青 空
作/苫澤正樹 

※このSSは、Purple software(パープルソフトウェア)のPCゲーム「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」及び同ソフトのファンディスク「はぴぶりファンディスク」を基としています。
※両者のねたばれを含みますので、両方とも未プレイの方だけでなく「はぴぶりファンディスク」のみ未プレイの方も充分にご注意ください。



「ん……?」
その朝、僕――琴芝高志(ことしばたかし)は、いつも通り表を走る市内電車の音で眼を覚ました。
旧型車輛が今も主力のこの街の市内電車は、路地奥からでも聞こえるほど走行音が大きい。
「いつもこれで眼が覚めるなあ……ま、不快な音じゃないけどね」
そんなことを、眼を閉じたままつぶやいた時だ。
廊下の方から、どたどたどたどたと床が落ちそうな勢いの足音が響いて来た。
それを聞いて、
「あっ……来たな」
そう言うと、素早く僕はかけ蒲団にもぐり込み、壁側に思い切り身を寄せる。
と、次の瞬間。
「タッカシーッ!!」
そんな女の子の声とともにどんっという踏切音が響いたと思うと、僕の寝ているベッドに向かって何かが飛び込んできたものだ。
「タッカシー、朝だよーっ!!ごっはっん、ごっはっん!!……って、あれ?」
やたらにテンションの高い声を上げながら「ごはん」を連呼した後、急に怪訝な調子になるその声に、僕は一つくすりと笑うと、
「チョコ、僕はこっちだよ」
かけ蒲団からひょいと顔を出してみせる。
「ええーっ!?……ま、またやられたぁ……ひどいよ、タカシィ……」
自分の予想と異なる場所から部屋の主に顔を出され、おおげさに落ち込む栗毛のポニーテール少女――チョコに、僕は苦笑しながら続ける。
「ひどいって……まあ、許してくれよ。気持ちはうれしいけど、先に眼が覚めた時くらいよけなきゃ身が持たないって」
そう、いつでも元気、無邪気が持ち前のチョコは、朝いつも僕を起こしに来る。
……ベッドへの飛び込みで。
チョコとしては何てことない愛情表現なんだろうけど、やられるこっちは結構大変だ。
ただどんっと乗っかってくるだけならいいけど、鳩尾に入ったりすることもあるし。
だから最近は、先に眼が覚めた時は必ずこうやって防禦することにしてるんだ。
「ううーっ……今月、まだ始まったばっかりなのに既に1勝4敗だなんて、また負け越しペースだぁ」
そんなことを言いながら悔しがるチョコ。
負け越しペースって……相撲じゃないんだからさ。
妙なところでこだわりのある娘なんだよね、チョコって。
「ほらほら、そんなことで落ち込んでないで。朝ご飯だろ?食べに行こう」
そんなチョコに苦笑を覚えつつ、僕はそう言って彼女をうながす。
「あっ、そうだ!!ごっはっん、ごっはっん、ごっはっん……」
「ご飯」と聞いた途端、ころっと表情を変えて「ご飯」コールを始めるチョコに半ば引っ張られるようにして、僕は下の食堂へと下りていく。
「サツキー!!タカシ連れて来たよー!!」
そう言って元気に厨房の方へ呼ばわるチョコに、
「あ、あれ……チョコさん、早すぎですよ。まだ、おつゆを温めてる最中なんですから」
濃い藍色の髪の女の子――皐槻(さつき)ちゃんが、困ったように答える。
「そ、そうだったの!?」
そう言って意外の表情となるチョコに、
「全く、アンタって娘は……さっき皐槻ちゃん、温め忘れてたって言ってたじゃない」
テーブルの向かい側から、半ばあきれたようなつっこみが飛ぶ。
「ええーっ、ホノカ、ボクそんなこと聞いてないよ?」
すかさず、チョコが不満げに黒髪の女の子――ほのかサンに文句を言うが、
「聞かずに飛び出していくアンタが悪いんでしょ……ほら、座った座った」
軽くいなされ、座るように促される。
そんな光景をよそに、厨房では朝ご飯の準備が進む。
「あうーっ、あうあうーっ」
「えっ……雪乃さん、味見、ですか?そうですね、濃くなっていそうですしね」
ちょっと背の低い、薄茶色の髪の毛の娘――雪乃(ゆきの)のいつもの喃語(なんご)に促され、皐槻ちゃんは小皿を取ってすっと味見する。
が、次の瞬間。
「……あ、こ、これは……煮詰まりすぎてますね」
何とも言えない表情で、皐槻ちゃんが小皿を置く。
「水を入れてもう一度炊かないと、ちょっと飲めませんね、これは」
「ええーっ!?じゃあ、まだかかるの!?ボク、おなかぺこぺこだよー……」
皐槻ちゃんの言葉に、チョコが情けない声を上げる。
「そんなにかかんないわよ、味噌汁の炊き直しなんて。我慢なさい」
「ううーっ……」
ほのかサンにそうさとされ、沈黙するチョコ。
「すみません、高志さんもチョコさんもほのかさんも。もう5分くらいで大丈夫だと思うんですけど」
そう言って申しわけなさそうな顔をする皐槻ちゃんに、
「いや、いいよ。今日は休みだし」
僕はそう言うと、ぐるりとテーブルを見回す。
「……あれ?ひびきさんは?おねーさんはさっき廊下ですれ違ったから、じきに来るだろうけど」
そう言って怪訝な顔になる僕に、皐槻ちゃんが後ろから、
「あ……ひびきさんですか?……おかしいですね、玄関先と電停までの路地を掃除しに行くと言っていたのに。もう、戻ってもいい頃ですよね」
不思議そうな声を上げる。
「そうなんだ。じゃあ、ちょっと見て来るよ」
彼女の言葉にそう言うと、僕はついと食卓を立つと、玄関へと向かう。
玄関の戸を開けて見回してみるけど、ひびきさんの姿は見えない。
「うーん、電停の方かな」
几帳面なひびきさんは、別に必要があるわけでもないのにうちから小泉町(こいずみちょう)の電停へ通じる路地まで掃除をしに行く。
だから、恐らくそっちにいると踏んだんだけど……。
「……あれ?」
電停近くにある「千成湯」の側まで来た時、僕は駐車場の壁際に変なものを見つけた。
「琴芝」と大書されたほうきとちり取りが立てかけてある。
どう見ても、途中で掃除を中座したとしか思えない状況だ。
「何やってんだろ、ひびきさん。まじめだから、ほっぽり出すなんてことないはずなんだけど」
そう言って電停の方へ一歩踏み出した時だ。
僕の眼に、奇妙なものが飛び込んで来た。
「………」
路地の出口にある電柱の陰で、迷彩色のシートをかぶり、あごに手を添えて電停を凝(じっ)と見つめている少女の姿。
その眼はあくまで真剣そのものだ。
真剣なのだが……はたから見ているととてつもなく変なのは言うまでもない。
それが証拠に、電車の乗客や乗降客のほとんどが彼女に好奇の視線を向けて来る。
あまりの光景に一瞬硬直したけど、ほっとくとこのままずっとやってそうな気がするな……。
そう思って、
「……ね、ねえ……何、やってんの?ひびきさん……」
僕はその深緑のおかっぱ頭の女の子――ひびきさんに声をかけた。
するとひびきさんは、
「………!!」
声にならない叫びとともに、ばっとこちらを振り返った。
あ、あの……そんなに驚かれると困るんだけどなあ。まあ、いつものことなんだけど。
「あ、あのさ……前も言ったけど、それ、全然隠れたことになってないから」
とりあえず、目的を訊く前にそこにつっこんでおく。
「な、なぜ私の完璧な擬装を!?」とか考えてるに決まってるし……。
「……で、何でまた、電停なんか見てたの?朝ご飯、みんな待ってるよ」
ひびきさんが戸惑ったような顔をしているけど、気にせず訊ねる。
するとひびきさんは、シートを脱いで小脇に抱え、
「あ……申しわけありません。最近、都会で不特定多数の人間を襲う賊が増えていると聞き及びまして、警戒をしておりました。ここにも電車がありますし……」
かしこまった様子で言う。
「不特定多数って……テロのこと?」
「はい。日本も危ないと、新聞などで報じられておりましたので」
あくまでまじめに答える彼女に、僕は思わず盆の窪をかいた。
「いや、さ……世界中でそういう事件が多発してるのは確かだけど、即日本、しかも富山みたいな地方都市でもそこまで危険かっていうと、それは早合点だと思うよ」
というより、あれって週刊誌とかが読者集めのために不安をあおり立ててるだけだもんな。
「でも、もしもということが……」
「いや、そりゃそうだけどさ。でも、こんなうららかな週末の電車沿線で、爆弾や毒ガス使ったテロがあるとも思えないんだけど」
「……しかし、減速するなり仕掛けられた爆弾が爆発ということも」
「『新幹線大爆破』じゃあるまいし……それが本当なら今頃市内潰滅だよ」
というより、何でそんな古い映画知ってるんだろ、ひびきさん……。分かる僕もどっこいだけど。
「………」
僕のもっともな言葉に、黙り込むひびきさん。
が、次の瞬間ひびきさんから帰って来た答えは……。
「……ピ、ピヨ、ピヨピヨピヨ……」
ひよこの鳴き真似だった。
「……だからさ、ひよこはこんなところでテロを警戒しないと思うよ」
あきれたように言う僕に、彼女は狼狽したような表情を浮かべると、今度は、
「……カ、カメ、カメ、カメ……」
そんなことを言い始める。
(またいつもの日本語逃避が始まったよ……)
そんな風にちょっと苦笑しながら、
「亀はそんな鳴き方しないって……とりあえず、亀だから日本語は通じないってこと?」
そう言ってみる。
「そうです。私はただのどじでのろまな亀です、教官!!」
その言葉に、我が意を得たりとばかりにびしっと敬礼を決めながら、しっかりと「日本語」で答えるひびきさん。
いつものことだけど……ちょっと頭痛い。
と、その時だ。
「ねえ、高志にひびきぃ、何やってるの?ご飯、冷めちゃうわよ」
背後から、独特のアクセントのついた女性の声が聞こえてきた。
「あっ、おねーさん……」
「あっ、おねーさん、じゃないわよ。もう、チョコが早く食べようってうるさくて……」
そう言って口をとんがらせる水色の髪の女性に、僕は、
「ごめんごめん、ひびきさんの様子見に行ってたら、つい時間食っちゃってさ」
あははと笑いながら困ったように言う。
「魔っ女ーっ!!タカシとヒビキどしたの!?」
「ああ、はいはい、こっちにいたわよ。今連れてくから……」
我慢しきれず飛び出して来たのだろう、チョコが路地の中ほどで怒鳴るのに、なだめるように彼女が答える。
「ごめんよチョコ、今行くから」
僕は「魔女」と呼ばれた女性と一緒にそう答えると、わがままな姫約1人をなだめるべく、路地を我が家へと入って行った。


