丘の上から
作/苫澤正樹 



 美坂姉妹が一同に合流し、慎司が浦藻と和解した翌日。
「みなさん。今日はご鍛錬の前に、太占(ふとまに)を行わせていただきたいので、神籬(ひもろぎ)の前に集まっていただけますか」
 洞穴に集まって来た一同を前に、浦藻がそう呼びかけた。
「ただあゆさんが欠けていますが……秋子さんの看病に残ってますから、しかたがないですね」
 そしてぞろぞろとやって来た一同を確認してそう言う。
 あれから、秋子には誰かしらそばにつく必要があるという判断から、香里と栞を除くメンバーが交替で看病についていた。
 一応、これ以上妙なものが寄ってこないようにと、妖力のない人間でも扱える呪符を浦藻が昨晩のうちに渡し、指示された通りに設置して家中に結界を張っているが、秋子自身が病人であることには変わりはないので、看病要員を半日交替で一人出すことに決まったのである。
「みなさんの鍛錬に、影響が出なければいいのですが」
 秋子はそう言って心配していたが、しかたのないことであろう。
 それはともかく……。
「太占というと……卜占ですか、この先のことについての」
「そうです。慎司君が合流してくれたので、やっと出来るようになりまして」
 浦藻がそう言うと、ちょうど当の慎司が社務所の障子を開いて顔を出した。
「族長、貞(と)う内容は三つでいいんですね?」
「ああ、そうだね。……何かあったかい?」
「いや、ここにゃ亀甲が六つしかないもんで……太占の最中に追加が発生する可能性を考えるとぎりぎりなんですよ。これ以上だとうちに取りに戻らにゃいかんと思いまして」
「そういうことか。なら大丈夫」
「分かりました……じゃ、刻み終わるまでまだもう少しかかりますんでお待ちあれ」
 そう言って慎司が障子を閉めたのに、祐一は、
「しかし何だ……あそこまで化けるとは」
 思わず苦笑しながらそうつぶやいた。
 今日、慎司は集まって来た一同の前で、土下座をして昨日までの自らの不徳と非礼を詫び、討伐への協力を約束した。
 特に美汐に対しては暴言を詫びるとともに、危険を冒してまで自分の眼を覚ますきっかけを作ってくれたことに対する感謝の辞があった。
 慎司に悪感情を持っていた祐一も、さすがにこの真摯な姿には心打たれ、彼を仲間として迎え入れる気になったのである。
 怒りに眼が曇っていただけで元々悪い男ではないのだろう、一同の赦しが出たと知るとあのように気さくな姿を見せている。
「まるで祐一か北川君みたい」
 とは、名雪の評である。
「しかし……大丈夫ですかね。俺に性格似てるとなると、当たらなさそうですよ」
「大丈夫ですよ。私との絶縁状態の時も、自分のことを占って練習していたそうですし、何よりお父上が英才教育を施していたらしいので」
「はあ……くじ運無茶苦茶に悪い俺とは、氏育ちが違いますか」
 そんな会話をしている間にも、神籬の前では真琴の手によって準備が着々と進んでいる。
 いつか盟神探湯(くかたち)の時にも使った、火をつけるための火鑽(ひきり)と火口のほか、大きめの石が四つばかり五徳のように並べられている。
 そして薪がその石の間に放射状に挟み込まれる。
恐らくこれで火をたいて、石の上に亀甲を置いて焼くのだろう。
「こっち、用意出来たわよぅ。もう刻めた?」
 そう真琴が社務所に呼びかけると、慎司が障子を開け放って出て来た。
「ええ、お嬢さん。今さっき、磨きまで終えましたから」
 その手には、何か書かれた亀甲が三枚と、まっさらな亀甲三枚が握られている。
「よし……じゃあ、始めましょうか。……みなさん、盟神探湯の時のように口と手を清められましてから、この火から少し離れたところにお座りください。あと、亀甲を焼く時は急に大きな音がしますので、苦手な方は耳をふさいでも結構ですよ」
 そう注意をする浦藻を尻目に、真琴が水の入った桶を持って一同の間を回り始める。
「よろしいようですね。じゃ、いつも通り祝詞の奏上より入りますので、ご静粛にお願いいたします」
 そう言うと、「おう……」という
警蹕(けいひつ)の声から、「掛けまくも畏(かしこ)き……」と祝詞本文に滑り込む。
 その左右に真琴と慎司がそれぞれ構え、真琴は筆と紙、慎司は
火鑽と火口に手をかけて祝詞が終わるのを待っている。
 そして、祝詞の巻紙が神籬の前にある八脚案(やあしのつくえ)に置かれたのを合図に、慎司が火を
鑽り始めた。
 さすがに日常的に火で卜占を行っている家の人間だけあって、
鑽る姿が洗練されている。
 すぐにぶすぶすとくすぶり始めた火を、慎司は火口に移してそのまま石の間の薪へ点火する。
 盟神探湯の時と違って水を沸かすわけではないので、火勢を強くする必要がないらしく、そこそこの火のまましばらく放置し、温度を手のひらで測る。
 そして、八脚案に置かれた亀甲のうち一枚を持ち出すと、火箸で静かに石の上へ置いた。
 ややあって、ばちいんっ、と唐突に硬いものの爆(は)ぜるような大きな音が響く。
「……ひっ」
 名雪と栞だろうか、予想以上の大きな音に思わず声を上げてしまい、「び、びっくりしたよー……」「えぅー、すごかったです」などと小声が聞こえて来る。
 しかしすぐそばにいる妖狐陣は平然としたもので、火箸で亀甲を取り上げると、裏をしげしげと眺め、
「……族長、冷ましている間に判じておいてください」
 そう言うと、また一枚、次にまた一枚と亀甲をあぶり、浦藻の前に出して行く。
 ここで、慎司は一旦火全体を囲むように金属の箱をかぶせ、浦藻たちのところへ向かった。
「どうです?」
「うーん、これなんだけどね……二枚目は、さらに突っ込んだ貞いが必要になりそうだと思うんだが」
「どれどれ……ええと、このひびの入り方は……」
 そう言って慎司は亀甲を手に取り、しげしげと眺めていたが、しばらくして、
「ああ、なるほど。こりゃ、追加決定ですね。文章ひねって刻まないと……。族長は、お嬢さんに今の結果記してもらっていてください」
 そう言って、懐から懐紙とまっさらな亀甲を一枚取り出し、筆で懐紙に下書きを始めた。
 さらにどこから取り出したか、面相筆でささっと亀甲に文字を書き、細い錐のような彫刻刀で表面を刻み始める。
 下書きから刻み終えるまで十五分程度。この臨機応変性
も、橘樹家の人間が頼られる要素なのだろう。
 そこまで出来たところで、慎司はさっき火にかぶせた金属の蓋を取り去って炎を復活させ、さらに追加の亀甲を焼く。
 そして再び判定作業に移る。今度は問題点は特になかったらしく、亀甲が追加されることはなかった。
「……さて、これで全て答えが出揃いました。今まとめましたので、発表いたします」
 神籬の横であれこれと結果をまとめていた三人の中から、浦藻と慎司が立ち上がって一同の前に立ち、説明を始めた。
「まず、これが今回の亀甲。最初の三枚と追加一枚、都合四枚だ」
「……え?何だ、その模様みたいなのは」
 てっきり普通の文字が書かれていると思っていた祐一は、亀甲の表面に乗った金釘でよく分からない文字の羅列に思わずそう訊ねた。
「ああ……まあ、普通は模様にしか見えんね。これが、いわゆる『甲骨文字』ってやつだ。うちでは伝統的に、書式も文字も殷王朝のやり方をしているんで」
「あの、漢字の遠いご先祖ってやつか。……俺、まだ世界史やってないからなぁ」
 そう言いながら佐祐理の方を振り向くが、
「あははーっ、む、無理ですよー……いくら学年主席級でも、四千年も前の文字は読めないですよー」
 困ったように笑うばかりである。
「いいか。じゃ、一枚目から。『甲申(こうしん)の日に卜(うらな)い、慎司貞う、殺生石を伐たんに、好日あるか、亦(ま)た禍(わざわい)なきか』。『〜貞う』までは記録用の決まり文句だからおいておいて、『命辞』と呼ばれる占いの主文を訳すと、『殺生石を伐つのによい日はあるか。また、災いはないか』。で、結果が……」
 そう言うと、慎司は亀甲の真ん中あたりにある文に指を滑らせ、
「『長判じて曰く、次の己丑(きちゅう)の日好日なり、しかして禍あり、戊子
(ぼし)の日、結界緩むあらんと』。決まりなんで判定は族長にやってもらったんだが、それによると、『次の己丑(つちのとうし)の日がよい日だが、災いがあって、戊子(つちのえね)の日に結界が緩む』と。日付で言うと、次の己丑は七日、この日が一番討伐にいい日、ということになる。だが戊子は干支の順番だとその前日、六日だ。この日に結界が緩むので注意する必要があるってことだな」
 こともなげに言う慎司に、祐一が、
「え、それって大丈夫なのか?伐つ前日に親玉に逃げられでもしたら、俺たちどうにもならんぞ」
「逃げはしませんよ、さすがに。ただし、その日が最大警戒なのは言うまでもありませんね。鍛錬の最中に中途半端に危険な状態になった場合、大変なことになりますから……その日は、外で待機されるのが一番だと思います」
