電気ビル異聞
作/苫澤正樹 

※このSSは、Purple software(パープルソフトウェア)のPCゲーム「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」及び同ソフトのファンディスク「はぴぶりファンディスク」を基としています。
※両者のねたばれを含みますので、両方とも未プレイの方だけでなく「はぴぶりファンディスク」のみ未プレイの方も充分にご注意ください。




「ほんじゃま、みなさんによろしゅう頼むちゃ」
おじいちゃんの声に見送られながら、僕と皐槻ちゃんが老人ホーム「いずみ園」を後にしたのは、もう桜もほころび始めたある日の午(ひる)下がりだった。
先日雪乃と皐槻ちゃんが入れ替わってしまった際、いろいろ不審に思われた(「驟雨」参照)のを何とかフォローするため、改めて二人で訪ねたのだ。
最初はおじいちゃんが二人が入れ替わったのを分かっているような発言をしたもんだから、かなり緊張して行ったんだけど……。
「おお、皐槻さん。三度も来てもろてうれしいちゃ」
本人はそんなことなかったかのように僕らを出迎え、拍子抜けしてしまった。
ただ、そう言った時におじいちゃんが、
(何も言わんでええちゃ)
と言うように僕に向けて眼くばせして来たあたり、やっぱり僕の予想通り入れ替わっていたのが分かっていたんだろう。
孫ながら、こういうとこは全くもっておじいちゃんにはかなわないんだよね……。
「ほんとにお元気ですよね、おじいさん」
おじいちゃんが奥へ引っ込んだのを見届けて歩き始めた僕に、皐槻ちゃんがそう言う。
「まあ、確かに……あの斉唱聞くと、とても脊椎カリエスやった人には思えないよ」
「斉唱」というのは、園内の元満鉄社員で結成している「いずみ園満鉄OB会」の会合で時々行う満鉄社歌の斉唱だ。
副会長で大声の持ち主の松橋さんが音頭を取って、数十人のおじいさんたちが、
「曠野(ひろの)ー、曠野ー、万里ー続ーけるー曠ー野にー」
パートごとに分かれてサビを男声合唱団並の声で歌うのは壮観と言わざるを得ない。
それはともかく……。
松川べりに出た僕らは、泉橋を渡ったところにある地蔵堂の前で、はたと立ち止まった。
「あれ、そういえば……お昼どうなってたっけ」
このことである。
いつもなら、大抵みんなうちで食べるんだけど、今日は少々様子が違った。
「ええと……チョコさんとほのかさんは市民講座で留守、魔女さんとひびきさんはお薬の仕入れと魔法の練習でお昼に帰れないって言ってましたけど」
「え、おねーさんとひびきさんがお昼いらないって珍しいな。雪乃は?」
「雪乃さんはいると思いますけど……あれ?」
そう言って、ポケットから携帯電話を取り出す皐槻ちゃん。
「メールかい?」
「ええ。……って、雪乃さん?」
「噂をすれば影か、何て?」
「ええと、『チョコさんたちと一緒のところでやっているペン習字の展覧会を見に行って来ます。お昼はチョコさんたちと食べるのでいりません』です」
「ありゃまあ……じゃあ、残ってるのは僕たちだけってわけか」
うちとしては珍しい事態に、僕は思わず頭をかいた。
「雪乃のやつ、大丈夫かな」
「文面からするに、チョコさんたちと一緒みたいですから大丈夫ですよ、きっと」
「まあ、それもそうか……ほのかサンついてるし」
表向き「管理人」なのに店子を頼りにしてるというのも少々情けないけど、ほのかサンのきっちりしっかりぶりは、時々僕よりも「管理人」にふさわしくすらある。
まあ彼女がついていれば、危ないことはまずないと思っていいか。
「……って、じゃあどうしようか、お昼。2人分だけ作るかい?」
「あ、ちょっと待ってください……ええと、キャベツがもうなくて……」
僕の問いに、皐槻ちゃんは冷蔵庫の中を思い浮かべているのか上を向きながら指を折る。
ややあって、その顔が困ったようにうつむき、
「すみません、今の状態だと何も作れないです。お野菜もお肉も使い切っていて」
申しわけなさそうに返事が返って来た。
「うーん、買い物するにしても今からだと2時を回るね。外食の方がいいかな?」
「一応お金は持っていますから大丈夫ですけど……中央通りって、食べる場所ありましたっけ、喫茶店以外で」
さすがに毎日買い物に来ているとはいえ、そこまでは皐槻ちゃんも見ていないらしい。
と、その時、ひょいと松川を桜橋の方へ見上げて、僕は一つの場所に思い当たった。
「中央通りよりもさ、一度電気ビルへ食べに行かない?」
このことだ。
「え、電気ビルですか?あの桜橋の北にある?」
「そうそう、あそこ。レストランがいくつかあるんだよ」
「……でも、あそこって宴会場や会議場として使われてるところですよね?高いんじゃ……」
「ああ、それか。身構えることないさ、夜ならフルコースだったりしてなかなか手が出ないけど、昼は周辺のサラリーマン向けに比較的安く食べられるから」
「そうなんですか?」
「うん。ちょっと金回りのいい時で時間さえ合えば、前はよく一人で食べに行ってたんで分かるんだよ」
僕がそう言うと、皐槻ちゃんはなぜかおずおずとした声で、
「……あの、じゃあ、今まで誰かと食べたことは?」
そう訊ねて来た。
「うーん、父さんが大連に赴任する前にいっぺん家族で食べたきりかな」
「そうなんですか……じゃあ、2人というのは初めてですか」
そこまで言われて、さすがに僕も皐槻ちゃんが何を言わんとしているか気づいた。
というより、彼女が今にも蒸発してしまいそうに真っ赤になってるのを見れば、嫌でも気づく。
「あ、いやいや、そういうわけじゃなくてね、せっかく富山に住んでるのに、その象徴たる電気ビルに行ったことがないってのも何だと思って……」
大あわてで取り繕うけど、しどろもどろな僕。
何が「そういうわけ」なんだ、とどこかで冷静な自分が突っ込みを入れているのが自分で分かる。
「と、ともかく行こう!ラストオーダーになっちゃうから」
このままにしておくといろいろ気まずいので、僕は皐槻ちゃんの手を引いて西町の電停へと歩き出す。
「あ、手、手……」
そう言って皐槻ちゃんがさらに真っ赤になるのに構う暇もない。
しかしこの時の僕の気まぐれな誘いが、あんな奇妙な事件に発展するとは夢にも思っていなかった。


西町から電車に乗った僕らは、電気ビル前の電停で電車を降りた。
富山駅前方面の電停から右手に見える、堂々とした煉瓦造りのビルが電気ビルだ。