魔女――普通なら漫画や小説の中にしか出てこないような、架空の存在。
その「魔女」と呼ばれる存在が現にこの世にいて、しかも僕の家に同居までしている。
その上、その「魔女」の特殊能力として語られる「魔法」まで、僕は散々体験しているのだ。
そもそも、この琴芝家がこんなにぎやかな日常を送るようになったきっかけを作ったのが、ほかならぬその魔女こと、通称「おねーさん」だったりする。
チョコ、皐槻ちゃん、雪乃、ほのかサン、そしてひびきさん。
5人ともに、同居はしているけど僕との血縁関係は一切ない。
それどころか、彼女たちは「人間」ですらないのだ。
チョコは犬、皐槻ちゃんは猫、雪乃は金魚、ほのかサンは鶴、ひびきさんは亀……。
俗に言う、「獣娘」「獣っ娘」という存在だったりする。
嘘だと思うなら、ちょっとチョコや皐槻ちゃんあたりの頭とお尻を見てみるといい。
チョコの場合は髪と微妙に色違いの垂れ耳と、短くぴんとはね上がった尻尾、皐槻ちゃんの場合顔の横にこれでもかと存在を誇示する三角の耳と、長くすらりとした尻尾。
どこからどう見たって、人間では有り得ない。
まあ、チョコの耳は髪とほとんど同化してるし、皐槻ちゃんの耳も下向きで遠目には大きなリボンに見えなくもないから、信じてもらえないかも知れないけど。
それに残りの3人は、特にこれといって「動物」らしいところもないし。
でもこの5人は、まぎれもなく魔女のおねーさんが、それぞれの動物に魔法をかけて人間の姿を与えたものなのだ。
その事情を説明するには、そもそも何で僕がこんな生活をしてるかってことを、まずは話さなきゃいけないだろう。
ことの起こりは4年前、化成会社に勤める僕の両親が、2人そろって中国は満洲に赴任することになったことから始まった。
何でも、満洲随一の大都市である大連に設立された合弁会社の専務として選ばれたとか……。
言ってみれば、新事業に際しての栄転だ。
で、それはよかったんだけど……そこで問題になったのが僕。
本来ならしかるべき親戚に預けるところなんだろうけど、あいにく両親とも一人っ子だった。
その結果僕は高校1年にして、この富山・堀川小泉町にある大きな家に一人暮らしする羽目になってしまった。
最初こそ、開放された気分で気楽にいろいろ楽しんだけど……それも限界があった。
一度転校した関係もあって、小・中学校の友達とは縁が切れている。
高校の方も、不幸にして僕の周りにいた同級生は地元の荏原や針原に住んでいるやつばかり、その他も上市だの、滑川だの、果ては魚津、黒部といった全く逆方向に住むやつばかりだった。
だから、休日に気軽に会うことなんてそう出来るもんじゃない。
次第に僕は、単調でほとんど変化のないこの暮らしに倦(う)み果ててしまっていた。
チョコが唐突に現れたのは、そんな時だった。
僕が学校から帰って来たら、突然食堂にいて、夜のおかずにとっておいたコロッケにかぶりついていたんだ。
本来だったら警察に突き出すところだったのかも知れないけど……僕は「行くところがない」という彼女の話を聞いて、しばらく家においてあげることにした。
え?それはおかしいだろう、って?
確かにね。でもその時の僕は、そんな「おかしな」判断をしてしまうほど、家族との生活に飢えていた。
ま、仮にそうでも見ず知らずの女の子を居候させるなんて……つくづく僕も人がいいもんだ、と我ながら笑いがこみ上げてくる。
「食欲魔人」という言葉がぴったりな大食らいで、底抜けに明るいチョコに、最初は戸惑いもしたけど、次第に慣れていった。
そんな頃、出会ったのが皐槻ちゃんだ。
あれは確か、冷たい雨がしとしとと降りしきる雨の日だったっけ。
小泉町の電停からもうそろそろうちが見えて来る、というところで、電柱に寄りかかるようにして、彼女が立ちつくしていた。
しかも全くの濡れねずみの上、茫然自失の状態で、だ。
いくら何でもこれを放っておけるわけがない。人通りの少ないところだっただけに、僕の判断は迅速だった。
即彼女に傘を差し掛け、大急ぎですぐ近くの我が家に飛び込んだ。
だけど……正直最初は困り果てた。ひどくおびえているというのか、心を完全に閉じてしまっていて、お風呂に入れることすらままならなかったんだから。
だからこそ、1週間後に自発的に朝食を作ってみせ、僕を必要以上に怖がっていたことを詫びるとともに、自分から家事を手伝いたい、と言い出した時には、ほっとするとともに嬉しかった。
それ以来、台所周りの仕事は皐槻ちゃんの担当になっている。
そこまでは、僕もまさか「魔法」が関与しているなんて思ってもいなかった。
そもそも、チョコや皐槻ちゃんが自分を犬や猫だと言い張るのですら、疑っていたくらいなんだから。
だけど、雪乃が現れた時には、さすがに僕も彼女たちが人間ではないこと、そして何かの力によってこの一連の事件が起こっていることを思い知らされた。
……何と雪乃は、突然何の前触れもなく、ずぶ濡れの水着姿で玄関先に座りこんでいたのだ。
まさに降って湧いたとはこのこと。さすがの僕も一瞬パニックを起こしかけた。
しかも、皐槻ちゃんが喃語しかしゃべれない彼女から、彼女が僕の飼っていた金魚の雪乃その人(?)であることを聞き出した。
はっと見てみると、確かに金魚鉢はもぬけの殻……さすがに、信じないわけにいかなかった。
結局、元々うちにいたのだからということもあって、雪乃も同居になった。
一体何が起こっているのか、それを確かめる間もないまま、今度はほのかサンがうちにやって来た。
まあ、本人が聞いたら怒るだろうけど……はっきり言って、かなり情けない出会い方だったな。
何せ太田口通りの隅っこで、空き腹をかかえて座りこんでいたんだから。
後で聞いたところ、「小泉町」と「上本町」を勘違いして電車を降りてしまい、にっちもさっちも行かなくなってのありさまだったとか。
僕があの日、偶然大和百貨店(だいわひゃっかてん)からの帰りであそこを通らなかったら、きっと大変なことになってただろうなあ。
そして、うちで丼飯を大いに食べた後、やはり「行く場所がない」と居候になった。
頑固で短気な彼女と僕はたびたび行き違いを起こして(それも一方的に)、随分と癇気を買ったけど、最終的には僕のことを理解してくれて、今じゃ4人のお姉さん役を買ってくれている。
そしてその直後、ようやく僕にこの状況の何たるかを理解させる機会がやって来た。
それが……さっきも述べた、魔女のおねーさんとの出会いだ。
これがまたとんでもない出会いで、住宅地のど真ん中で木の枝やジャングル迷彩のシートを装備し「隠れて」琴芝家の様子をうかがっていたところを、僕に発見されたんだ。
……まあ、今朝のひびきさんみたいな隠れ方だったといえば、簡単に想像がつくだろう。
そこで初めて、僕はみんなが元は動物で、このおねーさんが魔法をかけて人間の姿にしてあげていたことを知った。
もっとも、最初はおねーさんも本当の目的については、「私の弟子になりたいって言うから」なんて適当なことを言って隠していたけど、みんなと暮らしてゆくうちに、事情が次第に分かってきた。
まあ、雪乃とほのかサンの2人については、雪乃は飼い主の僕と話したかったから、ほのかサンは群れからはぐれて黒部の山奥で迷っていたところを、おねーさんがのりで人間にしたからと、至極単純な理由だったようだけど、チョコと皐槻ちゃんは違った。
チョコは、生まれ故郷の岩峅寺(いわくらじ)で昔遊んだ男の子(実は僕だったんだけども)を探すために。
そして皐槻ちゃんは……人間にいじめられないために。
実は皐槻ちゃんのお母さん――葉槻(はづき)さんは、富山空港の近くで破落戸(ごろつき)に虐待され、無惨な最期をとげている。
そこを通りかかったおねーさんが、皐槻ちゃんのそんな、血を吐くような必死の願いを叶えたわけだ。
最初、彼女が全く心を開かなかったのも、結局はそれ……。
僕は、この話に衝撃と強い慷慨をおぼえるとともに、いつかひとつの思いを抱くようになっていた。
それは、
「葉槻さんみたいに非業の死を遂げる動物を少しでも助けるために、獣医になる」
このことだった。
もちろん獣医になったって、葉槻さんを死に追いやった動物虐待そのものがなくなるわけじゃない。
だけどもしそういう目に遭った動物を救えるなら、それ自体は充分に意義のあることだろう。
そんな使命感に衝き動かされた僕は、県内有数の私立大学・呉東大学(ごとうだいがく)に根性で現役合格し、農学部の獣医科を志望、現在はるばる市内電車と地鉄電車を乗り継いで越中三郷(えっちゅうさんごう)まで通っているわけだ。
それはそれとして……最後にひびきさんが残ったわけだけど、これがちょっと事情が複雑なんだ。
あれはみんなと暮らし始めて1年目の夏のこと。
魔女のおねーさんのありがたいご託宣により、商店街の福引で特賞の温泉旅行を当てた僕たちは、こんな機会めったにないからと、意気揚々と新潟の瀬波温泉まで出かけた。
そこの旅館で仲居さんをしていたのが、ひびきさんだった。
しかも「お客様の安全を確保するため」と、迷彩シートで松林に隠れて僕たちを監視していたところを発見……という、どこかの誰かと出会った時のようなおかしな出会い方だった。
それだけなら、ちょっと変なところのあるまじめな仲居さん、で終わったのだろうけど……問題がその後だ。
旅館に泊まって3日目の朝、とんでもない異変が起こった。
その日の朝、皐槻ちゃんと話をした僕は、妙な既視感にとらわれたんだ。
いや、既視感なんてものじゃない。相手の話の一字一句まで覚えていて、しかもその先の行動まで先読み出来てしまう。
どう考えても、一度やった会話や行動を繰り返しているとしか思えなかった。
そして事実、その日は旅行2日目が繰り返していることが、数々の証拠から浮かび上がって来た。
幸い、ほのかサンもこのことに気づいて、あれこれと原因を考えてくれた。
まず単純に、おねーさんの魔法によるいたずらという説。
そしてもう一つが、誰かが夢の世界に自分たちを閉じこめてしまったという説だった。
前日の夜からおねーさんがどこかへ行っていたこともあって、前者の説も説得力はあったんだけど……。
その日の夜、僕に肉体関係を迫ってきた皐槻ちゃんが、翌日忽然と姿を消すという事態が発生、さらにチョコや雪乃がおねーさんや皐槻ちゃんのことを忘れてしまうという異常な状況になって、あっけなくその可能性は潰えた。
もちろん、この「翌日」も旅行2日目のまま。事態は泥沼と化した。
そしてさらに、ほのかサンが「想定外のことをしたために皐槻ちゃんは夢から排除された」という説を証明するために、自ら僕と関係を結ぼうとして……そのまま消えてしまった。
何が現実で、何が夢かわけの分からない状況の中で、立て続けに大切な家族を失った僕は、翌日――といっても3度目の繰り返しとなる旅行2日目――にはすっかり満身創痍の状態となり、半ばやけになっていた。
そんな時だ。ひびきさんが、この悪夢のような出来事を企てたのが自分だと告白したのは。
僕は彼女がそんなことをするとは信じられず、何度も否定の言葉を引き出そうと必死になった。
だが、彼女は「これは自分の夢」と言い張ったばかりか、
「どうせこれは夢、残った2人をどうするもあなたの自由」
「どうぞお好きなように、『思い出』という名の心の傷をつけてあげてください」
などと、僕を挑発して来た。
普通ならぶん殴るところだろう。そりゃそうだ、僕たちの大切な家族とその暮らしを侮辱されたんだから。
だけど僕は見てしまった。彼女の眼が、明らかにうち沈んでいることを。
途方もない寂しさ……それも絶望に近い寂寥感を、無理矢理に押し込めているかのような眼だった。
それを見て取った僕は、心に芽生えた怒りの矛を収め、彼女にこう問うた。
「この夢の中で僕が傷つき続けるってことは、君も傷つき続けるってことじゃないのか?」
この搦手(からめて)からともいうべき僕の反駁に、彼女は容易に崩れた。
もちろん、僕としてはその時は彼女を言い負かそうと思って言ったことじゃなかったけど、相手としては、僕が悪夢を見せた根源を罵るどころか、逆に心配する様子を見せたことが相当意外だったみたいだ。
そしてそこでようやく、ひびきさんが自分がおねーさんに助けられた亀で、従者として魔界に行っていたのが、当のおねーさんが僕にかまけて人間界に入り浸っていたのを見て、寂しさのあまりに逆恨みし、僕を夢の世界に閉じこめてしまおうと画策したという話を聞かされた。
さらに命の恩人のおねーさんを忘れようという、彼女にしてみれば悲壮な決意をしていたということも……。
だけど、それすらも僕には彼女のことを気の毒に思う材料になりこそすれ、恨むたねにはならなかった。
だから、僕から同居を申し出た。
そのことも、ひびきさんには天地が引っ繰り返るほど驚愕の言葉だったようで、もう恨むのはやめる、と宣言して、僕たちを夢の世界から解放するための手段を講じてくれた。
そして無事現実世界に戻った後、彼女は、
「今回のことは、私の不徳のいたすところでした……おわびとして、高志さまはじめみなさまのために、この身、捧げさせていただきます」
と言って、僕の家の居候というよりお手伝いさんみたいな感じで同居することになった。
いや、僕としては、そんな気張っておわびしてもらわなくてもいいんだけどなあ。
確かに嫌な目にはあったけど、ひびきさんの気持ちも分かるし、それに夢だったんだからもういいじゃないか。
もっともそういうところが彼女のいいところだ、とおねーさんも言ってたから、気が済むようにさせている。
でも、あの時折暴走気味で奇行すれすれの行動に出るのだけはちょっとねえ……。
まあ、慣れてしまえば何てこともないけどさ。
そして、そこに魔力を使い果たしてしまって魔界へ帰れなくなったおねーさんも正式に同居することになって、こんなおかしな、でも楽しくて飽きることのない7人家族が生まれたのだった。