「うーん……となると、今日が二日だから、実質今日入れて四日しかないわけですか。……そうだ、方法は?方法はどうなったんだ?」
 迫る祐一に、慎司はぱたぱたと手を振ると、
「ああ、安心してくれ。そいつが二枚目だ。『
甲申の日に卜い、慎司貞う、殺生石を伐たんに、好策あるか』。意味はまんま、『殺生石を伐つのによい策はあるか』。で、結果だが、『長判じて曰く、五芒星の各頂点を突き、終わりに中心を穿つべくあらんと』で、線で結ぶと五芒星の形になるように石を突いて、最後にど真ん中に一発ぶち込む、というのが方法だ」
「点の排列を五芒星形にするのか……こりゃ難しそうだな」
「まあな……しかし、これだと誰が担当するのか分からんのでね、追加で一枚、『
甲申の日に卜い、慎司貞う、殺生石を伐つ者、天野浦藻、澤渡真琴、橘樹慎司、相澤祐一、月宮あゆ、水瀬名雪、天野美汐、川澄舞、倉田佐祐理、美坂栞、美坂香里在り、誰行うべきか』とやってみた。こいつが長たらしい答えで、『長判じて曰く、一に左上を栞と香里、二に右上を舞と佐祐理、三に左下をあゆ、四に上を名雪、五に右下を美汐、六に中を祐一と真琴で突くべし、浦藻と慎司は結界を護るべくあらんと』。図にするとこうだな」
 そう言って、慎司は突く順番と各人が伐つべき場所を図示した大きな紙を広げた。
「五芒星の書き順で突いて行くわけか。しかし、あゆと美汐が大変な場所だ」
「腰、痛めそうですね」
「……そこを突くことに集中して訓練すれば、何とかなる」
 ようやく分かった討伐法に、早くも舞の頭の中では新たな訓練法が組み立てられているようである。
「最後だ。『
甲申の日に卜い、慎司貞う、殺生石滅ばば、呪い解けて人に化す能(あた)うか、亦た寿(いのちなが)くあるか』。『殺生石が滅べば、呪いが解けて人に化けられるようになるか、また長寿でいられるようになるか』。せっかく討伐しても、人間に化けられなかったり、短命じゃ意味がないからな。答えは、『長判じて曰く、化す能うなり、亦た寿くあらんと』。明確に、イエスと出たわけだ」
「そりゃあ、何よりだ……実言うと、心配してたんだよ。せっかく外に出られるようになっても、先立たれたら、と思うとな……
あんな思いは、一度で充分さ。せっかく帰って来るんなら、偕老同穴、比翼連理、共白髪でいたいもんだ」
 安心したような表情でそう言う祐一に、慎司は、
「……お前、よほどお嬢さんのこと、好きなんだな」
「そりゃそうさな。でなけりゃ、あいつのために何度も死にかけたりしねえよ」
「違えねえ。……お前のその心が、消えてしまうはずのお嬢さんの魂を、この世へつなぎ止めたのかも知れんなあ」
「………」
 そう言って親しげに、しかし寂しげに笑う慎司に、一同は何も言うことが出来なかった。


 さて……。
 それから四日間、祐一たちの本格的な訓練が始まった。
 四日で全員が技を身につけるのは難しいのではないか、と祐一は懸念したが、舞は、
「……剣を振るうのではなく突くだけなら、剣が使えなくても大丈夫。確実に的を狙うこと、これをきちんと身につけさえすれば上手く行くはず」
 そう言って、殺生石とほぼ同じ大きさの土まんじゅうをいくつか作ってもらい、それを石に近い硬さまで術で固めてもらったものを練習台に、各人所定の場所を突く練習を始めたのである。
 今までと違いただ突くだけとあって、一同の技のレベルは最初から比較的高めとなり、これまで難のあったメンバーの中からもぼつぼつ成功する者が出始めた。
 まず佐祐理は、舞と一緒になったことによりフォローが利くようになったため、真っ先に成功した。
 次に名雪が上側を突くという有利な場所になったこと、また木刀を持てるだけの膂力がこれまでの鍛錬で何とか育っていたこともあって、少しだけの訓練で成功した。
 三番目に成功したのが、真琴と栞である。この二人の場合、真琴には祐一が、栞には香里が一緒に剣を振るうことになっているので断然有利だったためである。
 香里は力が未知数ではあったが、膂力が意外にも強く、非力な栞を補助するのに充分であった。
「……香里、運動部でもないのにそんな力持ちなのはどうして?」
「うーん、もしかすると……撮影機材のせいかもしれないですね」
「ああ、なるほど。お姉ちゃん、撮影に行く時はいつも重そうなかばん抱えてるもんね」
 どうやらこのことのようである。
 撮影機材は概して重い。一眼レフの本体自体が重いし、そこに替えのレンズ、それも大砲のような大きな望遠レンズを数本つけ加え、三脚を持てば下手すれば五キロは行く。
 それをかついであちこちの撮影場所を渡り歩いた経験があるのだから、木刀くらい何てことはないのだろう。
「まあ、あたしの持ってる三脚は、古い鉄のやつだから、この木刀くらいの重さはあるし」
「三脚、振り回したことあるの?」
「や、やあね、そんなことないわよ。……時々三脚でぶん殴ってやりたくなるような、マナーの悪いやついるけどね」
 さりげなく最後につけ加えられた物騒な言葉に、祐一は、
(おお、怖……)
 思わず肩をすくめた。
 話を、元に戻そう。
 最後に取り残された形となったのが、力的にも場所的にも不利なあゆと美汐だった。
 あゆはやはりノー・コントロールがいかんなく発揮されてしまい、舞が介添えについてもなかなか改善しない。
 霊体で飛べるからと、特撮のヒーローが飛ぶ時のようにうつぶせになって飛び、剣を前に突き出しての突撃も試みたが、
「わあ、ああっ!?」
 ずべしゃっ、とたい焼きを万引きして来て祐一にぶつかった時を彷彿とさせるようなぶつかり方で床にぶつかり、
「うぐぅ……痛くないけど気分的に痛いよ」
 鼻をこすりながら妙ちきりんな感想を述べ、舞をあきれさせてしまうに終わった。
「コントロールが取れないなら、最初から体勢を低めて突き込む形にしたらどうだ?槍を突くみたいにさ」
 たまりかねた祐一がそう助言すると、舞はちょっと困ったような顔をしたものの、
「柄が短いのがネックだけど……当たる可能性は高くなる」
 と言って採用となり、他のメンバーのように正面向きで中段から突きに入る形をやめ、槍術のように半身を前に出して中腰となり、躰に対し真横に刀を構える形で試してみることになった。
 今度は慣れない中腰体勢での助走のためにこけ続け、「うぐぅ」を連発したものの、腰の位置の調整で何とか安定し始め、
「……曳(えい)っ!!」
「……あ、入った」
「はあ、はあ……入ったねえ」
 結局、きちんと突きが入ったのは翌日の夕方近くになってしまった。
 あとは微調整と、精度を上げるのが目標である。
 一方美汐は、危惧していたことだったが、最初は木刀を持っただけで切っ先がよろける状態で、舞は恐ろしく不安な表情をしていた。
 あゆの槍術方式を採用してみたが、
「……これ、実際の神剣だと柄の長さが足りないかも知れない」
 舞が難色を示す。
「持ち方を変えれば……む、滑るな」
「……あ、ちょっと待って。美汐、利き手を見せて」
「あ、はい」
 そう言われて差し出された美汐の右手を、舞はしばらく見ていたが、
「……美汐、手が小さい、って言われない?」
 そう訊ねた。
「えっ……いや、言われたことはないですが。小さいですか?」
「……若干。栞の次くらいに小さいかも」
 そう言うと、舞は本物の神剣を持ち出し、
「……百聞は一見にしかず、さっきの持ち方でやってみて」
 そう言い、槍術持ちを試させてみる。
 舞の見立て通り、小さめの美汐の両手はぎりぎり柄の長さに収まった。
「む、こりゃご両親に感謝だな」
「……発育が悪いみたいで複雑な気分ですが、結果オーライですね」
 元病人の栞並の小ささという現実に、美汐は悄然としていたが、そうも言っていられない。
 ともかくも、槍術持ちでの訓練が開始された。
 幸い、美汐はあゆと違ってノー・コントロールではなく、数回ですぐにこつをつかみ、ほぼ百発百中というところまで習熟した。
 ともかく、二日いっぱいかけてではあるが、全員が規定の場所に打ち込めるようになった。
 あとは、土まんじゅうの硬度をさらに実際の殺生石に近づけ、それで練習して行く。
 周回遅れになったあゆや美汐が少しだけ練習時間を延ばして追いつき、各人の習練度に差がなくなったところで、実際の神剣による練習である。
 普通の剣ならば刃がこぼれたりするので連続使用は不可だが、この剣の場合、そういうことがないのは救いと言うべきであったろう。
 そして四日目。
 ついに訓練は佳境に入り、五組が実際に連携して突く練習が始まった。
「曳っ!!……川澄先輩!」
「……鋭っ!!……あゆ!」
「え、曳っ!!……名雪さん!」
「曳っ!!……美汐ちゃん!」
「え、曳っ!!……はい、最後です!!」
「うりゃぁっ!!曳っ!!終わりい!!」