「電気」が名前につく通り、元は北陸電力の本社ビルとして昭和11年に造られたもので、当時最新鋭の建築技術が惜しみなく投じられ、市民の度肝を抜いたという。
しかも富山空襲を生き残った数少ない建物の一つであることから、富山っ子にとってはある意味自分の街の象徴みたいな存在になっている。
「うーん、地下と1階は休みか……ちょうどいいお店なんだけどなぁ」
その電気ビルの前に、盆の窪をかきながら困り果てる僕らの姿があった。
「ごめんね、土日には食べに来たことがなかったんで知らなかったんだよ」
「いえ、しょうがないですよ……でも、どうします?」
「ええと、確かね、4階のレストランだけは休みなしだった気がするんだけど」
そう言うと、僕は携帯電話のフルブラウザで電気ビルのウェブページを呼び出してみる。
……便利になったもんだよなぁ。
「うん、休みなしだ。じゃあ、4階行こうか」
そう言って皐槻ちゃんの手を引くと、僕らはエレベーターに乗った。
「エレベーター横の、あの煙突みたいなポストは何なんですか?」
「ああ、あれか。あれはね、この建物自体にあの煙突みたいな真鍮の管がまっすぐに通ってて、各階から郵便物を投函すると1階にたどり着くようになってるんだ」
「当時のものですか?」
「だね。戦前と思うとなかなか風情のあるもんだよ」
そんなことを話すうちに、4階へ着いた。
「あ、あれ……?」
着いて、皐槻ちゃんが戸惑ったような声を上げる。
「ん……?ああ、あのフロントね。気にしないで入って大丈夫だよ」
どうやら、眼の前にいきなりホテルのようなフロントとクロークがあったもんだから、面食らったらしい。
「あの、受付とかじゃないんですか?」
「違う違う。ここね、昔はホテルだったんだよ。廃業して宴会場になった後も、建物を特に変えてないからホテルみたいに見えるんだ」
そう話すうちに、従業員さんがやって来て、中ほどの宴会場に通される。
「お二人様ですか?……ええと」
案内の人から僕らをまかされた食堂担当の従業員さんは、僕らの人数を聞いて少し困惑した表情になった。
「あー、珍しく混んでるんですね」
「そうなんですよ。ご相席になりますが、よろしいですか?」
「まあ、しょうがないよね」
「そうですね」
僕らが答えると、従業員さんは奥の方で座っている人のところに駆けて行った。
おそらく相席の許可を取っているのだろう、鷹揚に男性が応じるのが見えた。
「ご相席の許可いただけましたので、あちらへ」
言いながら従業員さんが戻って来るのに、僕らはそちらへ向かった。
見れば、テーブルにはいかにも紳士という風情のおじいさんが座っている。
軽く会釈して座ると、僕らはメニューをめくり出す。
「へえ……いわゆる『洋食屋さん』なんですね」
「そうそう。もっとも元ホテルの食堂だから、そこらのお店よりおいしいけどね」
そう僕が答えた時だ。
「あの、お客様。お連れの方は、いつお見えになるんですか?」
隣のおじいさんに、従業員さんがそう問いかけた。
「ああ、申しわけない。久しぶりに会うから、道に迷っているかも知れないな……。もう少し待ってくれないかね?」
「分かりました」
従業員さんが去るのを見ながら、おじいさんはため息をつく。
「本当に遅いな、どうしたんだろう」
どうやらこのおじいさん、誰かを待っているらしい。
それが証拠にお冷やとコーヒーだけで他に何もないし、時折前の席のテーブルクロスを整えたりしている。
その時だ。
「よいしょ、っと……とと、危ない!」
「あっ!……あ、危なかった」
おじいさんの手が皐槻ちゃんのお冷やに触れ、危うく倒れかけた。
「ああ、申しわけない……私としたことが緊張してしまって」
「あ、いえ、大丈夫です。……お相手の方、なかなか来ないんですか?」
ばつが悪そうにあやまるおじいさんに、皐槻ちゃんが世間話のつもりかそう問いかける。
「ああ。まあ、しかたないよ……何せ60年ぶりに会う相手だからね。その間に富山を離れていれば、道に迷うこともあるだろうさ」
「お電話は?」
「残念ながら、私も彼女も携帯電話なんてはいからなものは持っていなくてねぇ。それに持っていたとしても、彼女が生きているのを知ったのは人づてでね。実際に会うのは今日初めてになるんだ、番号が分からないよ」
おじいさんの話に、僕らは思わず顔を見合わせた。
60年前といえば、戦直後か戦中のこと。しかも話によれば最近まで生死不明だったことになる。
どうやらこのおじいさんは、どういう関係かは知らないが懐かしい女性と会うためにここにいるらしい。
そうしているうちに、おじいさんは、
「彼女は早通トラといってね、私の住んでいた南田町(みなみだまち)じゃ美人でちょいと有名な娘だったんだ」
遠くを見るような眼でその女性のことを話し始めた。
「私も憧れていたが……顔に自信がなくてね。何度も『好きだ』と言おうとして駄目だったんだ。……ようやく言えたのが、新潟へ向かう汽車の窓からだったというのは、皮肉なもんだよ。それだって聞こえてやしなかったろうしね」
「新潟へ……?転校でもなさったんですか?」
「いやいや、転校じゃあない。家族揃って満洲へ渡ったんだよ。新潟から汽船で朝鮮に渡って、そこから満洲に入ることが出来たんだ」
「海の向こうですか……それは、おつらかったでしょうね」
「まあ、移り住んだのが奉天(現在の瀋陽)だったからね。交通の便が悪いところでもないし、1年に1回くらいは富山に戻れたよ」
確かに、当時の奉天は満洲では交通の要衝で、そこから関東州へも朝鮮へも中国へも行くことが出来た場所だ。むろん、日本との間にも大連や朝鮮経由で航路があった。
「だが、向こうで親父が死んでしまってね……。私が働きに出たんだが、事故で足をやってしまって働けなくなってしまったんだ。いくら仲のよい国同士といっても異国だからね……老いた母とけがをした息子じゃ生きて行けず、富山の親戚を頼って日本へ戻ったんだ」
それが悲劇の始まりだった、とおじいさんは言った。
「私が日本へ戻ったのは、昭和20年7月のことだよ。トラさんとも再会して――相変わらず告白は出来んままだったがな――戦時で厳しいながらも何とかなるだろう、そう思っていたんだ。なのに、運命は無情だったよ」
きっかけは、8月1日に空からばらまかれた1枚のビラだった。
「米軍機が、空襲をすると脅しをかけて来たんだよ。お嬢さんや君なら、学校で習っているだろう?……富山大空襲の予告さ」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