「ふう……こんなもんかな」
そういうと、僕は「琴芝」と書かれた表札の下に張られた、

 桐山皐槻  佐伯チョコ
 加積雪乃  櫻井ほのか
 主計絵里香 主計ひびき

と書かれたプラスチック板を軽く押して接着を確かめた。
簡単に言ってしまえば、僕以外の5人の娘たちとおねーさんの分の表札の張り替えだ。
フルネームなのは、うちが表向き「下宿屋」ということになっているせいでもある。
やっぱり何の関連もない女性が何の理由もなく6人も暮らしていたら怪しまれるし、さりとて全員親戚というのも不自然だから、とおねーさんが両親に話を通してこうしてくれたらしい。
何で動物なのに姓があるかというと、実を言うとこれもおねーさんのおかげだったりする。6人同居が決まってすぐ、みんなが人間として暮らせるようにと魔法で戸籍を作ってくれたんだ。
当然本籍つき。皐槻ちゃんは生まれ故郷の八尾、チョコも同じく故郷の岩峅寺、ほのかさんはおねーさんと出会った黒部川の流れる黒部、雪乃は生まれた場所が分からないのでおねーさんが適当に選んで滑川にしたんだとか。
それを参考にして姓まで作るなんて……意外と芸の細かい人だったんだな、おねーさん。
あと「主計絵里香(かずええりか)」というのは、おねーさんの人間界での名前だ。ひびきさんが同姓なのは、「妹」という設定だかららしい。
昔金沢に住んでいた頃、よく散歩した川辺の町「主計町」から取ったとのこと。そういえば、随分前に町名復活で話題になったところだ。
今回は本格的に住むので、改めて金沢に戸籍まで作ったらしい。
それにしても、おねーさんの本名って訊いたことないな……。
ま、「魔女」だの「おねーさん」だので通ってるから、今さら訊いてもなあ、って気もするけど。
そんなことを考えていた時だ。
「あ……表札の張り替えですか?ごめんなさい、忘れてました……」
門柱の向こうから、申しわけなさそうな皐槻ちゃんの声が聞こえて来た。
「いやいや、いいよ。こういうのは気づいた人間がやるもんさ」
そう言う僕に、皐槻ちゃんはくすりと笑うと、門の前まで出て来る。
そして、郵便受けから外にはみ出した郵便物を、外から引っ張り出すと、表札の前に立って、
「思ったより汚れるんですね、表札って」
僕が手に持っていた古い表札に眼を落としながら言った。
「そうだね。表通りから引っ込んでるとはいえ、排気ガスが流れて来ないこともないし、こうやって地道に替えないとね……。まあ、今回のは看板屋さんに頼んで、特別なコーティングかけてもらったから数年は持つよ」
僕がそう言うと、皐槻ちゃんは、穏やかな笑みを浮かべ、
「そうですね……私たち、琴芝の家に住む家族の証ですからね」
いとおしそうに新しい表札をなでてみせる。
「………」
そう、母親と死別している皐槻ちゃんは、人一倍「家族」というものに愛着を持っている。
そんな彼女が「家族」を語る姿は、何とも言えないいじらしさすら感じてしまう。
と、そんなことを思った時。
「あっ、高志さん……」
皐槻ちゃんが妙に上ずった声で僕の名を呼んだ。
「……えっ?」
「あの……腕……」
そう言われて僕は、いつの間にやら彼女の肩に腕を回していたのに気づいた。
「あっ!!……ご、ごめん」
そう叫んで、あわてて皐槻ちゃんの肩から腕を離す僕。
恥ずかしさから完全に沸点に達し今にも気化しそうな皐槻ちゃんの顔に、自然と僕の顔も赤くなる。
ま、まずい……何でまた無意識に腕なんて回しちゃったんだろう。
そんな気まずさに、僕が言葉を探していると、不意に皐槻ちゃんが、
「あ、あの……そういえば、今日は護国神社ののみの市なんですね」
まだ赤い顔を懸命に上げながらそう言い出した。
市内の西部、神通川の川端の安野屋(やすのや)にある富山護国神社では、第1日曜日にのみの市が開かれる。
何でも、全国にもその名を知られるほどの有名な市で、県外からも多くの骨董好きがやって来るとか……。
「あ、そういえばそうだったね。まだ行ったことないけど……」
それに僕も紅潮した頬を持て余したまま答えると、皐槻ちゃんは、
「そうなんですか……。あの、それでしたら、行ってみませんか?」
そう提案して来た。
「えっ?でも、古いものばかりだよ?」
「ええ、分かってます。でも古いものでも、使えるものがあればもしかすると家計の節約になるかも知れませんし」
「なるほど……一理あるね。のみの市といっても実態は何でもあり、安い小皿やお椀なんかもないわけじゃないし」
「それに……」
「それに?」
「面白そうじゃありませんか、思いもかけないものがありそうで」
そう言って明るくほほえんでみせる皐槻ちゃん。
こういうの見ると、随分積極的になったもんだなあ……と感慨深いものがある。
「そうだね。じゃあ、みんなで今から行こうか。……ひびきさんは、どう?」
そう言いながら、左後ろをくるりと振り向く僕。
その眼と、庭木の茂みの中で木の枝で擬装しながら表を見張っていたひびきさんの眼が合う。
「………!!」
「行きたいんじゃないの?さっき『のみの市』と聞いた途端、一瞬こっち向いたし」
朝食後からずっと、僕たちが会話している間も直立不動で歩哨を務めていたひびきさんに、僕はわざといたずらっぽく問いかける。
そして、
「……ピ、ピヨピヨ、ピヨ……」
またも始まるお家芸の日本語逃避。
それを適当にしておいて、僕は、
「まあ、そういうわけだから……ちょっと、みんなの予定を聞きに行って来ようか」
そう言って、皐槻ちゃんを促しつつ玄関を入った。