 神剣をぽんぽん渡し合いながら、突きを入れて行く。
 最初は不格好だった五芒星も、次第にそれらしい形になって来た。
「これはいい傾向です。こういったものは形がよければよいほど、効果がありますからね」
 神籬の方で結界術や防禦術のシミュレーションをしていた浦藻が、五芒星の浮かび上がった土まんじゅうを見てそう言う。
「……もうそろそろ、訓練もいいかも。明日は待機で気を張りつめないといけないし」
「ああ、そうだ、それなんですが……どうなんです、実際?」
 舞の言葉を受けて、急に例の明日結界が緩むという話が気になった祐一が、浦藻に訊ねる。
「弱まる気が見えているのは確かです。ただし、重大な事態になるかどうかまでは……」
「でも、最悪の事態は考えておかなきゃいかんでしょうよ。判じた本人が忘れちゃいけませんぜ」
 と、これは慎司。
「む……ま、確かにそれもそうだね。……祐一さん、もしもの話なんですが、明日完全に結界が解けてしまうような事態になった場合、ぴろちゃんを飛ばしますので、こっちへとにかく来て伐ってしまってください。もう日にちを言っている場合ではなくなりますので」
「そうならないことを願いますがね……ともかく、分かりました」
 そうして全ての準備を終えた一同は、明日何も起こらないことを願いつつ、薄暮の中を帰途についたのだった。



『あさー、あさだよー。朝ご飯食べて学校行くよー』
 かちり、という音とともに、目覚ましを止める。
「……相変わらず、気が抜けるというか何というか。特に今日は、気を張りつめていないといけないってのにな」
 そう言うと、祐一は眠い眼をこすりながら廊下へ出る。
「うおっ、寒っ……今日、いやに寒くないか?」
 そう思って廊下の寒暖計を見ると、氷点に近い。
「おいおい……これであの寒い洞穴行く羽目になったらたまらねえぜ。後生だから、暴走起こしてくれるなよ……」
 祈るようにそう言うと、名雪を起こしにかかる。
「おーい、名雪、起きろーっ」
 そう言って扉をたたくが、当然これで起きる名雪ではないので、中へ入って揺り起こす。
「おーい、起きろーっ」
 ゆさゆさと揺さぶっていると、
「うにゅ……」
 いつも通り、何とも気の抜ける反応が返って来た。
「おいおい、ちったあ緊張感持てよな……。それに今日は、みんなここに来るんだから、料理出来るお前にがんばってもらわんといけないんだぞ」
「祐一がカップ焼きそばのお湯捨てずにソース入れたりしなくなくなれば、何とかなるおー……」
「ぐはっ……って、そういう問題じゃねえっ」
 寝ぼけた時の標準語尾で自分の料理下手を指摘する名雪に、思わずぽかり、と祐一は正面から手刀をかました。
「はっ……あ、おはよう、祐一」
「はあ……おはよう。何だか、いつも通り過ぎて気が抜ける……」
 思わずがくり、と肩を落とす祐一に、名雪は少し不思議そうな顔になったが、ややあって、
「……今日、嫌な天気だね。妙に寒いし」
 窓の外を眺めながら言った。
「ん?ああ……油断出来ねえな、やっぱり東北地方ってのは」
「じゃ、わたし、朝ご飯の用意して来るよ」
 そう言いながら、とんとんと階段を下りて行く。
「タフなやつだなぁ……ま、冬でもミニスカートの制服着ている学校の生徒だ、分からんでもないわな」
 そんなことを言いながら、居間まで下りる。
 ここでも相変わらずの調子での朝食となった。今日は、あゆもいる。
「いちごジャムー……」
「うぐぅ、このコーヒー熱い」
(き、気が抜けるなぁ……)
 秋子の方も見舞ったが、
「ありがとうございます……今日は、比較的熱も低いようで、気分がいいんですよ」
 発病した時と比べると、随分安定している。
「……このまま、何もなけりゃ御の字なんだけどなあ」
 警戒が空振りにはなってしまうが、本番前に疲れるよりはまあよい。
 そして、時計の針が九時を回った頃である。
 玄関の呼び鈴が鳴った。
 今日来る人間と言えば、あのメンバーしかいない。
「おはようございます」
 恐らく途中、どこかで待ち合わせでもしていたのだろう。一気に、残りのメンバーがやって来た。
「みんなおはよう。とりあえず、居間の方に入って」
「おいおい、場所大丈夫か?」
 過去、祐一が知る限り水瀬家にこんなにたくさんの人が来たことはない。
「大丈夫だよ、居間は結構座る場所あるから」
 そんなことを言っているうちに座ってもらうと、確かに全員入る。
 思えば食卓の椅子が六脚、さらにソファがあるので、八人くらい何ということはないのである。
 さて……。
 さすがに全員揃うと、それまで緊張感のなかった水瀬家も少しは緊張感が出て来た。
 それはそうだろう、最悪の場合、このメンバー全員で緊急発進せねばならないのだ。
 特に舞はこういう警戒状態には慣れているので、神剣を常にそばに置いたまま、殺生石の伐ち方を確認している。
 と、その時だ。
「……あれ?」
 香里にカメラのうんちくを垂れられ、困ったような顔つきになっていた栞が、窓を見上げて何かに気づいたように声を上げた。
「ん?どうした、栞」
「みなさん、空……何だか、おかしくないですか?」
「おかしいも何も、くもり空だ……ろ?」
 栞の発言に笑いながら窓を振り返った瞬間、祐一は思わず凍りついた。
 何とそこには、真っ黒い雲が漂っていたのである。
「お、おいおい……雷雲か?」
 思わずそう言うが、横合いから舞が、
「……違う。この季節、ここでは春雷はない。それより……」
「それより?」
「この雲は、もっとたちの悪い雲かも知れない」
「……えーと、どういうことだ?もしかして、何かの前触れとか?」
「……はちみつくまさん」
 舞の肯定の言葉に、祐一はもう一度空をじっくりと見つめる。
「……ありゃ?」
 見つめて、祐一はおかしなことに気づいた。
「雲が、漫画みたいに渦を巻いている……」
 このことである。
 よくギャグ漫画などでは、雷雲を太い渦巻きで表すことがあるが、あんな雲は現実にはない。
 だが、今彼が眼にしている雲は、まるで毛虫か何かを大量に全天にはわせたように渦巻いているのだ。
「……嫌な予感がするな、おい」
 通常ならざる雲の出現に、今日が上手く通り過ぎることを願っていた祐一が、げんなりしながらそう言った時だ。
 ぽつり、ぽつりと雨が降って来た。
「あ、雨が……名雪、洗濯物とか大丈夫か」
 それで我に返り、名雪に声をかける。
「うん、今日は干してないから……」
 そう名雪が答えた、次の瞬間。
 どしゃあっ、というすさまじい音とともに、一気に雨が激しくなった。
「な、な、何だ!?」
 この不意を衝いた大雨には、一同騒然となった。
「おい、普通こういう時は、小雨から始まって次第に強くなるもんだろ。何でいきなり豪雨になる!?」
「わたしに訊かれても困るよ、こんなの、夏の夕立でしか経験ないもん……」
「ちょ、ちょっと見て来る!!」
 そう言うと、祐一はあわてて玄関へと向かった。
 傘を持ち、玄関を開くと、そこはまるで瀑布の中に入ったがごとき大雨だった。
 庭は完全に冠水し、門の外の道はペーヴメントが見えないほどに雨がたばしっている。
 そしてその向こうでは、南森川が一気に増水しているのだ。
「な、何だ、この真夏の風景は……?しかも、降り出してから五分経ってないのに」
 春らしからぬすさまじい光景に、呆然として祐一がそう言った時だ。
 にゃあ、と弱々しい声が、足許から聞こえて来た。
「………!?」
 思わず後じさって見てみると、そこには、ずぶ濡れになったぴろがいた。
「ぴ、ぴろ!……ってえことは!!」
 とっさに何が起こったかを悟った祐一は、大急ぎでぴろを抱え上げると、大急ぎで家の中へ駆け込んだ。


 それから十分後。
 合羽などめいめい雨具で完全武装した一同を、水瀬家の玄関に見ることが出来る。
 あれから、青い顔でぴろを抱えて飛び込んで来た祐一に、一同はぎょっとなった。
 あまりに祐一が、鬼気迫る顔をしていたからである。
「ど、どうしたんですか、祐一さん」
 佐祐理の問いに、祐一は、
「どうしたもこうしたも……異変があって緊急出動して欲しいってことだ。ぴろがここに来たってことは」
 そう答えると、ぴろの首に何かついてないか調べる。
 案の定、油紙に包んだ書状が巻きつけてある。
 祐一は、名雪にタオルを持って来てもらうと、ぴろの躰を拭いてやり、首の書状を解いた。
 幸いにも書状はほとんど濡れておらず、簡単に開くことが出来た。
 そして、書状に眼を通した瞬間、
「………!!」
 一同が一斉に声にならない声を上げる。
 そこには、
「殺生石が結界を破りました。討伐を繰り上げてください」
 とだけ書かれていたのである。
 しかもよほど急いで書いたのだろう、浦藻らしくもない、殴り書きだった。