富山大空襲。この富山に住む人間にとって、戦争を語る時に避けては通れない出来事だ。
昭和19年頃から本土の地方都市を空襲し始めた米軍は、昭和20年になるとどんどんとその範囲を拡大させた。
そして昭和20年8月2日午前0時。陽動で市民の油断を誘うという卑劣な方法で空襲が始まった。
米軍機はまず市街地を取り囲むようにして焼夷弾を投下、さらにその中で逃げまどう人々に2時間にわたり爆弾を落とし続けた。
その結果、富山は市街地の99パーセントを焼失、屍体が累々と松川に浮かぶという酸鼻を極める事態となり、原爆以外の地方都市への空襲で最悪の被害を出したのである。
この話は戦争特集で皐槻ちゃんも知っていたから、「富山大空襲」と聞いただけで言葉を失っている。
「真夜中にいきなり空襲警報が鳴ったと思ったら、雨あられのごとく焼夷弾が降って来るんだ。防空壕なんか逃げる暇もない。しかも悪いことにその日、母は長野に他行していていなかった。私一人が逃げまどううち、出会ったのがトラさんだった」
どうしたのかと聞くと、焼夷弾の直撃によって早通家は炎上してしまい、彼女だけが取り残されたというのだ。
「泣き叫ぶ彼女をとにかく逃げないと駄目だ、と説き伏せて、とにかく駅の方へ走り出した。勝手知ったる街だが、こうなってしまうとどうにもならない」
だが、逃げ場を求めて走りに走った二人の前に、意外な妨害者が現れた。
それが、憲兵や警官だった。
これには、さすがの僕たちもあぜんとした。
憲兵や警察官が肩を怒らせて歩ける時代であったとはいえ、一応治安を守る人々のはずだ。
それが、なぜ火から逃げる人を妨害するようなことをするのか……。
「連中曰く、この程度で逃げるとは貴様日本人か、戻って消火して国に報いろ、だと。火が迫っていて、眼の前の人間が死にそうなのに滅茶苦茶にも程があるってものさ」
頑強に言い張って押し戻そうとする警察官と押し問答が続いた挙句、ついに彼は激怒した。
「馬鹿野郎!生き死にが賭かってる時に報国もくそもあるか、焼け死にがお国のためってんなら貴様が火に飛び込んで来やがれ!!」
そう啖呵を切るや、警察官の頬を殴りつけて突破しようとした。
だが同僚が歯をすっ飛ばしてぶっ倒れたのを見て、他の憲兵や警察官が彼を暴徒と見なして鎮圧にかかった。
「トラさん!!逃げろ、逃げろーッ!!」
異常とも思えるほどの人数に取り押さえられた彼は、逃げるトラさんにそう叫ぶのがやっとだった。
そしてそれが、彼女を見た最後の姿となったのである。
その後、早通家の菩提寺が梅沢町の「がんぎょうじ」という寺だと聞いて訊ねたものの、彼女の墓碑はなく、生死不明の状態だったのだ。
「そうだったんですか……そんなことが」
あまりのことに目頭を押さえながら言う皐槻ちゃんに、
「そうだったんだ。……だから、生きて今日会えるのが、楽しみなんだよ」
おじいさんは再び遠い眼つきとなって感慨深げに言った。
しんみりとした気分となっているところに、ちょうど僕らが頼んだオムライスが来た。
「ああ、いやいや、すまなかったね、こんな辛気くさい話をしてしまって」
「いえ、そんなことは……早くいらっしゃるといいですね」
「ありがとう。……ささ、お食べなさい。ここの料理は絶品だからね」
そう言うと、再びおじいさんはぼんやりとコーヒーをすすり始めた。


「おいしかったですね」
会計を済ませた僕らは、おじいさんに会釈をするとそのまま部屋を出た。
「ああ。思いがけず、しんみりしちゃったけどね」
「でも、いいお話じゃないですか。好きな人のために、取り押さえられるの覚悟で理不尽な連中に立ち向かうなんて」
「そうだねえ……悲惨ではあるけど、話されて悪い気はしなかったよ。それに、生きて会えるんだから」
「……にしても、全然来なかったですね、そのトラさんって人」
「まあ、うちのおじいちゃんと同じくらいの歳の人だろうし、いろいろあるんだろうさ」
そんな会話をしながら、エレベーターホールへ来た時だ。
エレベーターから、誰かがせかせかと飛び出して来た。
「あっ……高志君に、桐山さん!?」
驚いた声を上げる男性に顔を上げて、僕らの方も驚いた。
何とそこにいたのは、僕の親友・雄太のご両親である雄三郎さんと瑛子さんだったからだ。
「ご夫婦揃って……っていう雰囲気じゃないですね、どうかしたんですか?」
何やらあわてた様子の二人に、思わず僕が訊ねる。
「ああ……実はね、人を捜しているんだ。君たちは、レストランの帰りかい?」
「ええ、珍しく」
「じゃあ、こういう人は見かけなかったかい?」
そう言って雄三郎さんが取り出した写真に、僕らは凝然とした。
その写真には、まぎれもなくさっきのおじいさんが写っていたからだ。
ぎこちなくうなずく僕らに、雄三郎さんは小走りでレストランの方へ走って行った。
そして見ているうちに、例のおじいさんを連れ出して来たのである。
「何をするんですか、先生……ようやく会えるというのに」
「トラさんはね、今日は来れないんですよ」
「そんな、先生、そんなことは……この女鹿哲雄(めがてつお)の言うことが信じられないと言うんですか」
「そうじゃないですよ、ただ来れない、ということなんです」
押し問答の末、雄三郎さんはおじいさんを何とかエレベーターに押し込む。
「あなた!私は後から行くわ、高志君たちに説明する必要があるから」
「そうしてくれ、ヘルパーさんがいるからこっちは何とかなる」
瑛子さんとそう言いながら扉を閉めると、二人は下へと降りていった。
眼の前で起こったいきなりの出来事に僕らがあっけに取られていると、瑛子さんが、
「ごめんなさいね、二人とも。実はあの人、うちの病院の患者さんなのよ」
頭を下げてそう言った。
「………!!」
この言葉に、僕らは凍りついた。
雄太の家は、「奈川病院」という病院だ。
それも普通の病院じゃない。以前集団ストーカー妄想に取り憑かれた同級生の診察を任せた(「地鉄・越中三郷駅」参照)ことからも分かるように、精神科・心療内科が専門のいわゆる「精神病院」である。
「あの方、痴呆症(当時はまだ『認知症』の語はなかった)にかかって長い方なの。徘徊癖があって、本当は入院させたいんだけど……」
「え、痴呆症!?その割には、随分流暢に自分の過去をお話しされてましたけど」
皐槻ちゃんがそう言うのに、瑛子さんは首を振ると、
「それは……残念だけど、ほとんどが嘘の話なの」
うつむき加減にそう言った。
「う、嘘……!?」