1時間後。
僕たちは、護国神社の拝殿の前にいた。
あれからみんなに予定を訊いて回ったところ、特に何もないとのことだったので、こののみの市の話をしてみた。
「やたーっ!!のみの市だ、酒池肉林だーっ!!」
とこれはチョコ。相も変わらず「酒池肉林」は健在だ。
神社でそれは、ちょっとまずいと思うんだけど……言っても無駄みたいなんでいいや。
「へえ……のみの市ね。実言うと、アタシも興味あったのよねぇ。でも、何か一人で行くのもあれだと思って、行きそびれてたから……ちょうどいいわ」
とほのかサン。愛書家として古本にも手を出している彼女らしく、真っ向から興味を持って来た。
『昔のおもちゃや道具、見てみたいです』
とこれは雪乃。……といっても言葉ではいつもの喃語なので、これは筆談だ。
去年の温泉旅行の時に平仮名を披露して以来、雪乃は僕らと意思を疎通させようとがんばり、今では日常生活では何ら不便を覚えないほどのレベルまで上達している。
特に以前、中央通りで城址公園までの道を訊かれた時に、地図を見事に書き上げ、「西町」「総曲輪(そうがわ)」「荒町」「公会堂前」「丸の内」とルビつきで目標物を書いた時には、その思いがけない発達ぶりにみんな驚き、その晩はお赤飯が食卓に並んだほどだ。
そして問題のひびきさん。再三日本語逃避をやらかすかと思ったが、
「高志さまがそうおっしゃるのでしたら、ぜひとも」
とようやく興味があるのを認めた。ただ、ほしいものを訊いたらまた逃避し始めたけど。
そこに、
「みんなが行くなら、私も異議なしよ」
おねーさんの参加表明が加わり、ぞろぞろと琴芝家ご一行ののみの市見学と相なったわけだ。
さて……。
礼儀として二礼一拍一礼での参拝を終えると、僕はぐるりと境内を見渡して、
「しかし……話には聞いてたけど、結構いろいろな店があるね」
心底驚いたという風につぶやいた。
普通「のみの市」というと骨董の店ばかり、というのが普通なんだけど、ここのはちょっと違う。
特に骨董というわけではなく古着や古家具などの不要品を売りに出している人や、自作の置物や細工物を出している人もいる。
さらには食べ物を扱っている店まであって、のみの市というよりフリーマーケットののりだ。
「あーっ!!豚汁、おいしそう!!みんな、食べようよー」
「こらこら、ちょっと前に朝ご飯食べたばっかりでしょうが……」
豚汁の出店に思いっきり惹かれているチョコと、突っ込みを入れるほのかサン。
そんな光景を見ながら、
「あ、あはは……チョコさん、今日の晩ご飯は豚汁にしますから、我慢してください」
ちょっと困ったように助け船を出してみせる皐槻ちゃん。
その腕の中には、境内を「おー」「あー」と言いながらきょろきょろ見回す雪乃。
何だか、いつもと違う空間にみんな浮き足立っているなぁ……。
そんなことを考えているうちにようやくチョコの豚汁熱もさめたようなので、
「さてそれじゃ、見て回ろうか。いろいろ割れ物もあるから、みんな注意して歩いてね」
そう言ってみんなを促し、ぞろぞろと境内を流し始める。
とはいっても物珍しさも手伝って、歩くのも長くは続かない。
「あ……これ、いいティーセットですね」
最初に足を止めたのは皐槻ちゃん。出がけに言っていたように、食器類に眼を留めていたらしい。
見れば、足許のシートの上に、古ぼけた化粧箱に入ったティーセットが置いてある。
「お嬢ちゃん、なかなかいいとこに眼をつけたねぇ」
「どこかの有名メーカーなんですか?」
「うーん、そういうわけじゃないみたいなんだけどね。ただ、あたしのお祖父ちゃんが結婚式の引出物でもらったものらしいから、そう悪いもんじゃないと思うよ。未使用だしね」
そう言う出店のおばさんの言葉に、箱の蓋を見てみると、
確かに「祝」の文字と紅白の水引の書かれた包装紙が張りついている。
「あれ、でもおばさんのお祖父さんってことは……もしかして、戦前のものですか?」
「ご名答。うちの蔵の中で70年以上眠ってたのを出してみたのよ。うちじゃ紅茶なんて飲まないし、かといって使ってもいないものを捨てるわけにも行かないしね」
「へえ……」
そういうおばさんの言葉に、皐槻ちゃんは箱からカップを取り出してしげしげと眺める。
箱が変色しているから古く見えたけど、単独で見ると西町の大和百貨店あたりで売っていてもおかしくないほどきれいだ。
「どうかしらね?古いけど、充分使えるし……。もし買うなら、3000円かそんなもんで売るわよ」
「3000円!?そんな安くていいんですか?」
「いいのよ、あたしゃ骨董として売る気はないから……。使ってくれる人がいるなら、そのカップだっていくらで買われようと本望でしょうからねぇ」
そう言ってにこやかにほほえむおばさんを、皐槻ちゃんはいたく気に入ったらしく、
「それじゃ、3000円で。大事に使わせていただきますね」
にっこりとほほえみ返し、無事商談が成立。
手提げの紙袋とともに、ティーセットは皐槻ちゃんの手許に渡った。
「いいものに巡り会えてよかったです」
「そうだね。70年も前のものという割には、ひびや傷ひとつなかったし……帰ったら、さっそく使ってみようか?」
「ええ。高志さんのお母さまが送って来てくださったジャスミン茶があることですし」
そんな話をしているうちに、今度はチョコと雪乃が少し先の出店で何かを見つけたようだ。
「うわっ……でっかい蛙……」
そっちの方に行ってみると、チョコのそんな言葉が聞こえて来た。
「え……って、なるほど。チョコ、それは薬屋さんの看板で使われてた人形だよ」
そう、チョコの眼の前には、よく薬屋の店先に並んでいる製薬会社のマスコット人形があった。
この店は、骨董というより昭和30〜40年代のおもちゃや看板などを扱っている店らしい。
「こいつはね、越前町の薬局でつい数年前まで使われてたやつだよ。店の主人が大切にしてたらしくてね、珍しくきれいな状態で手に入ったんだ。その代わり、値は張るけどね」
そんな風にマイペースに講釈を垂れる出店のおじさんを尻目に、2人は店のものをあれこれ触り始める。
そんな2人を嫌がるでもなく、
「ああ、そいつはね、昭和30年代半ばくらいに流行ったやつでね……」
いちいち説明をして、時に実際に動かしてみせるおじさん。
そんなほのぼのした光景が10分くらい続いたあと、雪乃がとあるおもちゃの前で手を止めた。
「あう……?」
「ああ、それね。それは『金魚浮かし』っておもちゃ」
見れば、雪乃の手の中にはブリキの平べったい金魚が握られている。
「最近、農協のおまけで出たりリバイバルで作ったりしてるところもあるけど、ここのは正真正銘、昔使われていたやつだよ。あひるや船のおもちゃみたいに、お風呂で浮かせて遊ぶんだ。……ちょっといいかな?」
「あう?」
そういうとおじさんは、雪乃の手から金魚浮かしを受け取り、ひっくり返したり板の継ぎ目に眼を凝らしたりし始めた。
「……うん。一括で買い取ったからここまでつぶさには見なかったけど、今見てみるときれいなもんだ。かなり使い込まれているのに、ほとんどさびが浮いてない。……どうだいお嬢ちゃん、買うならこれ、お勧めだよ。1000円でよければ」
そう言って眼くばせしてみせるおじさんに、
「あ、あう?あうあう、あうーっ」
雪乃は嬉しそうな声を上げる。
「『えっ、本当ですか?だったら、買います』ですって」
そこに皐槻ちゃんの素早い通辞が入り、
「はい、これ。中がブリキだからね、使ったらきちんと拭いて、さびないようにしておくれよ」
そんなおじさんのアドバイスとともに雪乃の手に金魚浮かしが渡った。
元金魚というひいき目まるだしの雪乃の無邪気さに僕が眼を細めていると、チョコが店の片隅にある大きな金だらいの中を見始めた。
「はぇー……」
「おや、こっちのお嬢ちゃんは、古銭がお好みかい」
「コセン?何それ?」
「ははは……あまりなじみがないかな。昔のお金だよ。うちの店では、そういうのもやってるんだ」
その言葉にのぞき込んでみると、確かに「一錢」やら「五錢」やら「大日本」やらといった文字の入った古銭が、じゃらじゃらと無造作にたらいに入っている。
「今のお金と全然違うね。というより、『銭』って聞いたことないよ?」
「そりゃそうだよ。戦後はお金の価値が大きく変わってね、『銭』なんて小さな単位は使わなくなったんだ。でも昔の人にとっては、それが今の1円5円みたいな基本の単位だったんだよ」
「へぇー……って、あれ?これ何?」
おじさんの解説を聞きながら、じゃらじゃらとたらいの中をかき回していたチョコの手がぴたりと止まった。
「このお金、でっかい……しかも重いや」
そう言ってチョコが取り出したのは、大きなメダルと見間違うような古銭。
表面をよく見ると、龍の文様を「明治十九年」「大日本」「ONE YEN」という文字が取り巻いている。
「お、それはね、明治の1円銀貨だね。1円っていっても、今の1円じゃないよ……今でいうなら5万とか、10万くらいの価値があったんだ。何せ120年も前の話だから」
「120年前!?……す、すごいね。そんな昔のお金、貴重なんじゃないの?」
「うーん、どうだろう。それと兄弟関係にある一円金貨の場合は稀少でン万円の値がつくけど、銀貨は結構出回ってる印象があるなぁ……。一番最初の頃のやつだと貿易用だから貴重だけど、その時代まで下がっちゃうと、今で言うなら1万円札みたいな感覚で日常的に使われてたしね」
「そうなんだ……。昔の人は、こんなかっこいい模様のお金を使ってたんだぁ」
チョコは一円銀貨の模様がいたく気に入ったらしく、手の中で銀貨を裏返したりしながらしげしげと眺めている。
「どうだい、どうせこのたらいの古銭は処分品だ。本当なら1000円くらいもらうところだけど、少し勉強して800円くらいにしてあげるよ」
「えっ、安くしてくれるの!?やたーっ!!買う買う!!」
そう言って喜ぶチョコに、おじさんはあはは、と笑うと、800円と引き替えに紙袋に銀貨を入れて渡してくれる。
「まいどありー!!来月も出てるから、よかったら来ておくれよ」
そんなことを言いながら笑顔で手を振って見送るおじさんに軽く手を振り返すと、僕たちは表参道を外れて横道へ入った。
と、その時、
「……あ、あれ?のみの市って、こんなものまで扱ってるの?」
一軒の出店の前で、ほのかサンが怪訝そうな声を上げた。
「こんなものって……ああ」
その言葉に店の中へ入ってみると、そこには和本やポスターに混じって古いアルバムや手紙が積み上げてあった。
どうやら店の人は席を外しているらしく、「しばらくしたら戻ります」とごていねいに看板が立ててあった。
「ポスターは分かるけど、アルバムや手紙なんて……売っていいものなのかしら?個人のものじゃないの、こういうのって」
どうにも分からない、という感じに首を傾げるほのかサンに、
「うーん……でも、高校時代の先生の話だと、そういうのって平気で売られてるらしいよ。最初聞いた時は驚いたけど、よく考えてみればその写真に写っている人も、手紙を書いた人も、昔の人すぎて今となってはどこの誰とも分からないわけだし、それ以前にこの世にいない可能性の方が高いわけだしさ。今の写真みたいに肖像権だプライバシーだとうるさく言うほどじゃないんじゃない?」
僕はそう言ってみせる。
「うーん……ま、それもそうだわね」
「それにさ、こういう手紙の場合、別の趣味でも蒐集対象になるって言ってたな。何でも、消印を集める趣味があるんだって」
「け、消印!?切手を集める趣味は聞いたことあるけど、消印なんて初耳だわ」
あきれたように言うほのかサンに、僕はちょっと苦笑すると、
「それがね、あるらしいんだよ……同じ研究室のやつが好きでさ、散々講釈されちゃって。そいつによると、特に集め甲斐があるのが、明治20年代から40年代頭に使われた『丸一印』ってやつだってさ。えーと……この中にないかな」
そう言って古ぼけた手紙の束の中を探ると、ほどなくして太い丸型の消印が押された封書が見つかった。
「ほら、こういうの……って、あれ……っ!?」
その封書を取り出して手に取った僕は、思わずその場で固まった。