 突如到来した緊急出動依頼に、それまでどこか気が抜けていた一同はほとんど虚を衝かれた形となりパニックになりかけたが、祐一と舞が何とか収めて出動となった。
「すみません、秋子さん。急に決戦が繰り上がりましたので、行って来ます」
 行きに秋子の部屋へ寄ってそう言うと、彼女は詰(きっ)と顔を引き締め、
「健闘を……お祈りしています」
 そう言った。
「はい。絶対に、吉報を持ち帰ります」
 そう言うと、駆け出すように秋子の部屋を出て、玄関の一同に合流した。
「……よし、じゃあ行くぞ!!」
 そう言うと、一気に玄関を開け放つ。
「うわあ……」
 外のすさまじい雨に、誰からともなく声が上がる。
「あ、有り得ないですよ、春にこんな雨……」
「ああ。だから、恐らくは殺生石のしわざだろうよ。くそっ」
 美汐の呆然としたような声に、祐一は悔しげに答えると、門から外に出た。
「……待って、祐一。前衛に、私もつく」
 そう言って剣を佩(は)いたまま前に出て来る舞を、祐一は止めなかった。
 まずは、札ノ辻の電停を目指すことにする。
「まあ、電停を目指したところで、走ってるかどうか怪しいもんだが……」
 そんなことを言いながら、じりじりと川沿いの道を南森大橋の方へ歩いて、進路を右へ変えた時だ。
「………!?」
 一同は、異様なものを眼にした。
 この道を上がったところには、乗合の大橋東詰停留所がある。
 そこで人が待っているのだが、状況がおかしい。
 まず、雨が降っているのに傘すらさしていない。さらには、動きが凍りついているのだ。
 おっかなびっくり触って声をかけてみるが、反応する様子もない。
「な、何なんだ、こりゃ……ゴルゴンにでもやられたんじゃあるまいし、石化したような状態じゃないか」
 あまりの異常な光景に、もっと状況を確認しようと歩きながら一同は周りを見渡す。
 やがて、札ノ辻交叉点で、その異様な状況をさらに眼にすることになった。
 ちょうど、下りの電車が電停に到着したところだったらしい。また、乗合も線路を渡って駅方面へ向かうところだったらしい。
 だが、電車の方は前の降車扉だけが開いていて、ステップで乗客が固まっている。よく見れば、硬貨が空中に浮いているようにも見える。
 乗合の方も、下り線をふさいだままという不自然な状態で固まっており、乗客も蝋人形のようになっていた。
 あまりに不気味な光景に、一同が唖然としていると、舞が、
「……時が、止まってる」
 腕にはめたデジタル時計を見ながらそう言った。
「な、何だと……?」
 祐一がそう言うと、舞は時計を前に出してみせる。
 確かに、秒の部分すらびくりとも動いていない。アナログと違い、デジタルは電池がなくなれば表示が消えるだけなので、これは通常では有り得ない。
「じゃあ、何で俺たちは動けているんだ」
「……恐らく、時間の流れから弾き出されているんだと思う」
「……何だと?」
 舞の説はこうだった。
 ことごとく一同に手先をほふられた殺生石は、通常の状態では一同を葬り去れないことを悟った。
 そのため、時の流れから一同を弾き出して責めさいなみ、そこでほふって最初からいなかったことにしてしまおうとしているのではないか、そう言うのである。
「くそう……親玉はさすがに陰険さが違う……」
「……ともかく私の予想が当たっていれば、ここから先で襲撃があるはず。どのみち私たちしか見ていないから、抜いておいた方がいい」
「委細承知」
 そう言うと、容赦なく降り注ぐ雨に邪魔されながらも、祐一は剣を抜いた。
 そのまま、石化した歩行者をよけながら、洞穴への道を急ぐ。
 電車が使えないので、都合二キロ近く歩くことになるのであるが、普段でもあまり楽とは言えない距離でこの状況はしゃれになっていなかった。
 と、次の瞬間である。
「……祐一!!」
 いきなり舞がそう叫んだかと思うと、舞が前に飛び出した。
 次の瞬間、がきいんっ、と何か硬いものと剣がぶつかる音がする。
 前を見ると、そこには久瀬の時のほどではないが、筋骨隆々とした鬼のような怪物がいた。
「くそ……やっこさん、百鬼夜行としゃれ込む気か」
 そうつぶやいた時、祐一は横に何ものかの気配を感じた。
「………!!」
 とっさに、こちらもがきん、と剣で応じる。
 そこには、舞を襲っているのと全く同じ怪物がいた。
「こ、こいつら兄弟か何かか?」
 その問いに答える者はなく、祐一は突き転ばされた。
「くそ、斬りかかろうにも、力の差がありすぎる……」
 通常の相手なら、神剣で一太刀で祓えるのであるが、こう力が強いと太刀を浴びせるのすら苦労する。
 何とか立ち上がり、斬りかかろうとするが、どんどんと車道の方に押されてしまう。
 横目で見ると、舞も劣勢に追い込まれてしまい、じりじりと押されている。
「あ、相澤君!!それ以上行くと電車の架線(がせん)が!!ちょ、直流六百ボルトが……!!」
「………!!」
 見れば、すぐ背後には道路端の電柱からワイヤでつり下げられた市電の架線がある。
 過去、夏になるとカーボンの釣り竿で電線に触れて感電死、という事件を見たことがあるが、確かそれとて二百ボルトくらいのはずだ。
 いわんや六百ボルトとなると、感電死は確実だ。
 しかもよく見ると、雨でショートしているのか、ところどころで火花が上がっている。つまり通電している証拠である。
「ぬぐぐぐぅ……!!」
 こんなところで死ぬわけにはいかない、その思いから、歯をぎりぎり食いしばりながら怪物を押し返す。
 だが、怪物はびくともしない。それどころか、道路の真ん中にぶら下がっているものが何ものか知っているらしく、祐一の剣を下ろさせまいとしながら押して来る。
(くそっ、感電する……!!)
 と、その時、祐一の右眼の端でワイヤと架線の間にスパークが上がるのが見えた。
(………!!そうだ!!)
 それを見て、何かを確信した祐一は、押し返していた力を緩めた。
「ゆ、祐一!?」
「あ、相澤君!?」
 名雪や香里の悲鳴が上がるが、祐一は無視して、怪物に押されるままに架線までずり下がる。
 そして、祐一の足が石畳と線路を越え、剣が架線に接触した時である。
 ばりいん、とすさまじいスパーク音が響き、接触した場所を中心にまばゆい火花が散った。
「祐一!!」
 一同の絶叫が上がる。
 名雪を始めとして、誰もがここで祐一が感電して倒れるのを予想した。
 だが、実際には逆だった。
 祐一は架線に剣を接触させたまま傷もなく立っており、怪物の方が感電したようになってしびれながら倒れていたのである。
「……やはりな」
 そうつぶやくと、祐一は怪物に近づき、その心臓を一突きにした。
「ぐおおおおおっ……」
 すさまじい咆吼とともに、怪物が消滅する。
 それを見ていたのか、舞も同じことをしようとする。
 相方の消滅に失策を悟った怪物が力を緩めるが、時既に遅く、舞は自ら架線に剣を接触させた。
 やはりスパーク音とともに火花が散り、怪物がどおっ、と倒れる。
 祐一と舞が同時に走り、その躰をめった斬りにして消し去る。
 大急ぎで戻って来た二人が、質問攻めに遭ったのは言うまでもない。
「相澤君……どういうことよ、自ら架線(がせん)に触れに行くなんて」
「いや、な……実は、真琴のとこの神社の神様は、雷神なんだよ。雷は、すなわち電気だ。だから、その加護を受けた剣に力を込められると思ったんだ」
 まさかこう簡単に行ってくれるとは思わなかったけどな、と祐一はつけ加える。
 確かに祐一と舞の剣は、雷電をまとって火花を散らし、青白く光っている。
「そんな、電池の充電じゃないんだから……」
「その『そんな』を起こしちまうのがこいつなんだよ」
「……祐一、少し離れた方がいい。剣が活性化して、みんなに落雷する可能性があるから」
 そう言う舞の言葉に、一同は布陣を変え、車道へと出る。
 こちらの方が、広くていざという時に対処しやすいからだ。
 間抜けな手先を二匹ほふった一同は、陣屋町の交叉点に差しかかる。
 ここでは、黒い霧状の何ものかがいくつか襲いかかって来た。
 しかし、活性化した状態の剣には敵ではない。ざくざくと斬り刻み、さっさと進む。
「やけに弱いやつが出ましたね」
「そりゃ、あれじゃないか?」
 そう言って、祐一は千勝神社を指差す。
「あれが分社だからな。何だかんだ言って、物見神社の神様が怖いんだよ、殺生石のやつぁ……」
「言えている。おびえているからこそ、私たちを殺しにかかっているとも見れなくはない」
 しかし、ここで雨がまたひどくなって来た。見附橋へ向かって上がる道路上を、雨水が川となって流れる。
「みんな、もうここまで来ればあとちょっとだ。あとちょっとだから、持ちこたえてくれ」
 祐一が、後ろについて来ている一同に呼びかける。
 とはいうものの、全く気温が上がっていないため、みな少し震えていた。
(大丈夫かな、こりゃ)
 不安が浮かぶが、もはや進むしか術はない。