絶句する皐槻ちゃんに、瑛子さんは静かにうなずいてみせる。
「嘘というより、事実ではないと言った方が正しいわ。痴呆症にかかった人は、記憶が混乱を起こすことが多いの。だから普通は記憶に基づいて話すと支離滅裂になることが多いのだけど、あの女鹿さんの場合は奇跡的にきれいにつながって、一見すると事実を語っているように見えてしまうのよ」
「そ、そんな……出来すぎじゃないですか」
「私もそう思うわ。だから、最初は真実だと思っていたんだけど……たまたま、女鹿さんが会う相手だと言い張っている早通さんの類縁の方が、不眠でうちに来られたんで訊いてみたら、『「トラ」は私の曾祖母で、昭和初期に亡くなってます』と言われて、それで分かったの。菩提寺にも連れて行ってもらって、墓碑を確認したわ。相手がいない以上、真実とは認められないでしょう?」
「うっ……確かに」
「こうなると満洲にいたことや、空襲の直前に日本に戻ったことも真実なのか、それも怪しいわ」
「………」
僕は、一言もなかった。
親類縁者が「空襲の前に死んでいる」と言い、実際に主治医が確認したというのなら、それはもう信じるしかないじゃないか。
そう思った時だ。
「待ってください、本当に嘘なんですか!?」
皐槻ちゃんが、すがるような声で瑛子さんに食い下がった。
「あんな具体的すぎるお話を、本当に昔を懐かしむような正気の眼をして語られて、それが嘘だなんて私には思えません!」
悲痛な声でそう抗弁する彼女に、瑛子さんはふと深い悲しみの表情を浮かべると、
「桐山さん……私だって、信じられるなら信じてあげたいし、会わせられるなら会わせてあげたいのよ。でも、医者として、嘘は嘘、出来ないことは出来ないと言わないわけにはいかない……どうか、分かって」
「瑛子さん……!」
なおも食い下がろうとする皐槻ちゃんを、僕は彼女の肩に手をやって無言で制した。
話が並行線になるのが、眼に見えていたからだ。
「ごめんなさい」
そう言って立ち去る瑛子さん。
「嘘です……それこそが嘘です」
衝撃の余りか、悲痛な表情で泣き出さんばかりになっている彼女に、何とか肩を貸してエレベーターに乗せ、僕らも電気ビルを出た。
正面玄関には、果たして奈川夫妻とともにヘルパーさんとおぼしき女性、そして例の女鹿さんがまだいた。
女鹿さんはさっきとは打って変わり、どこかぽやんとした表情で脈絡のない歌を口ずさんでいて、いかにも痴呆症患者というありさまである。
「みなみはねっか〜ひがしゃぽ〜く〜ら〜よぉ〜♪」
そう何かの歌を断片的に繰り返す女鹿さんに、僕は、
(………?)
妙な引っかかりをおぼえて立ち止まったが、皐槻ちゃんのつらそうな顔にそれ以上留まるのがためらわれ、早足で電停へと向かった。
「みなみはねっか〜ひがしゃぽ〜く〜ら〜よぉ〜♪」
松川沿いの木々がざわざわと揺れる中、電気ビルの煉瓦に女鹿さんの歌声が虚しく反射していった。





夕食後。
「チョコさん、ちょっといいですか」
居間でやりかけのゲームを少し進めていたチョコに、皐槻ちゃんがそう声をかけた。
郷土史を趣味にし始めた後も、ゲームや漫画の趣味は健在だ。
「ちょっと待って、この中ボスとの一戦だけ済ませちゃうから」
どうやらうまいこときりのいいところだったらしく、集中してコントローラを動かすチョコ。
やがて画面の中でボスが撃破されると、ふう、と息をつく。
「うーん、やっぱりホノカみたいにいかないなぁ……と、セーブセーブ」
そう言ってセーブをかけると、
「で、何?サツキ」
ひょいと皐槻ちゃんの方へ向き直った。
「郷土史のお勉強をしているチョコさんを見込んでなんですが……梅沢町に『がんぎょうじ』という名前のお寺はありませんか?」
皐槻ちゃんがそう切り出すのに、
「え、あ……ど、どしたのサツキ?いきなりお寺の話なんて」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔になるチョコ。
皐槻ちゃんがこんな風にいきなり質問をぶつけて来るなんて珍しいから、かなり驚いたらしい。
(皐槻ちゃん、本気でやる気なのか……)
僕は、思わずため息をついた。
電気ビルからの帰り道、皐槻ちゃんは女鹿さんの話を「嘘」という瑛子さんの言葉をしきりに否定し、
「主治医の先生が動かないなら、私が動きます。あれだけ人の心を動かした人の言葉が病気から出た嘘だなんて、私は嫌です」
そう力強く宣言したのだ。
ここまで食い下がる皐槻ちゃんを見たのは、僕としても初めてのことだった。
僕なんかは、あの富山でも有名な雄太のご両親だから診立てが間違っているとはまず思えないし、それに……冷たいようだけど、しょせんは見ず知らずの他人のことなんだから、嘘であろうとなかろうと、僕ら琴芝家の人間が容喙(ようかい)する筋合も、ましてや真実を突き止める筋合もないと思う。
だけど皐槻ちゃんは女鹿さんの話しぶりにすっかり心酔してしまって、
「あれは嘘をついていたりぼけていたりする眼じゃありません。まっすぐ愛を語る人の眼でした」
そう言い張って聞かない。
そして結局その迫力に押され、僕も協力を約束することになってしまったのだ。
それはともかく……。
このままじゃ話が進まないので、僕が二人の間に入って、ことの次第を全て説明した。
「なるほど……サツキは、そのおじいさんが嘘を言ってるわけないから証明したい、ってことなんだ」
「そうなんです。そのためにもまず、その『トラ』さんという女性が本当に空襲前に物故されているのかを知りたいんです」
皐槻ちゃんの必死の顔つきに、チョコは少々引き気味になりながらも、しばし考え込む。
「サツキ……厄介だよ、これ。梅沢町だもん」
「………?梅沢町だと何で厄介なんですか?」
「とりあえず、地図を見れば分かるよ」
そう言うと、チョコはテレビ台の抽斗(ひきだし)を探って、富山市の都市地図を取り出した。
そして市街拡大図を開くと、上本町電停の東の方を指差してみせる。
そこにあった光景に、僕らはあぜんとなった。
「え……何ですか、このお寺マークの塊は!?」
このことである。
何と梅沢町一帯が、お寺を示す「卍」の印で埋め尽くされていたのだ。
「……梅沢町は、いわゆる『寺町』なんだ。城下町って、お寺を集中的に管理するために町家と別の場所に固めることが多いから」
梅沢町も江戸時代まではそのものずばり「寺町」が町名で、廃仏毀釈の影響で今の名前に変更になったのだとか。
「すごく密集してますね……もしかして、町全体がお寺だったりするんですか?」