封書には当時スタンダードの二銭切手が貼られ、その上から「加賀」「金澤」で一本線を引き、「廿四年八月三十日」「二便」と書かれた横書きの消印。
そして右下には同じように「越中」「富山」で一本線、下に「廿四年八月三十一日」「一便」と書かれた消印が押されている。
が、問題はそんなことじゃない。よく宛名を見てみると、
「越中國新川郡小泉村
 琴芝惣吉様」
となっているじゃないか。
「惣吉」って……確かうちのひいおじいちゃんの名前だったような。
それだけでも唖然としたけど、裏返して今度は転倒せんばかりにびっくりした。
何とそこには、
「加賀國金澤柿木畠
 主計繪里香」
と書かれていたのだ。
「主計繪里香」=「主計絵里香」……こんな名前の人物、1人しかいない。
「ねえ、おねーさん……ちょっと、いいかな」
思わず神妙な口調になり、後ろの方でひびきさんと話していたおねーさんを呼ぶ。
「んー、何?」
「……まあ、何も言わずにこれ見てよ」
そう言って、封書を見せる僕。
「何これ……って、えええええ!?」
思った通り、封書を一瞥したおねーさんの口から叫びの声が上がった。
「……確かさ、うちのひいおじいちゃん知ってるって言ってたよね、おねーさん。それって、こういうことだったんだ」
そんなことを言いながらちょっとじと眼で見て来る僕に、おねーさんは、
「い、い、いや、確かに私この時期に金沢の柿木畠商店街の中に下宿しててね、キミのひいおじいさんとたまたま知り合って文通してたけど、内容はほとんど動物の話ばかりで、浮いたことはひとつも……」
息つくのも惜しいというくらいの明らかに取り乱した口調で釈明する。
「ふーん……何だったら、開いてみてもいいよね?これ、糊がもうはがれてるし」
「えっ!?あ、その、別にいいけど……」
狼狽しっぱなしのおねーさんをいい加減にしておいて、僕は封筒から便箋を取り出し、わざとらしく両手で眼の前に掲げて読み上げる。
「えー……ああ、変しい変しい私の変人、惣吉様。私は心の底からあなたを変しておるのです……」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、やめてよ、ちょっと!!」
その僕のかしこまった口調に、おねーさんは顔を沸騰させた状態で僕の手から手紙を奪おうとしたが、ややあって、
「……って、『変』?」
ぽつり、と怪訝そうにつぶやいた。
「キ、キミ……今のって、『青い山脈』の偽恋文の書き出しじゃないの!!あの有名なやつ!!」
『青い山脈』――「若く明るい歌声に〜♪」の主題歌で有名な、「不滅の青春映画」とまで呼ばれた日本映画の名作だ。
この作品で主人公の女学生が偽恋文によってはめられてしまい、理事会での協議にまで発展。
その席上でその恋文が読まれ、「恋」を「変」と書き間違えていたことが判明、その稚拙さに一同あきれるという場面があるんだけど、さっきの僕の妙なせりふはそれだ。
うーん、昭和ネタに詳しいとは思ってたけど、昭和20〜30年代までカバーしてるとは思わなかったな。
「ああ、ごめんごめん……あんまりおねーさんがあわてるからさ、ちょっとからかってみたくなって」
「冗談じゃないわよ、全く」
「……でもさ、さっきの僕の偽文面でうろたえたってことは、本当にそういう手紙送ったことあるんじゃ」
「………!!」
どうやら図星らしく、再び沸点を飛び越すおねーさんの顔。
ぱくぱくと魚のごとくしばらく口を動かした後、
「……ちょ、ちょっと貸して!!私が買うから、それ!!いいわよね!!」
やっとのどから絞り出したという感じの声で封書の引き渡しを要求して来た。
そして、差し出した僕の手から封書を引ったくると、ちょうど戻って来た出店の主人に金を払い、そのままそそくさとどこかへ姿を消してしまった。
「あちゃー……ちょっと、からかいすぎたかな」
周章狼狽ここに極まれり、という感じのおねーさんの後ろ姿に、さすがにちょっと気がとがめた僕がそう言うと、
「いいんじゃない?アンタ、いつも魔女にいじられてばっかりなんだしさ」
和本を手にしながらほのかサンが店の中から声をかけて来た。
どうやら、今の騒ぎを尻目に聞きながら、マイペースに本を選んでいたらしい。
「まあ、それもそうかな……で、ほのかサンは何買うつもり?」
「うーん、それがね……ちょっと困ってるのよ。一応、読み物なんかもあるんだけどさ……変体仮名だらけで読めないの」
そう言って、困ったように本の山の中から1冊取り出して僕に差し出す。
「あー、確かにこれは……きついね」
渡されてざっと眼を通した僕は、思わず盆の窪に手をやった。
明治維新直後までの本って、まだ今みたいに平仮名の字体が定まっていないから、現在の字体と全然違う形の平仮名=変体仮名が使われてたりするんだよね……。
さすがのほのかサンでも、こればかりは専門外らしい。
「かと言って、尋常小学校の教科書とか謡の手引書とか買ってもねぇ……って、あれ?」
と、そんな時、ほのかサンが1冊の本に眼を留めた。
「『全註千字文(せんじもん)』……ねえ」
そう言いながらぱらぱらと本をめくるほのかサン。
「ふうん……千字文って随分と有職故実が盛り込まれてるのねえ。知らなかったわ」
千字文とは、中国は南北朝時代の南朝・梁で、手習いのために作られた4字250句の詩だ。
詳しいことはよく知らないけど、生活に必要な文字を全部学べるだけでなく、歴史や地理まで学ぶことの出来る一石二鳥のものなんだとか。
「何だか面白そうね。値段も手頃だし……もらうわ」
そう言って出店の主人に1500円を払い、本を受け取る。
それを見届けると、僕は、
「さて、と……これでみんな、大体欲しいものは買ったかな。あとは、ひびきさんか」
そう言って、ひびきさんの姿を探す。
すると、境内の隅の方の出店で、ひびきさんが何やら座りこんでいるのを見つけた。
「おーい、ひびきさん。何見てるの?」
そう僕が呼びかけると、ひびきさんは一瞬びくりとしたが、すぐにゆっくりとこちらを振り向く。
その挙動に、またごまかすかな……と思ったら、
「いえ、ちょっとここの手箱や小だんすを見ていまして」
そう言って正直に答えてみせる。
「へえ……確かにひびきさん、こういうの好きそうだもんな。興味津々だったのはそういうわけか」
そう言う僕に、ひびきさんは、
「ええ。……でも」
ちょっと困ったような顔になり、値札を指さしてみせる。
「えっ……あ……」
そこに書かれていた4桁後半から5桁の数字に、思わず固まる僕。
「……古民具って、結構高いんですよ。蓄えがない以上、私は高志さまに頼るしかないですから……そこでこんな高いものをねだっては、申しわけがありません」
神妙な顔をして言うひびきさん。
そうか、高いの知ってて気が引けたから、あんな一生懸命ごまかしてたんだ……。
そう思うと何とかして買ってあげたい気がして、僕は、
「大丈夫だよ。うち、最近少しはお金の自由が利くようになったんだ。それに家族のものなんだし、遠慮することないよ」
そう言って取りなしてみせる。
実際、ここのところ満洲での事業が絶好調とかで仕送りのお金が増えていて、7人家族でもあまり不自由しなくなっている。
と、そこに、
「ここにあるもんはね、一応相場で値をつけてあるけど、実質は処分品だから、言ってもらえれば出来る限り値引きするよー」
何ともフランクな雰囲気のおじさんの声が飛ぶ。
その声に押される形で、ひびきさんは、
「そうですか……それでは、お言葉に甘えて、これを」
斜め前にあった手文庫を手に取る。
「えっ、それでいいの?」
「ええ。この中で、一番日常生活で使いそうなものだと思いまして」
「なるほど……そういえばひびきさんのとこ、筆記用具とかばらばらになってるもんね」
「よし、じゃ、決まりかね。そいつなら……そうだね、今8000円だけど、5000円くらいまで値引いてもいいよ」
「ええっ、そんなにいいんですか?」
「構わないよー。どうせいろんな古道具と一緒に十把一からげで買ってきたもんだし」
こうして気さくなおじさんの押しもあって、商談成立。漆塗りの質素な手文庫は、金5000円でひびきさんの手許に渡った。
と、その時だ。
「……ん?何だろ、これ?『爆笑必至!!おもしろレコードいろいろ』……?」
チョコが、同じ出店の隅にあった箱に眼を留め、そこに立っているポップを読んだ。
「おっ、お嬢ちゃん、レコードに興味あるのかい?」
「れ……れこおど?」
ここぞとばかりに身を乗り出して来るおじさんに、ちょっと引き気味になりながら答えるチョコ。
あ、そうか。チョコは平成生まれだから、アナログレコードなんて知らないんだな。
しかもこういうところで扱っているレコードといったら、その中でも特殊な「アレ」だ。
すかさず僕は、レコードを1枚手に取ると、解説を始める。
「レコードってのはさ、今のCDが出来る前に作られてた録音盤のこと。しかもこれは『SP』っていって、大昔のレコードだよ」
「大昔……って、どれくらい?」
「そうだね、確か製造中止が昭和37年だから、最低でも40年以上は前になるかな。古いのになると100年とか、120年とか……」
「す、すごいね……そんな昔から、CDみたいに音楽を録音するものがあったんだ」
そう言って感心するチョコの横合いから、ほのかサンが、
「回転数毎分78回転、材質は粘土と松脂とシェラック(貝殻虫の出す樹脂)、針は鉄針が一般的……ってとこかしらね、補足としては。というより、何でアンタSPレコードなんて知ってるのよ?アタシは本で読んだから知ってるけど」
僕にもっともな疑問を投げかけて来た。
「ああ、父さんがこういうの好きなんだよ。昔の蓄音器を買い込んだりして、よくレコード聞きながら講釈してたから覚えちゃって……門前の小僧何とやら、ってやつ」
「ふうん……アンタの両親って、お母さまもだけどお父さまもたいがい変わった人よねぇ」
「は、はは、まあね」
僕らがそんな会話をしていると、おじさんが、
「そうかそうか、若いのによく知ってるねぇ。どうだい、このSP、買ってみる気ないかい?そこに書いてある通り、爆笑ものの面白いやつばかりだよー」
さっそくとばかりに話を持ちかけて来た。
「爆笑ものって……演芸とかですか?」
「うーん、ちょっと違うなぁ。まあ、手に取って見てみてよ」
そう言われて一枚手前のを取ってレーベルを見てみると、
「Colombia」の文字とともに「酒が飲みたい」とあった。歌手名は「バートン・クレーン」。
「……?レーベル名はあのコロムビアとして、歌手の方は聞いたことないですね」
「そうかもねぇ。それはね、コミックソングのレコードなんだよ」
「コミックソングですか。どんな?」
「まあ、それは聞いてみてのお楽しみだね。ただ、『爆笑必至』ってのは保証するよ」
「うーん……」
おじさんの自信満々な宣伝文句に、どうしようか迷う僕。
「あ、値段なら融通利くから。そこにある2枚で1500円とかでも売れるよ」
それでもなお戸惑う僕に、おじさんは、
「よーし、それじゃあ特別サービスだ。二村定一(ふたむらていいち)の名曲『アラビアの唄』もつけて3枚で1500円といこうじゃないか」
箱の中からさらにもう1枚レコードを取り出し、商談を持ちかける。
「ねえタカシ、面白そうじゃない。買おうよー」
そんな僕たちの様子に、チョコがにこにこ笑いながら言う。
そのチョコに押される形で、
「そうだね。実言うと、僕も一度蓄音器に触ってみたかったし……」
「よっ、まいどはやっ!!じゃあ、1500円ね」
おじさんの微妙に間違った富山弁で商談成立。
僕の手許には、バートン・クレーン2枚、二村定一1枚のレコードが渡った。
それを小脇に抱えると、僕は、
「さて……これでもう全部見たのかな?もうお昼だし、そろそろ帰ろうか」
そう言って境内を見回す。
そんなに広くない境内なんだけど、いろいろ見ているうちに時間が過ぎてしまって、今や時計は正午になんなんとしているところだ。
「そうですね。お昼ご飯の用意もありますし、戻りましょうか」
そんな皐槻ちゃんのにこやかな返事と、
「お昼ご飯!?異っ議なーし!!」
相も変わらずハイテンションなチョコの返事に背中を押され、僕たちは帰途についたのだった。