 そして、見附橋の北詰に差しかかった時である。
「……美汐」
 前方から、何ものかが美汐のことを呼んだ。
 時から弾き出されたこの世界では、自分たち以外に動いている人間はいないはずである。
 思わず祐一と舞が身構えた時、物見町の交叉点に傘をさした少女が一人立っていた。
「れ、令……!?」
 その姿を認めた瞬間、美汐が我を忘れて飛び出して来た。
「そう、令だよ。美汐……帰って来たの」
「そんな……そんなことがあるなんて」
「ねえ、美汐。あたしも、殺生石が憎いんだ。一緒に仲間に入れてよ」
「令……」
 まるで熱にうかされたように、令の名を名乗る少女の許へ近づいて行く美汐。
「やめろ、美汐!!状況的に無警戒は危険だ!!」
 祐一が怒鳴るが、美汐の耳には届いていない。
 ついに、美汐が「令」の手を取った。
 が、その時、「令」が獰悪(どうあく)な眼つきをしたのを、祐一は見逃さなかった。
「美汐、戻れ、戻るんだ!!」
 叫ぶも、既に遅い。
 次の瞬間、美汐は一気に利き手をひねり上げられ、楯にされてしまっていた。
「れ、令!?」
「……馬鹿な女。そう簡単に、消えた妖狐が戻って来るわけないじゃない」
 「令」はそう冷酷に言うと、一同に、
「さあ、こいつの命が惜しかったら、武器を捨てな」
 そう言い放った。
 あまりにも古典的な引っかけにかかってしまったことを悔しがってか、美汐が歯がみしているのが雨越しに分かる。
 だが、祐一達もこれで引くわけには行かない。ためらっていると、
「早くしな!!」
 手の中に刃を顕し、美汐の首に突きつけながら「令」が叫ぶ。
 やむなく、祐一と舞は剣を鞘に収めて道端に捨てた。
「ようし。じゃ、こっちへゆっくり来な」
 その言葉に、一同は従う。
 だが、ここで祐一が小声で、
「……牛歩だ。牛歩しろ」
 一同に指示を出した。
 そうとも知らず、てれてれと歩く一同にしびれを切らし、
「何だ何だ、もっときりきり歩かないかい!!」
 「令」がいら立った声を上げる。
 その間に祐一は、相手から見えないように後退し、栞の横にやって来た。
「……栞。お前、今日の昼間に漫画も描いてるって言ってたな」
「え、ええ」
「あの時、あゆ相手に見せてたもの、攻撃用に貸してくれないか。弁償はするから」
「えっ……」
「いいから!」
 そう言って栞からあるものを受け取った。
 そして、物見町の交叉点近くまで近づいた時だ。
 急に祐一が走り出したかと思うと、
「曳!!」
 気合いとともに栞から受け取った、トーン切り用の棒カッターを「令」の肩めがけて投げつけた。
 通常のカッターと違い、棒カッターはほぼ小刀である。
「ぎゃあっ……」
 名雪の時と同様、カッターは上手く「令」の肩に突き刺さった。
「今だ、美汐!!そいつをそこの水たまりへ突き飛ばせ!!」
「は、はいっ!!」
 「令」の手から逃れた美汐は、祐一の言う通りに交叉点の真ん中、軌道敷の横に出来た水たまりに「令」を突き飛ばす。
「な、うわあっ!!」
 水しぶきを上げ、「令」が水たまりへ落ち込むのを見るや、祐一が容赦なく剣を突き込むと、
「うぎゃああ……っ」
 濁った水を通して数メートル先まで雷電が走る。
 みるみる間に、「令」はむくつけき鬼の姿となり、そのままかき消えた。
「ふう……どうなるかと思ったぜ」
 そう言って汗をぬぐう祐一に、
「あ、あの、祐一さん、みなさん……申しわけありません!!」
 泣きそうになりながら美汐が謝る。
「なに、何が起こってもおかしくない状況だからな」
 それをさらりと流すと、祐一はみるみるうちに嚇怒(かくど)の表情となり、丘を睨めつけると、
「やい、殺生石!!どこまで、どこまで人の心を弄べば気が済む!!俺たちがそんなに憎いなら、堂々と攻めて来やがれ!!」
 そこで一つ息を継ぐと、
「俺たちは赦さねえ、てめえを絶対に赦さねえ!!潔く玄翁(げんのう)の露に消えず、この世に六百年も生きて来たことを後悔させてやる、絶対にな!!」
 のども裂けよとばかりに叫び、一気に走り出した。
「祐一!!」
 その後を追って、一同も走り出す。


 一同が妖狐の洞穴に着いたのは、それから十分もしないうちのことだった。
 実は物見町の電停からまた雑魚がいくつか出たのだが、堪忍袋の緒が切れた状態の祐一は、全て一刀の許に斬って捨てた。
「……すごい」
 後から追っている舞が驚くほどの剣の使い方で、本気で彼が怒っているのがこちらにも伝わって来る。
 妖狐の洞穴へは、普段出口として使っている方から入った。
 だが、入った一同を出迎えたのは、
「な……!?」
 一面池と化した社務所前の広場だった。
「浦藻さん!!真琴!!慎司!!どこだーっ!!」
 しゃにむに叫ぶ祐一に、奥の方から答える声がかすかにする。
「あ、あそこって……確か殺生石の封印されてるところじゃ」
「なるほど……結界が破れちまったんで、一生懸命押さえてくれてんのか。……三人ともーっ!!今行くから、持ちこたえててくれーっ!!」
「ゆ、祐一さん、そんなに昂奮しないで」
「そうは言うがな、美汐……くそっ、水の抵抗が」
 そう言いながら、完全に冠水した広場を進むが、腰まである水はすさまじい抵抗となって一同に返って来る。
「……手を、手をつないで。こけたりしたら、一巻の終わりだから」
 舞の提案により、一同は手をつなぐ。
 むろん、祐一と舞は、みなが感電しないように剣を鞘に収めておくのを忘れない。
「……あっ!?」
 だが、そこで栞が何かにけつまずいて水に転倒した。
「し、栞!!……倉田先輩、引き揚げお願いします!!」
「分かりました!!……せーのっ!!」
 ざぶん、と音がして、栞が水から顔を出す。
「えぅー……下に、石がありますー」
 半泣き状態でそう言う栞に、祐一は、
「くそ、足許にまで注意か……せめて、この水が濁ってなけりゃ」
「……それより祐一、水かさが増えて来てる。このままじゃ転ばなくてもおぼれる」
「早く、早くしなくちゃ……あと、十メートルくらいなのに」
 予想以上の難航ぶりに、一同にもさすがにあせりが見えて来た。
 だが、その時である。にわかに、洞穴全体が微動を始めた。
 そして次の瞬間、どおおっ、という音とともに、丘の上へ抜ける抜け道から鉄砲水が飛び出して来たものである。
「うわあああっ!?」
「きゃああああっ!!」
 これには、さすがに全員が悲鳴を上げた。
(まさか、こんなところに伏兵があろうとは思いもしなかった……)
 のである。
 だが、列の先頭になっていた祐一は、流されそうになりながらも何かにつかまり、難を逃れた。
「……ぷはっ」
 祐一が水から顔を出す。
 つないだ左手の感触を確かめ、
「おい!!みんな、大丈夫か!?」
 完全に地底湖化した後ろの空間に向けて叫ぶ。
 ややあって、
「ぷはっ……まさか鉄砲水なんて」
「けふっ、けふっ、けふっ……」
「ああ、苦しかった……」
「はあ、はあ……」
「ごめんなさい、誰かお姉ちゃんを!!」
 次々と声が上がる。
「分かった、栞!!とりあえず、躰出てるメンバーはこっち来てくれ!!」
 その声に、舞、名雪、美汐、佐祐理が上がって来る。
 そして、栞が途中まで来た頃に、ようやく、
「ぷはあっ……ぜえっ、ぜえっ、ぜえっ……」
 香里が顔を出した。
「大丈夫か、香里!?」
「……ええ。本気で死ぬかと思ったけどね」
 先に出たメンバーの手を借りて上陸し、完全に濡れそぼった状態で息を弾ませて言う香里に、とりあえず安心した祐一は、
「そういや、ここは……」
「どうやら、上手く入れたみたいだよ」
 周囲を見回した祐一の眼の前に、いきなりあゆがふわふわと現れた。
「うわっ!!お前、何でこっちから出て来る!?」
「うぐぅ……だってしょうがないよ、さっきの鉄砲水で壁にたたきつけられて。どうしようかと思って、思い切って壁抜けしたらここだったんだよ」
 あゆは困ったように言うが、とりあえず結果オーライというところだろうか。
「よし、じゃ行くぞ。もう敵はすぐそばだ。……真琴ーっ!!浦藻さーん!!慎司ーっ!!」
「無事ですよーっ!!ただし瘴気(しょうき)に注意してくださーいっ!!」
 祐一の呼びかけに、必死の返事が奥から返って来る。
瘴気に注意ったって……こいつで祓えるかな」
 そう言うと、祐一は剣を抜く。
 ややあって、ぷうん、と胸の悪くなるような空気が漂って来た。
 一番最初の経験から、それが
瘴気だと分かっている祐一は、剣で空間を薙ぎ払ってみる。
「お、消えた」
 嘘のように空気が清浄となったが、すぐにまた
瘴気が漂って来る。
「くそ、しょうがねえな……俺と舞が斬り払いながら進むから、走れ!!」
 そう言うと、祐一は神剣を横薙ぎに振りながら走り出す。
 続いて舞が剣を振りながら走り出し、一同がそれに続く。
 やがて一同は、殺生石が封印されている洞穴へたどり着いた。