「うーん、そこまでみっちりお寺お寺じゃなかったと思うけど……でも少なくとも宗派くらいは分かっていないと探せないと思うよ」
「困りました……宗派、分からないんです」
「ええ!?それだとちょっと……もっとも、浄土宗や浄土真宗と言われても困るんだけど」
浄土宗・浄土真宗は信徒による一向一揆があったことからも分かる通り、北陸では一番多い宗派だ。
実際に富山はじめ北陸の町を歩くと、あちこちで「南無阿弥陀仏」という念仏を掲げたお寺に出くわす。
うちみたいに真言宗豊山派という方が、むしろ珍しいと思う。
「どうしよっかなぁ……とりあえず、どんな字を書くかだけでも」
「あっ……それも、分からないんです。口頭で聞いただけなので」
「えー、サツキ、困るよ……ごく平凡な名前のお寺みたいだし、名前がかぶったらそこでアウトだよー」
「ご、ごめんなさい……」
「い、いやそんなしゅーんとしないでよ……まいったなぁ」
しょげ返った皐槻ちゃんに、あわてて取りなすチョコ。
でも、チョコが言うことももっともだ。
これだけお寺が密集している地域で、表記も分からず名前だけで特定のお寺を探すのは至難の業だろう。
と、その時だ。
「ん……どうしたのよ、三人とも」
小難しそうな論文集を携えて、ほのかサンが居間に入って来た。
どうやらまた、父さんの蔵書を読んでいたところらしい。
以前は開放していなかったけど、最近はほのかサンだけでなくチョコも読みたがるようになったんで、父さんに諒解を取って開放しているんだ。
それはおいておいて……。
ここぞとばかりに、皐槻ちゃんとチョコがほのかサンにことの次第を話し始める。
するとほのかサンは、斜め上に首をかしげて少し考えた後、
「……ねえ、皐槻ちゃん。その『がんぎょうじ』という名前は確かなのよね?」
それだけ問うた。
「え、ええ、それは確かです。雄太さんのお母さんが、実際に行ったとおっしゃってましたから」
「ふうん……雄太君のお母さんが、ね。そっちから訊くことは……あッ、出来ないか」
「そうです。立場上無理ですよ……」
患者のプライベートに関わることは、第三者に他言しないというのが医師の基本だ。
今回瑛子さんが事情を説明してくれたのは、僕らが一連の事件の当事者になったからにすぎない。
「あー、まあもっとも、名前が確かなら、まずいの一番に調べるべきものがあると思うわよ」
「………?」
「電話帳よ、電話帳」
このほのかサンの言葉に、僕らは一瞬眼が点になった後、
「あーっ!そうだ、そうだった!」
「あ、あはは、そ、そうですよね……」
「あー、そうか……今あるお寺なんだから電話くらいあるよね」
三者三様に意味もなくおたついてしまった。
しまった、よく考えれば電話帳ってやつがあるじゃないか!
最近、携帯電話の普及で固定電話をうちでも使わなくなってるから、すっかり存在を忘れていた。
「皐槻ちゃんとチョコちゃんはともかくとして、高志がそこまで驚くかしら……まったく、頼りないんだから」
「うう、返す言葉もないよ」
「ま、今や電話帳も影薄いしね……どこにあるの?」
「えーとだ、確か厨房の電話台の下に放り込んであったと思うよ……ちょっと、探して来る」
そう言うと、僕は厨房のレンジ横にある電話台へと向かった。
ぱかり、と台の下の扉を開くと、うず高く電話帳の山が出て来た。
……4年分くらい処分し忘れてるよ。ちり紙交換に出せば、それだけでトイレットペーパー1巻になりそうだ。
とりあえず一番新しい平成16年版を取り出し、ほこりをはたいて持って行く。
「あーらら、全然使ってないのね……電電公社のビニール袋に入ったままじゃない」
「しょうがないじゃないか。……それより、調べようよ」
ほのかサンの冷やかしを軽くかわして、僕は電話帳を開いた。
「お寺だと、職業別だと『寺院』かな」
そう言いながらめくると、果たして富山市を筆頭にずらずらとお寺が出て来た。
「が、がん……」
その中から「がんぎょうじ」と読めるお寺を探す。
だけどすぐに、
「……あれ?がんぎょ……あれ?ないな」
僕の指は止まってしまった。
「え、ないの?」
「ああ。似た名前の『願称寺』ならあるんだけど、『がんしょうじ』と『がんぎょうじ』……発音として間違えるか微妙な線だよねえ」
「えー、『しょう』と『ぎょう』なら間違えてもおかしくないとボクは思うよ?」
「そんなことないはずです、女鹿さんは確かに『がんぎょうじ』とおっしゃったんですよ。しかもご本人だけでなく瑛子さんもそれを手がかりに訪ねてらっしゃるんですし」
「うーん……まいったな、こりゃ」
電話帳で出て来ないとなると、まず一番最初からけつまずいたことになる。
お寺の名前なんてまず改称するものじゃないから、少なくとも梅沢町どころか、この富山自体に「がんぎょうじ」なるお寺はない、ということになる。
「でもねえ、一応間違いの線でチェックしておいた方がいいわ。人間の記憶はあいまいだし」
「それもそうですね……」
ほのかサンにそう言われ、納得出来ないという表情ながらも願称寺の場所をメモする皐槻ちゃん。
そして間違いという線でまとまりそうになったその時、
「あ、ちょっと待って」
チョコが手を挙げて制止した。
「え、チョコちゃん……何かあるの?」
「うん、あくまで可能性に過ぎないんだけどさ……山号や院号と混同されてるってのはないかな?」
「それは……『がんぎょうじ』ではなく『がんぎょう山○○寺』『がんぎょう院○○寺』だってこと?」
「そうそう、それそれ。確かどんな小さなお寺にも、山号や院号はあるはずだよ」
「え、な、何ですか?山号とか院号って……」
お寺のことなどほとんど知らない皐槻ちゃんが問うのに、
「簡単に言うとね、お寺につける別名。ほら、お寺がいっぱいあると、名前がかぶっちゃうよね。それを区別するためにつけるんだけどね、昔のお寺の中には、山に建ってるお寺もあったんで山つけて何とか山、って言うんだ。院号は本来は皇族が和尚さんのお寺につけるんだけど、一般のお寺でも個性化っていうのかな、そういう目的でつけるようになったんだって」
チョコが簡潔に説明してみせる。
「うーん、調べてみる価値はありそうね。お寺って、山号はあまりないけど院号の方で覚えられてしまうことってあるし」
「……でも、どうやって調べます?」
「あー、それか……高志のお父さんの蔵書、郷土史関係の本が随分あるけど、あれあてになるかしら」
そう言って納戸の方に歩き出すほのかサンに、僕らもついて行く。