「よし、こんなもん、かな……?」
そういうと僕は、片手に持った電気スタンドを手元に置く。
眼の前にあるのは、父さんが置いて行った「コロムビア・ポータブル」という昭和初期の小型蓄音器だ。
当然、ぜんまい駆動。そのため、ストロボスコープという円形の紙に縞が書かれた特殊な紙を回転台の上に置いて電燈の光を当て、回しながら回転数を合わせる必要がある。
父さんは簡単にやってたけど、実際やってみると難しいもんだな……。
あれから皐槻ちゃんの作った簡単な昼ご飯を食べた僕たちは、居間でさっそく例のSPレコードの鑑賞会と相なった。
そのために、こうやって父さんの書斎から蓄音器を引っ張り出してきて、回転数を合わせているという次第だ。
「タカシ、どう?もう聴ける?」
「うん、大体OKだと思うよ」
僕がそうチョコに答えたのと入れ替わりに、
「あ、高志さん……言われた通り、全部洗って来ましたよ。すごい汚れで……でも、洗剤をつけずにやさしく、ということでしたから、手でゆっくり洗いました」
皐槻ちゃんがレコードを布で拭きながら居間へ入ってくる。
普通のレコードでは有り得ないことだけど、SPは骨董品でもあるから、結構汚れている。
だから、こうやって水洗いするのは常識なんだとか……。
「ありがとう。……ああ、随分きれいになったね」
ほこりだらけだった盤面が、すっかり無垢の黒を取り戻しているのを見た僕は、盤を回転台にセットする。
針はスタンダードな鉄針。ほかにサボテンのとげを使ったソーン針や竹を使った竹針があるけど、そんなハイレベルなもの使うほど詳しくもないし。
「よしっ、じゃあ……行くよ」
そう言って、まずバートン・クレーンの盤に針を落とす僕。
……10分後。
琴芝家の居間は、家の西の方にある四ツ谷川の水があふれるんじゃないかと思うほどの大爆笑の渦に揺れていた。
「……ひぃーっ、ひぃーっ、な、何これ!!あやしい外人さんー!!」
笑い疲れて半ばけいれんしながらそう言うチョコ。
「『養老の滝〜が呑みたい♪』って何よー!!いくら何でも大きく出過ぎー!!ああ、おかしい……あはは、はは……」
居間の柱に取りすがりながら、突っ込みとともに爆笑し続けるほのかサン。
「あはは、はは……『爆笑必至』、看板に偽りなしでしたね、あははは……」
いつもの物静かさはどこへやら、のけぞって笑う皐槻ちゃん。
「あう、あう、あうあうあうあうあうあうあー!!」
何言ってるのか分からないけど、とりあえず笑い転げてることだけは伝わってくる雪乃。
「あやしいです!!あやしすぎです、この外人!!うちの魔女を超えるあやしさです!!」
「ちょっとひびき、何よそれ……って、あー、おかしい」
2人1組になってどつき漫才よろしくやりあいながら笑いまくるひびきさんとおねーさん。
ちなみに僕も……笑い転げすぎておなかが痛い。
あとで調べて分かったんだけど、このバートン・クレーンという人、アメリカの新聞記者で、宴会でアメリカの民謡に適当な日本語の歌詞をつけて歌ったら気に入られ、そのまま歌手デビューしてしまったというお方らしい。
でもにわか作りの歌詞に不自由な日本語だから、日本語おかしいところだらけ、変な発音やイントネーション続出で、思いっきりコミックソングとして成立してしまっている。
もうね、何というのか……これは笑うしかないでしょう、という感じだ。
1枚目でこれなのだから、2枚目はさらにすごいことになった。
A面「ニッポン娘さん」・B面「おいおいのぶ子さん」という、タイトルからして怪しげな盤だったんだけど……。
今度ははるか遠くの神通川まで揺れそうな大爆笑。
特に「ニッポン娘さん」に至っては、
「な、何で全部最後に『ぽくぽくお馬さん』なのよー!!」
「ぶっ……名古屋としゃちほこって間違ってないけど、脈絡なさすぎだよ!!」
「大阪小さすぎて忘れてたって……あやまれ!!大阪の人にあやまれ!!ひぃーっ、ひぃーっ」
どこから突っ込んでいいのか分からないほど珍妙な歌詞の連続と、突然入る「大阪の女の子」との漫才じみた掛け合いに、琴芝家一同総突っ込み役と化してしまった。
「はあ……ひい……ああ、笑った笑った……」
「はあはあ……ア、アタシもよ」
「はあ、ふう、おなか痛いです……」
「あ、あうあうあ……あう、あう」
「はあ、はあ、私こんなに笑ったの久しぶりです……」
「ふう、はあ……やられたーっ、って感じね」
演奏が終わった後、ぜえぜえと息を切らしながらそういうみんなを見ながら、
「何だか、思ってたより効果絶大だったね。3枚目の二村さんって人の歌、大丈夫かな?これでまたおかしな歌だったら、僕ら窒息死するよ」
苦笑しつつ3枚目の二村定一の盤を手に取る。
と、その時、
「二村……?二村、定一ですか?」
苦しそうにおなかを抱えていたひびきさんが、急にいつもの冷静な表情になって訊ねて来た。
「え?……あ、うん、おじさん、そう言ってたけど……ひびきさん、知ってるの?」
「ええ。一応、長く生きてはいますから」
「あっ……そうか」
ひびきさんは他の娘たちと違って、人間化のキャリア(?)が桁外れに違う。
何せ、おねーさんが子供の頃に滑川の海岸で保護されたってんだから。
……下手すればその頃は、魚津の埋没林(樹齢約500年の林が約1500年前にそのまま水没したもの)も現役の林だったんじゃないかって気すらする。
そんな彼女だから、古いものに関する知識もそこそこあるとみていいだろう。
「二村定一さんというのは、『喜劇王』と呼ばれたエノケンこと榎本健一(えのもとけんいち)の師匠の芸人です。でも、芸人とはいっても歌手としての才能もかなりあって、さっきの人とは違ってお笑いばかりではないんです。高志さまは、フランク永井の『君恋し』をご存知ですか?」
「えっ……うん。前にテレビで見たことがあるから」
「その元歌、二村さんですよ。あまり知られていないことですが……」
「そ、そうなんだ……」
「今、そこにある『アラビアの唄』も、この『君恋し』の系統に入るような、普通のジャズソングです。ですから、大笑いの後の口直しには最適かと。ちなみに昭和3年の曲です」
そこそこどころか充分すぎるほど深いひびきさんの講釈に、僕は唖然とするほかない。
彼女だったらうちの父さんと対等で話が出来るかも知れないな……。
「……まったく、ひびきちゃんがあんなこと知ってるなんて思わなかったわね」
「うーん、ちょっとついて行けないな……」
「失礼ですけど、ちょっと私も駄目かも知れません……」
「あうっ(こくこく)」
「まったく……あの子も何だかんだいってこるタイプなのよねン」
そんな風にいろいろ言っているのを尻目に、僕はすり減った針を交換する。
蓄音器の針って、今のダイヤモンド針と違ってすぐにへたるから、レコード2枚くらいで交換しないといけないんだよな……。
そしてアームを動かし回転台が動くのを確認してから、再び回転台に盤を置く。
最初は『アラビアの唄』。