「うわ……」
 そこは、まさに修羅場であった。
 以前見た時のような結界はまったく影も形もなくなり、代わりに周りで浦藻、慎司、真琴が躰で結界を作っている。
 しかも真琴は時折弾き飛ばされるなどしているらしく、ところどころすりむいていた。
「だ、大丈夫ですか、三人とも……特に真琴」
「な、なに、これくらい平気ですよ……」
「平気だって言えば嘘になるが、今までの償いと思えば何てこたないやな、何てこたさ……」
「あぅー……な、何とか大丈夫……」
 それぞれに答えるが、三人ともさすがに疲れが見えている。
「真琴は抜けられますか!?」
「やってみましょう……慎司君!!」
「おうさ!!」
 そう言うと、真琴を抜いて浦藻と慎司は二人で結界を組む。
 だが次の瞬間、眼に見えてすさまじい
瘴気が噴き出して来た。
「くそっ」
 すんでのところで躱(かわ)し、剣を横に薙いで振り払うが、今度はきりがない。
「畜生、これじゃ斬りかかるに斬りかかれないぞ」
 鋭い舌打ちをする祐一に、真琴は、
「あぅーっ……せめて、強い呪符で呪い返しが出来れば、まだ止められるのに」
 悔しそうにつぶやく。
 と、その真琴の発言に、美汐が、
「……真琴、あの
瘴気というのは、呪いの一種なのですか?」
 そう訊ねた。
「そうよぅ……気体の形をした、呪いって感じ」
 その答えに、一つ美汐はうなずくと、
「すみません、祐一さん、川澄先輩。失礼ですが、殺生石に背を向けて、後ろ手で剣を振ってもらえますか」
 そう言い出したものである。
「えっ……一体何のつもりだ?」
「こんな時に何を……」
「お願いします、まじめな話なんですよ」
 美汐の発言を不可思議に思いつつも、二人は殺生石に背を向け、後ろ手に激しく剣を振った。
 と、その時だ。
 ぐおおおん、と殺生石がうなりを上げたかと思うと、一気に
瘴気が引いたものである。
 それと同時に、浦藻たちも、
「えっ……?」
「おっ……?」
 背中にかかっていた負担が取れたように身を起こした。
「よかった……うまく効いてくれたようで」
 安心したように言う美汐に、祐一は、
「おい、こりゃ何なんだ?」
 そう訊ねる。
「『古事記』で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から逃げる際、追っ手を追い払うために行った呪いです。真琴が『呪い返し』というので、試しにやってみたんですよ」
「なるほど……」
 納得する祐一の背で、殺生石はなおもうなり続ける。
「相当の衝撃だったようですね……ありがとうございます」
「ありがとう、美汐、恩に着る。……で、族長、こいつ、もう少しくらい結界緩めても、危険ないんじゃないんですかね」
 浦藻の方を向きながらそう言う。
「そうだな。よし、じゃあ行くぞ」
「それ!!」
 そう声を掛け合うと、二人は結界の中に、殺生石の中央に直接つながるように穴を作り出した。
「……よし、大丈夫。じゃあ、今です!!みなさん、お願いします!!」
 ついに、この時が来た。
 一同は、練習した通りの順番に並ぶ。
 そして、祐一が美坂姉妹に剣を渡したのを合図に、討伐の火蓋が切って落とされた。
 香里は栞に剣の柄を握らせ、その上から優しく自分の手をかぶせると、
「行くわよ、栞……!!」
「はいっ!!」
 一気に殺生石の左上に向けて走り出した。
「あたしたち姉妹の契りを絶とうとした恨み、思い知りなさい!!……鋭っ!!」
「……鋭っ!!」
 二つの声が重なり、神剣が左上に見事に命中する。
 ぐおおん、と殺生石が轟くのを尻目に、剣は舞と佐祐理に渡る。
 舞は自分の剣をしまうと、その剣の柄を佐祐理とほぼ同時につかんだ。
「佐祐理をいじめたお前を、絶対許さない……鋭っ!!」
「鋭っ!!」
 いつもより数段気合の入った声と、佐祐理にしては珍しい大声とともに、右上に剣が突き込まれる。
 三つ目、あゆ。剣を渡されると一気に槍術の構えに入り、
「好きな、大好きなみんなのために……鋭っ!!」
 見事に左下へ剣を突き刺す。
 四つ目、名雪。あゆから剣を受け取ると、
「祐一を、そしてお母さんを悲しませた罪、あがなってもらうよ……鋭っ!!」
 陸上のダッシュを効かせた助走で一気に上に剣を突き込む。
 五つ目、美汐。名雪から剣を渡されると、彼女はかしゃん、と剣の鍔を鳴らし、槍術の構えとなるやすさまじい眼で殺生石を睨めつけ、
「令の仇、そして真琴の仇……!!鋭っ!!」
 普段の彼女からは思いもつかないほどの素早さで右下へ剣を突き込む。
 最後、ついにというべきか、真琴と祐一の手に剣が渡った。
 ぐおおおん、ぐおおおん、という殺生石の咆吼も、もはや二人が放つ気魄の前ではただの命乞いにしか聞こえぬ。
 次の瞬間、真琴は剣の柄を握ると、口ずさむともなしに、
「みつみつし、久米の子等が粟生(あわふ)には、韮一茎(かみらひともと)、そねが茎、そね芽繋ぎて、撃ちてし止まん!!」
 神武天皇東征時の征伐の歌、「久米歌」の一つを歌う。
 続けて祐一も、真琴の手の上から手を重ね、頭に浮かぶままに、
「みつみつし、久米の子等が、垣下(かきもと)に、植えし椒(はじかみ)、口ひひく、吾は忘れじ、撃ちてし止まん!!」
 「久米歌」の一つを歌い上げる。
 そして、一気に後ずさると、
「行くぞ、真琴!!」
「いいわよぅ!!」
 すさまじい勢いで助走をつけ、
「俺たちを引き裂いた恨み!!真琴たち妖狐を悲しませた恨み!!この一撃に、思い知れ!!……鋭っ!!」
「鋭っ!!」
 そのまま一気に五芒星のど真ん中を射抜いたものである。
 その瞬間、殺生石が一気に灰色となった。
 その色がだんだん白に近づいたかと思うと、一同が穿った五芒星を中心にまばゆい光が起こった。
 そして、すさまじい雷電の柱とともに、粉々に砕け散ったのである。


「……おおい、真琴ー」
 丘の上に来るなり、寝っ転がって眼を閉じてしまった真琴に、祐一はあきれたように声をかけた。
「あぅー、何?」
「何、じゃねえやな。お前、主賓がいきなり午睡(ひるね)してどうするよ」
「午睡じゃないわよぅ。だって、この草の感触、久しぶりで……思わずね」
「後にしろ、後に。どのみち無礼講になるんだからさ。……あー全く、ぴろまでその気になりゃがって」
 真琴を起こしながら、祐一があきれたようにぴろを抱きかかえていると、後ろから、
「祐一ー、あゆちゃん来たよー」
 名雪の声が響いて来た。
「……よっしゃ、これで、全員揃ったか?ほれ真琴、行こうぜ」
「あぅーっ、分かった」
 そう言うと、祐一は真琴の頭の上にぴろを乗せ、丘の頂上へ向かった。
「あ、こっちも来た来た。遅いですぜ、お嬢さん」
 盆の窪をかきながら、慎司がそう言う。
「まあまあ、そう言わないで。ここは真琴にしてみれば想い出の場所なんだから」
 フォローを入れる浦藻に、慎司は族長もたいがいシス・コンだなあ、とぽつりとつぶやく。
「シス・コンで結構。たった一人の肉親だからね」
「げっ、聞こえてましたかい……」
 ――あの後。雷電が収まると、殺生石は跡形もなく消え失せていた。
 そして地底湖状態になっていた洞穴も、何もなかったかのように平常に戻っており、濡れた後すらも残っていなかった。
 全ては、殺生石の見せた幻だったのか、それは今となっては分からない。
「やった……!!俺たちは、やり遂げたんだ……!!」
 感慨深く叫ぶ祐一の声を聞きながら、浦藻と真琴、そして慎司は耳と尻尾を引っ込め、人の姿になる。
 そして出口の隧道に手をかけると、一気に外に駆け出した。
 一同が後を追うと、そこには雑木林の中に立って自らの躰をしげしげと眺める三人の姿があった。
「……夢じゃ、夢じゃないんだな」
 ややあって、浦藻がつぶやく。
「お兄ちゃん、慎司、夢じゃないよぅ……まぎれもない、現実だよぅ」
 そう言うと、真琴は、
「祐一、触ってみて」
 祐一に手を差し出して来た。
 祐一は、ゆっくりと手に触れてみる。
 今度は、最初の時のように透過してしまうこともない。ほぼ二ヶ月ぶりに感じる、真琴のぬくもりがそこにあった。
「真琴……っ!本当に、本当に戻れたんだな!!」
 次の瞬間、祐一が真琴をぎゅっと抱きしめていたのは言うまでもない。
「ゆ、祐一……苦しいわよぅ。でも、あたしもうれしい」
 そう言いながら、真琴も祐一を抱き返す。
 さまざまな試練を乗り越えて、ついに現世で再会を果たした二人の喜びは、察するにあまりある。
 そして、ひとしきり解放を喜び合った後、全員が市電で水瀬家への凱旋となった。
 この時、この偉業を成し遂げた労をねぎらうべく、打ち上げをしようという話になったのである。
 そしてそれから五日後の今日十一日。何かと一同に因縁深いものみの丘の上で、これから花見がてらそれを行おうというのである。