それから二十分ほど後。
「あー、駄目ね、神社ばっかり」
「県の百科事典はあるけど、こんなんじゃ小さなお寺は出てないよー」
「研究書はいっぱいあるんですけど、富山のお寺を研究した文献がないです……」
「まいったね、こりゃ……父さんの本も万能じゃないってことだね」
本を引っ繰り返し疲れて、床にへたり込む僕らの姿があった。
「どうする、皐槻ちゃん?明日にでも市立図書館当たってみる?」
「そうですね……でも、見つかる確証はありますか?」
「う、うーん、どうなの、ほのかサン?」
「いや、そう訊かれても……保証はちょっと出来ないわよ、司書やってるわけじゃないんだから」
戸惑いの声を上げるほのかサンに、皐槻ちゃんは伏し目がちになると、
「そうですか……では」
そう言って、自分の考えを口にした。
「え、ええっ!?皐槻ちゃん、そんなことして家事の方とか大丈夫かい!?」
「大丈夫です。これでも猫です、スタミナはあるんですよ」
「いやスタミナとかそういう問題じゃなくてね……」
しかしそこで皐槻ちゃんのまっすぐな眼に射抜かれた僕は、
「うーん、今度ばかりは止めても駄目だろうな……しかたない、その作戦で行こうか」
盆の窪に手を当てながらそう答えるしかなかった。


翌日。
「じゃあ、いってらっしゃい。無理しないでね」
おねーさんの声に見送られて、家を出る僕らの姿があった。
ただ一つ違うのは、僕と皐槻ちゃん、そしてひびきさんが自転車を携えていることだった。
そう、これこそが、昨日皐槻ちゃんがお寺探しのため出した腹案なのだ。
調査をほのかサン・チョコといった調査慣れしたメンバーにまかせ、残りは実際に現地をしらみつぶしに輪行して調べようというわけである。
といっても、自転車は僕と両親の分の3台しかないから、輪行部隊はそれ以上増やせない。
人が多ければ多いほどいいということで、雪乃やおねーさん、ひびきさんにも協力をあおいだものの、雪乃がペダルに足が届かずまず脱落、おねーさんは何と乗れないということで脱落した。
「だから自転車の練習をしておいた方がいいと言ったんです……まったく、お恥ずかしい」
ひびきさんの愚痴に言い返せず小さくなりながら、おねーさんが留守番を申し出たことで、メンバーが決まった。
「雪乃ちゃん、使いっ走りみたいになりそうで本当に悪いんだけど……文献の棚からの出納を手伝ってくれるかしら」
「あうあうっ」
「分かりました、だそうです」
これで雪乃が調査組に回り、結果的に残り3人が輪行部隊になったのだった。
「じゃあ、お先に」
そう言って、僕らは調査組より先に家を離れた。
狭い路地だからなあ、一緒に走ると危なくて……。
そして、電車通りを富山駅方向へ北上する。
「高志さま、皐槻さま、今回の調査に関して範囲と道順は大体覚えられましたか?」
「何とか。あざみ通りの北、1丁目と2丁目方面が僕、3丁目が皐槻ちゃん、そしてあざみ通りの南がひびきさんだろ。で、もう入れる道はどんどん進んで折り返しての繰り返しだ」
「山号・院号の見方はどうしましょうか、ほのかさんやチョコさんに聞いた話だと必ずしも書いてあるとは限らないとか」
「んー、書いてないところは一旦飛ばすしかない。そうしないと調査が終わらないよ」
「それもそうですね」
そんなことを話しながら電車通りを北上するうちに、広貫堂前電停のある中野新町交叉点に差しかかった。
ここを右折、電車と別れて次の信号から調査対象の梅沢町内になる。
「よし、じゃあ一時解散」
「定期連絡をお忘れなく」
「分かりました」
そう言って三方に散り、お寺の前を走りながら山号・院号を確認して行く。
……いやそれにしても、こりゃすごいなあ。全部がお寺というわけじゃないけど、相当な専有面積だ。
富山にあるお寺の何パーセントかくらいは、ここ梅沢町にあるんじゃないのかな?
自転車をこまめに止めながら北に進み、少し東に進んでから南下する。
地図に載っていない、本当に小さなお寺もあったりするから油断ならない。
30分ほどで正時となったので、携帯電話で互いに連絡を取り合う。
それによると、まだ二人も「がんぎょう山」や「がんぎょう院」のつくお寺を見つけていないらしい。
さらにどうやら数だけで見た場合は皐槻ちゃんの方が多いみたいで、ひびきさんが見終わり次第何もなければ支援に回るよし。
「こっちも数が少ないから、見終わって見つからなければ支援するよ」
そう言って切ると、再び路地をあっちへ入りこっちへ入りの探索を始める。
あー、何だか大きなお寺以外見当たらないな……全部山号違うし。
と、その時だった。
ひびきさんから、電話がかかって来た。
大あわてで出ると、
「見つけました、見つけましたよ……『願教院』!地図に載っていない、ごく小規模なお寺みたいです」
発見報告が飛び込んで来たものだ。
何でも皐槻ちゃんの支援に回ろうと、ひびきさんがあざみ通りを渡って転進し、3丁目の街中で別れた途端に発見したのだとか。
「お寺の名前と住所は?」
「ええと、『願教院法音寺』、山号は不明です。住所は梅沢町3丁目の……」
「分かった。ほのかサンたちに知らせて、裏取るよ。とりあえず向かうから」
そう言って切り、ほのかサンに電話する。
「ちょっと待って、今ちょうどその手の文献を手にしたところで……と、出た!『願教院法音寺』ってお寺があるわ」
「ちょうどよかった、さっき発見したところだよ。一応裏を取ろう、住所は……」
「ビンゴね。そこよ」
「ありがとう。じゃあ、僕は二人と合流するから、また」
電話を切ると、一度僕はあざみ通りまで自転車を南下させ、梅沢町3丁目交叉点を北上する。
ほどなくして、皐槻ちゃんとひびきさんが道端に自転車を止めているところに行き当たった。
「裏が取れたよ。……こっちかい?」
「ええ、そこの、小さなお堂のようなお寺です」
皐槻ちゃんが指差した先には、確かに「曹洞宗 願教院法音寺」と書かれた石碑を置いたお寺があった。
門前までやって来ると、どうやら一般に開放しているお寺らしい。
ほのかサンに、
「小さなお寺は、時々一般開放してないことあるから注意して」
そう注意されていただけにほっとした。
本堂にぬかづき、墓地へと入る。ここも特に立ち入り制限はないようだ。
きっとお寺の規模に違わず檀家も少ないのだろう、ここの墓地はまさに猫の額だった。
それに曹洞宗なので、墓の正面に家名が書いてあるから探しやすいだろう……と思ったら甘かった。
「高志さん……『早通家之墓』が3つもあるんですけど」