♪ちゃ〜ちゃ〜ちゃちゃちゃちゃちゃ〜、ちゃ〜ちゃ〜ちゃちゃちゃちゃちゃ〜♪

そんなアジア調のジャズバンドの伴奏が入り、

♪砂〜漠に陽が落ちて〜、よ〜るとな〜る頃〜♪

ちょっと甲高く、それでいて軽妙な男性の唄声が聞こえて来た。
「へえ……うまいじゃないの。声はちょっとにやけてるけど」
「確かにそうですけど、伴奏がジャズ調で軽快ですから逆に合っていると思いますよ」
「あうあう(こくこく)」
「笑えるわけじゃないけど、これはこれでいいね」
「この曲にはこの他にもコロムビアで出されたスローテンポのやつもあって、どちらが好きかで結構分かれるんですけど……私はこっちですね」
「うーん、あっちはあっちでよさがあると思うけど?」
各人が各々感想を述べるうちに、唄声は同じ歌詞を2回繰り返し、2分半ほどの短さで終わった。
「……あれ?結構、あっけないね」
「まあ、これは外国の軽音楽――今でいう『イージー・リスニング』ですが――に歌詞をつけたものですからね、短いんですよ」
「ふーん、そんなもんなんだ」
そんなひびきさんとチョコのやりとりを聞きながら、僕は盤をひっくり返す。
裏は『青空』。これも作曲者が外国人みたいだ。
「あ、裏は『青空』ですか。それはどちらかというと、弟子のエノケン版の『私の青空』が有名ですね……聞いてみれば、どこかで聞いたような曲だと分かりますよ」
ひびきさんの解説を受けながら、針先がまだとがっていることを確認すると、僕はすっと針を落とす。

♪ちゃらちゃちゃらちゃら〜、ちゃらちゃちゃらちゃら〜♪

これもジャズバンドの軽妙な前奏が前についた後、

♪ゆ〜う暮れ〜に〜あ〜おぎ〜見〜る〜、か〜がや〜く〜あ〜お〜空〜♪

甲高い唄声が流れて来る。

♪狭いながらも楽しい〜我が家〜、愛の灯影(ひかげ)の〜差すところ〜♪

「あっ、これか、さっきひびきさんが言ってたのって」
「そうです。『狭いながらも楽しい我が家』って、いろんなところで使われるフレーズですから、エノケンを知らなくても知ってると思いまして」
「ま、そうよね。昔流行った言い回しって結構今でも残ってること多いし」
「ほのぼのした唄ね、しかし」
「……癒し系ってやつかな?」
「あう、あうあー」
「『この時代に癒し系はないと思います』ですって」
そんなことを言っているうちに、唄は流れるようなジャズのメロディーに乗って、2度目の歌詞を歌い、これまた2分ほどで終わった。
「ふわー……何かたった3枚のレコードなのに、10枚分くらい楽しんだ気持ちだねー」
「そうねぇ、あれだけ笑えば確かに。しかも口直しつきだったし」
「あうー、あうあうあうー、あうー」
「『面白かったです。また他にも聴いてみたいですね』だそうです。高志さん、他にもあるんですよね、レコード」
「うん。さっきも言ったけど、父さんが集めてるからね。さすがに満洲までは持っていけないからお前に任す、って言われているし、いくらでも聴かせてあげるよ」
「ちなみに、お父さまのご趣味は?流行歌ですか?それともクラシックですか?」
「うーん、流行歌だね。ひびきさんなら分かると思うけど、松平晃さんが充実してるよ。あと、藤山一郎さんなんかも」
「ま、松平晃……これまたマイナーどころを」
「ははは……マイナーとか言ったら父さんが怒るよ。大スターなんだし」
「それはともかくとして……これでしまい込むのも何ですし、お父さまのコレクションをお借りして、晩ご飯を作りながらでも聴いていいですか?」
「えっ、いいけど。回転数合わせとか大丈夫?」
「さっき、高志さまがおやりになっているのを見ていて、大体のこつは……」
そんなひびきさんの言葉に押される形になり、3枚のSPレコード鑑賞のためだけに引き出されてきたコロムビア・ポータブルは、そのまま厨房へ引っ越しと相なったのだった。