「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにしまして……乾杯!!」
 果たして、秋子の音頭で打ち上げは始まった。
「乾杯ー!!」
 めいめいに手にした飲み物をあおって、ふう、と息をつく。
 丘の上は、ちょうど開花時期と重なって桜が満開の状態だ。
 だが、花見客は一同以外にいない。
 南森では主に花見は大師堂公園で行われることが多く、わざわざ急な坂を上る必要のあるここで行われることはまずない。
 だが、ある意味人に知られたくない秘密の持ち主である一同には、その方が都合がよいのだ。
「さ、みなさん。存分に食べてください」
「佐祐理も作ってきましたから、秋子さんのと併せて楽しんでくださいー」
 このメンバーの庖丁人である秋子と、佐祐理が重箱を広げ、全員がそれをつつき出す。
「しかし、見事に咲いたねー。ボクも主治医さんに一生懸命外出をお願いした甲斐があったよ」
 車いすから降りてシートに座り、卵焼きを食べているあゆが、満開の桜を見ながらそう言う。
 今の彼女の姿は、少し以前と異なっている。
 赤いカチューシャこそ健在だが、髪は少し長め、躰つきも華奢である。
 そう、あれからあゆは、七年にわたる植物状態から無事目覚めたのだ。
 長い植物状態から覚醒することは珍しいことではないらしいのだが、あゆの場合覚醒が難しいと言われていたので、「奇跡」として騒ぎになり、地元新聞にまで掲載されてしまった。
 その後、リハビリで二日目にはほぼ歩けるところまで恢復するという、これまた「有り得ない」恢復力を見せ、五日目にして車いすで外出の許可を取りつけてしまったのである。
 よく主治医が許したものだと思うが、それほどまでにあゆの恢復がすさまじかったということなのだろう。
「この分だと、一ヶ月半もすれば通院で済むようになるかもね」
「でも気をつけろよ。仮にも七年眠ってたんだからな」
「分かってるよ、もう……あ、そういえば、真琴ちゃんとこの後始末はどんな感じ?」
「うーん、一言で言うと、大変」
 あゆの質問に、真琴は煮物の箸を置いて困ったような顔で答える。
 殺生石を討伐し、自由の身になったのはいいものの、その後の始末が山積みになってしまった。
 まず、洞穴からの移住。単に浦藻・真琴・慎司の三人が移るだけなら身一つでいいのだが、あの洞穴は神社の代わりである。
 当然、ご神体や神具はすべて持ち出さなければいけないし、蔵書や記録類も移送する必要がある。
 とりあえず、最初から一緒に住むことになっている真琴はともかく、他の二人も一旦水瀬家に住み込みということになり、同時にご神体も水瀬家に遷座した。
 それからごちゃごちゃといろんなものを水瀬家へ持ち出すのに、この五日間をまるまる使っていたのだ。
「それに、あそこはただの神社の代わりじゃなくて、六百年以上も住居だった場所だから……いろいろあるわけよ」
「特にお墓なんかは、問題ですねえ」
 と、急にそこに浦藻が割り込んで来た。
「そうそう、掘り返すったって、大変だから」
 さらに、慎司まで皿持参でやって来た。
 二人とも、解放前の狩衣や袴姿ではない。浦藻はYシャツにチノ・パンツとサラリーマンのような服装、慎司はなんと着流しだ。
 何でも「和服の方が合うんで」と、滋が昔着ていたものを借り受けたのだとか……。
 ちなみに最初にこの姿を見た祐一が「演歌歌手か?」と突っ込んだところ、したたかに突っ込み返しの手刀を食らったらしい。
「まあ、でも道理じゃありますよね。墓石を移すのもありますが、お骨も回収しないといけませんから」
 実際問題、墓の移転は一番の懸念事項だ。
 はっきり言って、素人が少人数で出来る仕事ではないので、誰か業者を呼ぶ必要がある。
「でも、業者を呼んだらばれますからねえ」
「それなんですがね、秋子さんによると、この世の中には我々以外にもたくさんの妖狐が住んでいて、互助組織があるそうなんですよ。そこに諮って探すことになりそうです」
「へえっ!?そんなの、あるんですか」
 意外な事実に素っ頓狂な声を上げる祐一に、
「らしいぜ。……いや、世の中は広いや」
 慎司がそう言ってはは、と笑う。
「何だかなあ。真琴がいなくなった直後、美汐が『この街に住む人間の、その半分くらいがあの子たちなのかも知れませんよ』とか言い出してな……また藪から棒に荒唐無稽なこと言うもんだ、と驚いたんだが、まんざら有り得なくもなさそうだな、その分だと」
「祐一さん……そんな古い話、持ち出さないでくださいよ。第一、それは冗談だとすぐに言ったじゃありませんか」
 横合いから、美汐が突っ込みを入れる。
「いいじゃねえか。あん時の話がきっかけで、美汐がほぐれたんだからさ」
「ほぐれた……って、私は僧帽筋か何かですか」
「ほれ、そのたとえがもうほぐれてらあな。昔なら、絶対言わないだろ?」
「もう……」
 のらりくらりした祐一の態度に、美汐はよそっぽを向いていかフライを食べ始める。
「しかし、実際のとこ、話が分かる団体があるのはいいですねえ。もしかすると、そこが戸籍なんかの処理もやってくれそうなんですかね」
「当たりだ。むしろ、俺たちの方としては、それからやってもらわないと困るからね。墓はぶっちゃけその後でもいいわけで」
 ずっと洞穴で生活し、外部との接触がなかった浦藻たち妖狐には、戸籍がない。
 戸籍を基本にして国民を把握している日本では、戸籍がないことはつまり「人として存在しない」のと同じ意味である。
 だから住民登録も受けられないし、健康保険に入ることも出来ないし、年金にも加入出来ない。
 簡単に言えばいわゆる「社会保障」が全く受けられないし、また身分も確定しないので学校にも行けず会社にも入れず、社会生活が出来ないのだ。
 非合法な方法で戸籍を捏造する方法もなくはないが、そんなやり方で戸籍を獲得することは当然人として耐え難い。
 その点、そういう妖狐専門の互助組織なら、うまいことやってくれるはずだろう。
「それに戸籍がないと、祭祀にも差し支えるんですよ。正式の神職になるには資格がいるので」
「ああ、資格が必要なんですか、やっぱり」
「そりゃそうさな。坊さんや神父さんだって資格がなけりゃ出来ないんだから、神職が無資格で済むわけがないさ」
 浦藻によれば、神職には「階位」という階級制の資格が存在し、それを取得するために学校に通う必要があるのだという。
「一番いいのは、東京の國學院大學や伊勢の皇學館大学に通うことなんですが、遠い上に四年かかりますからちょっと無理がありますね。ただ宮城の塩竃神社の養成所で二年だそうですから、これで、と考えてるんですが」
「権正階(ごんせいかい、神職階位の下から二番目)でよければ、通信教育って手もあるらしいですがね。俺はどのみち禰宜になるつもりなんでそれでいいですし、族長だってそれで宮司になれないわけじゃないですしねえ。ただ、上の正階を狙うなら話は別ですが」
「うーん、どうしたもんかなあ」
「……あたし、巫女でよかったわよぅ。資格なくても務まるから」
「真琴、そういうこと言うのか……よし、そっちがそのつもりならこっちにも考えがある。兄妹は一心同体、お前も階位を取るべし、取るべし」
「あたしはただの狐巫女で結構なのよぅっ。祐一が喜ぶし」
「ぶっ……お前、何を言っとるか」
 真琴の爆弾発言に、祐一は吹き出しながらもあきれたようにそう返す。
「あ、そうだ、浦藻さん、うちに遷したご神体やいろんな書物はどうするんです?いつまでもうちを神社代わりにしとくわけにはいかないでしょう」
「それも難問ですよ。一応、私が宮司をやって管理して来て、神社として再興したいと思っている以上、単独の神社にしたいんですけどね」
「あらあら、わたしとしては、うちが神社でもいいんですよ」
 いつの間に来たのか、秋子がにこにことして話に加わった。
 あれから水瀬家に戻ると、熱にうなされていた秋子が嘘のようにびんしゃんとして、その晩から家事を始める勢いだった。
 栞の胸にあった呪も消えており、完全に病が治ったことが証明された。
「そんな、それじゃあ俺たち、ずっとお邪魔してなきゃいけないじゃないですか。お嬢さんはともかく、俺と族長はいけませんやな」
「家族は多い方が楽しいですよ」
「いや、そういう問題じゃあござんせんでね……」
 秋子の何とも寛容すぎる思考について行けないのか、慎司はあたふたと崩れた言葉づかいで言う。
 どうやら慎司生、あわてるとべらんめえになる癖があるらしい。
「……まあともかく、あのままではきちんとした祭祀を行えないのも事実なので、いずれ遷らせていただきますよ」
 その移転候補地としては、物見神社の元摂社だった稲荷神社、つまり「盟神探湯」で祐一たちが秋子を尾行するために隠れたあの神社が最有力だという。