皐槻ちゃんが弱ったように言うのに見てみると、墓地の隅に『早通家之墓』が3つ固まって存在している。
「あー、これは……親戚や分家で分かれて、それぞれでお墓を造ってるんだな」
実は琴芝家もそうで、同じ墓地の中に2つ同じ『琴芝家之墓』が建っている。
もう一つの方は、おじいちゃんの代に当主が東京へ行ってしまったために、今では疎遠となっている形ばかりの親戚のお墓だ。
(これもそんな感じなんだろうな……)
そう思いながら、みんなでそれぞれのお墓に手を合わせると、手分けして墓碑銘を読み始める。
過去帳から取って刻んであるんだろうか、江戸時代の元号から墓碑銘が始まっていた。
ややあって、
「ありました、『トラ』さん」
ひびきさんがそう言うのに、いっせいに僕らは視線を彼女の方へ向けた。
「……歿年月日は?」
恐る恐る訊ねる皐槻ちゃんに、ひびきさんは顔を伏せたまま、
「……昭和2年2月13日、です」
静かに墓碑銘を読み上げた。
その言葉に、皐槻ちゃんがひびきさんの横合いから墓誌をのぞき込む。
僕ものぞき込んでみるが、そこには女性の戒名と、ひびきさんが言った通りの歿年月日が書かれていた。
さらに追い打ちをかけるように、「八十九歳」と書かれている。
図らずも、女鹿さんの相手である「トラ」さんが富山大空襲の時点で生きていなかった、つまり女鹿さんの話が嘘であることが、はっきり証明されてしまった。
「そ、そんな……」
皐槻ちゃんは信じられないとばかりに、今にも泣きそうな顔でぶるぶると首を振る。
あれだけ彼の話に引き込まれ、何としても嘘つきの汚名を晴らしたいと熱意を燃やしていた彼女にとって、これがどんなに残酷な結果だったか。
頭を抱え込む皐槻ちゃんを、どうすることも出来ずに僕らが立ち尽くしていた時だ。
「おや……見かけない顔の方ですな。早通さんのお知り合いですか?」
しわがれた声が墓地の入口から聞こえて来た。
見れば、そこには枯れ木のようなお坊さんが一人、ほうきを持って立っていた。
「あ、いや、その……どうします、高志さま」
「……素直に話してみようか。見ればご住職みたいだし、きちんと話をしてもらえば皐槻ちゃんの気持ちも収まるだろうさ」
小声でそうやり取りした後、僕はお坊さんに事情を話してみた。
「はーあ、なるほど。その方が嘘を言っているか否かを確かめたくて、『早通トラ』さんをお探しに来たんですな」
果たして、お坊さんは法音寺のご住職だった。
僕のおじいちゃんより6つくらい年上だろうか、枯れた雰囲気がいかにも禅僧という感じがする。
本堂に通された僕らに、ご住職はトラさんについて話し始めた。
「残念ながら、トラさんについては確かに昭和の頭に亡くなっておられるよ。わしが小坊主だった頃に、よくこの寺に来なすってのう。皮肉にも、わしがご葬儀のお手伝いをした最初の人になってしまって……今でも強烈に憶えておる」
「そうですか……和尚さんがそう言われるのでしたら、本当なんですね」
「のう、皐槻さんとやら……。嘘かどうかなんて、もういいじゃあないかね。そのご紳士には、たとえ架空であっても真実に人を想い慕い、愛する心があるんだ。それで本人が幸せなのなら、それでいいじゃないか。わしはそう思うが、ね……」
「はい……そうですね……」
ご住職の説得に、さしもの皐槻ちゃんも折れた。
その皐槻ちゃんの肩をぽんとたたき、僕らは本堂を辞去しようとした。
が、その時だ。
「……待ってくだされ。今、思い出したことが」
ご住職が、急に険しい顔つきになって僕らを呼び止めた。
急に呼び止められて立ち尽くす僕らの前で、ご住職は奥の寺務所に引っ込んでしまった。
「あった、あった」
そう言いながら、書類の束を持って来ると、ご住職は再び僕らに座るよう言ったのである。
それから30分ほど後。
「ありがとうございました!」
意気込んで法音寺を去る僕らの姿があった。
「高志さん、急転直下の展開ですね」
「ああ。……それともう一つ、女鹿さんが満洲にいたって話、あれも裏が取れるかも知れない」
「え!?何か策があるんですか!?」
「策というより、意外なところに手がかりがあるのに気づいたんだ。ともかく、ついて来て。とりあえず梅沢町からいたち川方面へ。……え、逆じゃないのかって、説明してる暇ちょっとないんだ、いいからついて来てくれよ。ああ、そうか、ほのかサンたちへの連絡ね……いいや、現地が近くなったら僕からするから」





それから数日後。
僕と皐槻ちゃんは、再び電気ビル4階のレストランへ来ていた。
奥のテーブルには、女鹿さんが座ってトラさんが来るのを待ちわびている。
だが、今日の女鹿さんに手を出す者はいない。実は……。
「どういうつもりなんだ、高志君、桐山さん」
僕らの横の席に座るなり、雄三郎さんは僕らを難詰して来た。
それもそうだろう。
「今日は女鹿さんを連れて帰らず、一緒にここで見ていてやってくれなんて」
「そうよ。しかも嘘を通せだなんて……」
こんなことを言われては、主治医としてはもの申したくもなるだろう。
あの調査の翌日以降、女鹿さんの行動パターンを独自に調べることにした。
レストランの従業員さんにそれとなく探りを入れ、その通りに何度か現れる日を確認したのである。
そして、今日も女鹿さんを迎えに来た雄三郎さんと瑛子さんに、
「トラさんが絶対に来ますから、邪魔しないであげてください」
と言って無理矢理席に着かせたのだ。
「それは違いますよ、瑛子さん。その『嘘』とおっしゃっているのが実は真実なんです」
「そんな馬鹿な話はないでしょう、トラさんがいないのは確認したって、あの時私からも説明したはずよ」
「まあ、見ていてくださいよ。1時になれば、ことがはっきりします」
「………?」
そうするうちに、時計が1時を示した。
「1時になったが、一体何が……」
そう雄三郎さんが言いかけた時だ。
レストランの入口に、上品な身なりの老婦人が現れた。
婦人は、レストランの奥を見るや驚いた顔つきとなって、女鹿さんの座っているテーブルへ歩き出す。
そして、女鹿さんの前に立つや、
「もしかして……女鹿さんところの哲ちゃん!?哲ちゃんよね!?」
そう言い出したものだ。
「トラさん……トラさんなのかい!?本当の本当に、トラさんなのかい!?」
「ええ、トラよ。こんなおばあちゃんになっちゃったけど……」
「何を言ってるんだい、べっぴんさんは老けてもべっぴんだよ」
「いやだ、昔と同じようにお世辞だけはうまいんだから」
そんな会話を繰り広げる二人を眼の前に、
