです。


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