「調べてみると、町内会でごく稀にしか管理しないそうで。それならいっそ引き取って、新しい物見神社にした方がよかろう、そういうわけですよ」
「……だが、無い袖は振れぬ、と」
「うっ」
 慎司に思い切り痛いところを衝かれ、思わず浦藻がつまる。
 南森は郊外都市とはいえ、「市」の肩書きがあるし、郡山や白河の衛星都市でもある。
 このため路線価が意外と高く、浦藻も調べて頭を抱えてしまったのである。
「はあ……こりゃ、年単位ですかねえ。地元の方との交渉は互助組織さんにまかせられるにしても、金は自分で工面せねば……」
 死ぬまでに再興出来るかしらん、と盛大に悩み始めた浦藻を尻目に、真琴は稲荷寿司を飲み込むと、
「まあ、てなわけで、外に出たら出たで大変なのよぅ」
「それ言ったら、ボクだって大変だって。義務教育修了してないんだよー……でも歳はしっかり祐一君と同い歳だから、困っちゃってるんだよね。一応、救済措置はあるらしいけど、来年までかかっちゃいそうな感じで」
「まあ、それはどうにもなんねえよな。でも、あゆって成績どうだったんだ?」
「……うぐぅ。訊かないで」
「ちょっと待てい。無茶苦茶心配すぎるぞ」
「うぐぅ……ボク、あっちにあいさつ回りに行って来るよ」
 そう言って、てくてくと歩いて行くあゆ。
「……逃げたな」
「逃げたわね。ま、あゆらしいといえばあゆらしいけど」
 真琴の視線の先に、舞や佐祐理に出迎えられるあゆの姿が見える。
「まあ、いいんじゃないか?先のことを悩んでもしょうがないし。今出来ることを、やっていくしかないやな」
 そう言ってフォローする祐一の言葉を聞いて、真琴は、
「だって。遠い将来について悩みすぎのお兄ちゃん!」
 さっきから頭を抱えている浦藻の肩をぽんぽんとたたく。
「うっ……真琴、お前まで私をいじめるのか?」
「いや、いじめちゃいないけど」
「いいや、これはいじめだ。あああ、部下にいじめられ、妹にいじめられて……すねてやる」
 そう言いながら、場を離れる浦藻を、
「いや、お待ちくだせえ、族長!あっしはいじめたつもりは毛頭ござんせん!」
 すっかりべらんめえ口調になった慎司が追いかける。
 完全に漫才コンビ化した族長・貞人コンビに、祐一は、
「弾けてるなあ、二人とも」
 盆の窪をかきながらつぶやく。
「ま、ずっとくそ真面目で通してきたから反動でしょ……って、さりげなくお稲荷さん全部食べられちゃった!」
 重箱をのぞきながら悔しがる真琴に、
「さすがは狐……油揚げには目がないと」
 あきれたようにつぶやく。
「はあ……まあ、しょうがないわね」
 重箱の蓋を閉めると、真琴は、
「ところで祐一……その、腹ごなしに、そこまで散歩しない?ほら、あの三角点のあたりまで」
 そう言って誘って来た。
「ん?いいよ」


「うーん、いい風」
 三角点前に着くと、真琴はうん、と伸びをして気持ちよさそうにそう言った。
 こちらの周りも、桜が満開だ。
 ただ一つだけ違うのは、三角点に花束が添えられているということである。
 この花束は、ここで美汐と出会い、ここで消えて行った令に対する手向けの花である。
 もちろん、見つかるとやかましいので回収されるが、今はそんな人間はいないので堂々と飾っておける。
「それにしてもさ、後で気づいたんだけど」
「何?」
「お前が消えたのも、確かこの辺だったんだよな。あの時は大変だったから、三角点まで気にしてる暇はなかったけど」
「あ、それで、何だか風景に見覚えがあったんだ……」
 そう言って驚いたように口に手を当てる真琴に、祐一はほほえんでみせると、
「『春が来て、ずっと春だったらいいのに』か。実際春が来てみて、どうだい」
 そう問うた。
「最高よぅ。でも、ずっと春だなんて、そんなうまい話はないわけだしね」
 そう言うと、真琴はふっと顔をうつむけ、
「名雪が言ってたよ。四季折々、いろんな姿を見せるこの街が好きだ、って。あたしが春好きなのは宗旨替えするつもりはないけど、名雪くらいこの南森の街に深い愛着が持てるといいな、って思う。それでなきゃ、外出た甲斐ないしね」
 髪をいじりながらあはは、と笑う。
「お、随分柔軟なんだな」
「そりゃ、元々はそういう性格だもの。……でもねえ、二つばかり譲れないことがあるのよぅ」
 そういって、真琴はいたずらっぽく口に手を当てる。
「一つは、『桜はやっぱり山桜』。ここの丘にも結構あるけど、染井吉野に押されちゃってね」
「……渋い選択だな。俺は江戸っ子だから、染井吉野の方が好きだが」
「江戸っ子って……祐一って、どっちかというと多摩っ子か武蔵野っ子でしょ」
「うるせえやい。今や三多摩も東京都下なんだからいいんだ」
 その答えに真琴は苦笑する。
「ま、それはともかく……もう一つが、『ここで結婚したい』」
 その真琴の言葉に、祐一は真琴が消える直前の「結婚式」を思い出した。
「おいおい、あれをまたやるのか?俺も名雪も、別に構わないが」
 祐一がそう言うと、真琴は、
「違うわよぅ。ここで、本物の結婚式を挙げたいの」
 彼の予想を超えた答えを口にした。
「ぶっ……ちょ、ちょっと待て。本物って、俺たちまだ高校生だぞ。第一、お前はまだ戸籍がなかろうが」
 突然の爆弾発言にとまどう祐一に、
「いや、将来の話よぅ、もちろん。何だったら、戸籍が出来たらすぐにでも挙げちゃう?」
 真琴はくすくすと笑いながらそう答える。
「お前なあ……将来のこと考えすぎだ、とか兄貴に言っといて自分はそれかよ」
 あきれたように言う祐一に、真琴は、
「ん?でも、今出来ることも、しっかりあるわよぅ」
 指を口先に当てながら言う。
「何だそりゃ」
「祐一が好きだ、って言うことよぅ」
 その答えに、祐一はやられた、という顔になったが、
「なら、俺が今出来ることも一つだ」
 すぐにほほえみを浮かべると、
「真琴が好きだ、って言うことさ」
 そう言い、ひょい、と真琴を腕(かいな)にからめ取る。
 そして、ゆっくりと、おのれの影を真琴の影に重ねた。
 その眼下で、満開の桜の枝の間を、上りの寝台特急が蒼い矢となって駆け抜けて行く。
 南森の街は、もう花ざかりだった。


<了>
(平二十・八・十)
[平二十・八・十二/補訂]
[平二十・八・十六/再訂]
[平二十・八・二十一/三訂]
[平二十一・五・二十四/四訂]

[あとがき]

 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 さて、「花ざかり」最終回「丘の上から」、いかがだったでしょうか。
 この「花ざかり」シリーズも、これで完結です。第一回目の「妖花」が平成十三年三月の脱稿なので、完結までに何と七年半要したことになります。しかし実際には、私自身が平成十四年に躁鬱病を発症し、第二回目と三回目の間で三年、三回目と四回目の間で四年開きましたので、実質書いたのは半年……。病気ゆえどうにもならないことであったとはいえ、構想自体は既に第一回目の時点であったのだから、さっさと書いてしまえばよかったと後悔しきりです。
 さて今回の話は、最終回ですので殺生石討伐の本番と、その後日談です。もう役者が揃いましたし、討伐に必要な情報も冒頭で分かってしまいましたから、後は伐つだけ、ということになるわけです。ただし、ただ伐つだけでは話として薄くなるので、最後の最後まで殺生石の抵抗に遭って妨害され、それを乗り越えながら討伐する、という筋書きにしてみました。アイディアを詰めこんだ形になったので、少々妨害が多すぎるか、という気もしますが……。
 あと、最後は花見で締めました。これは特に書く内容を「後日談」、そして最後の二文で締めることしか決めていなかったので、必要事項を織り込めば後は自由という扱いにしています。そのせいで筆のおもむくまま書いたら、浦藻・慎司は弾けるわ、最後は祐一と真琴が甘々でのろけてるわ……特にのろけるなんて自分の作品では初めてだったので、少々恥ずかしい感じがします。そのような感じでいろいろある作品となりましたが、楽しんでいただけたならば幸いです。
 なお、文中の甲骨卜占に関する描写は、ほとんど私が作ったものです。文章も、こちらの京都大学人文科学研究所のサイトで公開されている貝塚茂樹博士の論文内の釈文を参考に、勝手にそれらしく作ったものです。盟神探湯の時と同じく、雰囲気を出すためのものと思ってご覧下さいませ。
 しかし、これだけ手間暇かけて書いたせいもあってか、当分この「花ざかり」は忘れられそうにないですね。設定もあれだけ徹底的にした以上もったいないので、もし精神的余裕があれば「花ざかり」設定でまた何か書いてみたいものです。
 それでは、また機会がありましたらお会いいたしましょう。


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