「ふう……」
毎度ながらわいわいがやがやと騒がしい夕食を食べ終え、
みんなが一旦自室に引っ込んだのを見届けると、僕はひとつ息をついた。
眼の前には、本日大活躍のコロムビア・ポータブルと10枚ほどのSPレコード。
実言うとさっき、
「片づけてまいりましょうか?」
とひびきさんに言われたんだけど、定位置は父さんと僕しか知らないからと断り、自分で片づけることにしたのだ。
僕はサウンド・ボックス(アームの先にあるドーム状の金属箱、針で拾った振動を増幅する)からすっかり先の丸くなった針を引き抜き、ごみ箱に捨てると、盤をまとめ始める。
「しかし、さすが知ってるだけはあるね……暗めの曲もあるけど、基本はみんな和やかだったり賑やかだったりする曲ばかりだ」
実際、今日の厨房はいつもより活気に満ちていた気がする。
うーん、普通戦前のものというと身構えるものなんだけど、意外とこの娘たちは平気なんだなぁ。
「まあ元が動物なわけだし、軍歌――正確には『戦時歌謡』だけど――とかきな臭い類の曲のイメージとかないだろうから、純粋に楽しめるんだろうね」
父さんもぼやいてたけど、知らない人はいわゆる「軍歌」のイメージがあまりに強すぎて、人によっては戦前というだけで拒絶反応を示す人もいるんだとか。
ま、それはともかく……。
「あれ?今日買った、二村さんの盤は?」
厨房にあった盤を一通り回収し終えたところで、僕は今日買って来た盤を回収しに居間に入った。
確か、あんないろんな意味ですごいものをかけたら料理にならないから、と居間に残したままだったはずなんだけど、
バートン・クレーンの盤は見つかったものの、残りの二村さんの盤が見つからない。
しまわないわけにもいかないからと、ごそごそとしばらく探し回ってみたけど、やっぱりない。
「あれー……あんな大きなもの、失くすわけも……」
そうひとりごちかけて、僕はぴたっと固まった。
ちゃぶ台の上に置いた回収済みの盤の中に、きっかり「Victor」のレーベルの盤があったからだ。
今日の曲のラインナップから見るに、持ち出した盤はコロムビアの盤だらけのはずなので、盤がビクターということは有り得ない。
手に取ってみると……案の定、探していた二村さんの盤だった。
「ははは……灯台下暗しだなぁ。そういや数回かかってたし、あっちにあってもおかしくないか」
そう苦笑しながら、納戸から盤を持ち出す時に使ったレコードケースに盤を収め、たたんだコロムビア・ポータブルを一緒に持って居間を出ようとする僕。
「おっ、とと……何だ、アンタか」
が、居間を出かかったところで、ほのかサンとぶつかりそうになった。
「あれ、ほのかサン、今お風呂だったの?」
「そうよ。今、皐槻ちゃんが入ってるから……入るんだったらもうちょっとかかるかもね」
「そうだね。もっとも、皐槻ちゃんが出ても、チョコか雪乃がちゃっかり先に入りそうだけど」
「確かにね……アンタ、暇だからってのぞくんじゃないわよ?」
そう言って、いたずらっぽく僕を見るほのかサン。
「や、やだな、そんなことするわけないじゃないか」
「いやあね、冗談よ、冗談。最初の時ならともかく、今ならその点については全幅の信頼おけるもんね、アンタ」
そう言って、ひらひらと手を振りながら廊下をあとにするほのかサン。
まったく……おねーさんにもかなわないけど、ほのかサンにも結構かなわないんだよなあ。
思わず苦笑しながら、再度荷物に手をかけた時だった。
居間の斜向かいの風呂場から、皐槻ちゃんの声が聞こえて来た。
いや、これは声じゃない。唄声だ。
「狭いながらも楽しい〜我が家〜、愛の灯影の〜差すところ〜♪」
「………」
「恋し〜い〜い〜え〜こそ〜、わた〜しの〜あ〜お〜ぞ〜ら〜……♪」
皐槻ちゃんが歌っていたのは、今日鑑賞会で俎上に上った二村さんの「青空」。
優しく、かわいらしい皐槻ちゃんの声が唄を紡いで行く。
そして鼻歌で後奏をつけたあと、
「……我が家が青空、ですか。今の、この家みたい……」
いとおしげに、そうつぶやく。
(そうか……)
今朝の表札の時もそうだったけど、皐槻ちゃんの「家族」に対する想いは人一倍深い。
この奇妙だけれども毎日が飽きない、楽しい「家族」を、一番気に入っているのも実は彼女だということも、僕は知っている。
そんな皐槻ちゃんにとって、たとえにやけ声のジャズソングでも、「青空」の歌詞は心にしみるものだったのだろう。
「そうだよなあ……『青空みたいに楽しくなる』っていう意味では、今の僕んちは『青空』だよなあ……」
そうしみじみと僕がつぶやいた時だ。
「……たっ、高志さんっ……!?」
眼の前から、出し抜けに皐槻ちゃんの声が聞こえて来た。
「えっ!?……あ、ああっ、皐槻ちゃん!?」
つられて、大声を上げる僕。
そうだよ、うちの風呂場は奥まってるから、風呂に入っている時の声は聞こえないはず。
ということは、さっきの声は着替えをしながらの声だったってことか。
「あの……聞いてたん、ですか?」
「あ、あの……ご、ごめん、わざとじゃなかったんだよ、このレコードを片づけようとして……」
驚きのあまり寝間着姿で固まっている皐槻ちゃんを前に、しどろもどろになりながら言いわけする。
しかし、そんな僕の言葉にもかかわらず、皐槻ちゃんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「あ、あのさ、皐槻ちゃん?」
「いいですよ、あやまらなくても……他の男の人ならともかく、高志さんだったら聞かれてもいいですから……ただ」
「ただ?」
「下手じゃなかったかな……と」
そう言ってもっと顔を赤くする皐槻ちゃんに、
「い、いや、そんなことないよ。さすがおわらで有名な八尾の生まれだと……」
僕はあわててわけのわからない返答をするが、皐槻ちゃんは、
「そうですか……よかったです」
ちょっと安心したように眼を閉じ、胸の前で手を合わせてみせる。
そんな彼女の様子がいとおしくて、
「た、高志さん……!?」
僕は思わずその小さな肩に手を回し……。
「あーっ!!サツキとタカシがーっ!!」
……そうになった途端、廊下の向こうからチョコの叫び声が聞こえて来た。
どうやら、皐槻ちゃんが風呂から出たのを察知して、上から降りて来たらしい。
さらにその声に引かれるように、みんなが何だ何だとばかりにどたどたと上から降りて来る。
「ど、どうしたのよ、チョコちゃん……」
「あっ、ホノカ、見てよ!!サツキとタカシが……サツキとタカシが不純異性交遊してるよーっ!!このままじゃ、2人の間に赤ちゃん出来ちゃうよーっ!!」
錯乱しながらあさっての方向にすっとんだことを叫ぶチョコ。
……だからさ、何でそういう方向に飛躍するかな。
というより、どこで覚えたんだ、「不純異性交遊」なんて……。
「落ち着きなさい、チョコちゃん……あれだけじゃ、不純でもなければ赤ちゃんも出来ないわ。ここはね、ぐっとこらえて、2人の首途(かどで)を見守ってあげるのが大人というものよ……」
そのチョコの肩を抱き、唇をかみしめ首を振りながらそう言い聞かせるほのかサン。
あのー……何かとんでもないことが決定事項になってません?
と、雪乃の方を見てみると、
「あっ……あうあうあう……」
衝撃を受けたようにふらふらと玄関の方に向かい、裏の白い広告紙を持って来て、玄関に置いてあるマジックで何か書きつけ始めた。
そして、半分涙目になりながら、
「あうあうあうーっ!!」
そんな叫びとともに僕らの前に高々と掲げた広告紙……。
『敗訴』
そこにそう大書された文字に、あっけにとられるしかない僕たち。
は、「敗訴」って……とりあえず悔しいのは分かるけど、それは違うと思う。
さらにおねーさんとひびきさんに至っては、
「そう、そういうことだったのね……。まあ、いいわ。じゃあともかく、しかるべき準備をしなきゃ。ひびき、ちょっと頼める?」
「分かりました。明日、大和百貨店で熨斗(のし)あわびなど結納に必要なもの一式の予約を入れまして、その後市役所に寄って婚姻届を……」
何だかとてつもない先走りをしている様子。
そんなみんなの暴走っぷりに、
「ち……違うってば!!僕らはただ単に、風呂場の前で話してただけなんだってば!!」
「そ、そうなんですよ!!そ、そんな、高志さんと、そんな関係になってるわけじゃ……」
僕らは必死で弁解するけど、みんなはなかなか落ち着いてくれない。
結局、誤解だということをみんなが分かってくれたのは、それから2時間も後。
「くしゅんっ」
表通りを走る市内電車のごろごろという音に、すっかり湯冷めした皐槻ちゃんのくしゃみの声が何とも虚しく響いていた。


春は松川に満開の姿を競い合う桜の優雅な姿に眼を奪われ、
夏は残雪残る立山連峰の雄大な姿とその裾野にたゆたう河の流れに自然を想い、
秋は街角に散る街路樹の枯葉とおわら節の胡弓の音に情けを知り、
冬は街に山にしんしんと静かに降り積もる白雪と清冽な空に光る北斗七星に人の世を想う。
これはそんな街、越中・富山の片隅で繰り広げられる、
奇妙でおかしくも温かなひとつの「家族」の日常を描く、小さな物語である。

<つづく>
(平18・4・4)
[平19・6・3/改訂]
[平19・6・12/二訂]
[平19・7・13/三訂]
[平19・9・9/四訂]
[平19・9・19/五訂]
[平19・12・16/六訂]
[平20・3・7/七訂]
[平24・5・3/八訂]


[あとがき]
 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 今回当ページの大改装にあたりSSのコーナーを設け、「PureWhite」様の閉鎖のため行き場をなくしたKanonSSを公開したことは既に記した通りですが、それとともに、新たに別のゲームのSSにも少し手を出してみました。双極性気分障害(躁鬱病)なんぞ抱えててサイトの更新すらままならないくせに何やってんだ、と言われそうですが、書いてみたかったんですよ、「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」という作品で。
 こちらにいらっしゃっているみなさまがご存知かは分からないのですが、「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」はギャルゲー中堅のPurple社の作品です。平成14年の作品なのでいささか古い作品ではありますが……でもまあ、そこからさらに3年前の「Kanon」のSSを書いているのですから許されるでしょう(汗)。
 この作品がどういう作品かといいますと、主人公・高志の独白でも一通り述べた通り、彼の許に次々と獣っ娘が現れ同居することになるという、ある意味非常にシンプルな物語です。そのためあまりシナリオは深いとは言えず共通部分が多いなど、眼の肥えた人にはちと不満な作品でもありましょう。しかし実際のところ、この作品は4人のヒロインとがやがやとほのぼのした共同生活を送る、その雰囲気を楽しむゲームとして享受されており、そういう意味では充分に価値のある作品です。
 原画家・岩崎考司さんによるキャラ造形も丸みのある穏やかなもので、癖が強くなく素直になじめます。ただし岩崎さんが今年(2007年)の2月21日、脳溢血により齢28にして白玉楼中の人となったため、二度とこの絵が見られなくなってしまったのが惜しいところです。
 まあそれはともかくとして、実はこの作品、私大好きなんですよね。ところが、意外とSSが存在しないのです。結構やっている人はいるようなのですが……。そこでどうせなら自分で書いちまえ、と吶喊したのがこの作品です。
 もっともSSにするにあたり、舞台を自分の好きな富山に移すわ、地鉄の市内電車は出すわ、地元ネタをばりばりにきかすわ、設定はこと細かにつけるわ、挙句の果てに1話目から自分の趣味である流行歌に走るわで好き勝手やりまくってしまった感がありますが……(汗々)。なお、文中で出て来た「松平晃」さんについてはこちら(Wikipedia)をご参照ください。
 あ、あと護国神社ののみの市の場面で偶然高志がおねーさんの手紙を発見する場面、自分でも書いていて恐ろしく都合がよすぎると思いましたが、まあ原作が原作だけにこういうのもありかな、などとご容赦くだされば幸いです(大汗)。
 それでは、また2話目でお会いいたしましょう。
 なお、このSSの時間軸は「はぴぶりいまさらふぁんでぃすく」の翌年、平成16(2004)年という設定になっています。そのため八尾町や大沢野町など現在富山市に合併されている町が独立町村だったり、大和百貨店がまだ移転せずに西町交叉点にあったりします。詳しくはこちらの設定をご覧ください。

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