「……ね?真実だったでしょう?」
主治医先生二人に対し胸を張って言う僕。
「ちょ、ちょっと、どういうことなんだね……あれは、本当に本物の早通トラさんなんだろうね」
「ええ、正真正銘の本物です」
きっぱりと言い切る僕に、雄三郎さんは絶句した。
「……謎解きをしてくれないかしら」
信じられないという顔をする瑛子さんに、僕らは一連の出来事を話し始めた。
あの時……。
法音寺のご住職が持って来たのは、過去の檀家さんの名簿だった。
名簿といっても名前だけがつらつら書いてあるだけの代物だったけど、その中に「トラ」の名前があった。
ご住職曰く、
「申しわけない、その名を聞いた時点で思い出すべきじゃった……。もう一人、早通の一族には『トラ』さんがいらっしゃったんじゃ。ただし、住所不明に生死不明でのう」
とのことだった。
何でも昭和2年に死んだトラさんの姪の娘さんであるとかで、生まれは昭和3年。
生きていれば、今年で76歳。女鹿さんとそんなに変わらない歳だ。
「そ、そんな……一族に2人同名がいたなんて」
「ご住職によれば、昔はもう片方が既に亡くなっていて、縁遠ければそういうこともあったそうです」
ともかくも、これでトラさんの実在が判明した。
こうなると、女鹿さんが本当のことを言っている可能性が復活する。
「あとはですね、ある人脈を使って探してみることにしたんです」
「ある人脈……?」
「僕のおじいちゃんを会長とする『いずみ園満鉄OB会』ですよ」
「ま、満鉄って……そりゃあ、女鹿さんは自称奉天在住だったが、満鉄に関係していたとは限らないじゃないかね」
「いや、関係してるんです。そのかぎが、女鹿さんが口ずさんでいた歌ですよ」
「ん?あの『みなみはねっかひがしゃぽくらよ』を繰り返してるやつかい」
「そうです」
法音寺を辞去した後、僕らはいたち川沿いを走り、「いずみ園」へ行った。
なぜこんなところに来る必要があるのか、と戸惑う二人を促し、おじいちゃんと面会する。
そこで僕は、なぜここに来たのかを明かした。
「ねえ、おじいちゃん。確か満鉄社員の愛唱歌で、『南は熱河、東ゃポクラよ』って歌なかったかな?」
このことだ。
随分昔に見た満鉄の記録映画で、こんな歌が出て来たのを思い出したからだ。
「あるちゃ。正式な題名はわしも知らんちゃけど、俗に『北はアムール』と言われとったちゃ」
「ちょっとその部分だけでも歌ってもらえる?」
そう言うと、おじいちゃんはこくりとうなずき、

 北はアムール 南は熱河
 東ゃポクラよ 西満洲里(まんちゅうり)

朗々と歌い上げた。
その歌は、歌詞も節も女鹿さんの歌と全く一緒だった。
その話をすると、
「うーん、ぼけたからか、中途半端な形で歌が残ったんちゃな。この歌は北と西は分かりやすいが、南と東は知らんと分からんちゃ」
「『熱河』は満洲と中国の境目の辺りだって分かるけど、『ポクラ』ってどこ?」
「綏芬河(すいふんが)ちゃ。東清鉄道があった時代、『ポグラニーチナヤ』と呼ばれとったがを、略して『ポグラ』呼んどるうちに『ポクラ』になってもうたんちゃろ」
「なるほどね、満洲の範囲を歌ってるわけだ」
「そういうことちゃ。いずれにせよ、その人満鉄の関係者の可能性高いちゃ……奉天やったな?」
「うん」
「おーい、鉄道総局(奉天にあった満洲国鉄の運行事務所)の本局か奉天局(奉天鉄道局)出身のやつおらんけー?」
そう呼びかけると、数人のおじいさんが出て来た。
「何か用ですけ、会長」
「なあん、人捜しちゃ。『女鹿哲雄』ちゅう人を知らんけ?」
そう言うと、一人のおじいさんがしばらく考え込むような顔つきになり、
「女鹿……そういえば、わしの後輩にそういう男がおりましたちゃ」
「何、本当け?確か田川さんは……奉天駅の駅員やったけ」
「ええ。富山で同郷ということもあって目をかけとったちゃけど、もう戦争が終わる直前でしたけ、奉天駅のホームから転落して、足を複雑骨折してまいましたちゃ。その後は鉄道員が出来んようなったからと、富山に帰ったと聞きましたちゃ」
この言葉に、僕らは顔を見合わせた。
満洲にいただけでなく、奉天で満鉄社員をしていたこと、さらに足をやって仕事が続けられなくなり日本へ帰ったこと。
全てが、女鹿さんの話と合致する。
あとは、トラさんの消息だけだ。
生死不明というのは、いかにも気になる。
女鹿さんの話によればトラさんは家族を亡くしているようなので、このように生死不明状態になってもおかしくない。
こういう場合有り得るのは、不幸にも孤独死してしまっているか、どこかの病院や老人ホームに入園しているかだ。
「おじいちゃん、ついでといっては悪いんだけど、その女鹿さんが再会を待ちわびてる人がいるんだけど……」
そう言ってトラさんの話を持ちかけると、おじいちゃんは、
「ちょっと待った。『早通』さんけ?」
「何か知ってるの?」
「知ってるも何も、先日ここへ入った人にそういう名前の人がおったちゃ。変わった苗字なんで覚えとったちゃ」
「ありがとう!ちょっと施設の人に言って、会わせてもらうよ」
そうしてその「早通トラ」さんと面会した僕らは、女鹿さんのことについて間違いがないかどうか確認した。
それを聞いて、トラさんは、
「まあ、哲ちゃんが……!!」
そう言って絶句し、是非とも会いたいと言い出した。
幸いトラさんには病気はなかった。なぜここに入ったかというと、身寄りがなくて一族にも忘れられ、孤独死しそうになっていたのを救われたからだった。
それが今日、見事60年ぶりの再会となったというわけである。
「何てことだ……こんなことってあるのか」
僕らの説明に、雄三郎さんは心底驚いたと言わんばかりに頭(かぶり)を振り、
「すまない、高志君に桐山さん」
僕らの前で深く頭を下げた。
「私からも謝るわ。ごめんなさい」
瑛子さんも、頭を下げる。
「そんな、よしてくださいよ……別に謝ることはないじゃないですか」
「いや、謝らせてくれ。いくら痴呆症によくある症状の患者とはいえ、よく精査もせずに嘘つきと決めつけたのは許されることじゃない」
「………」
僕らの間に落ちた沈黙の向こうに、嬉々として昔話に興じる女鹿さんとトラさんの声が響いている。


それから……。
女鹿さんは、本人の希望もあって「いずみ園」に移ることになった。
元々ヘルパーさんを頼んで独居していたので、老人ホームに入るのにさほど抵抗はなかったらしい。
満鉄OBということから、「いずみ園満鉄OB会」の会員にもなった。
もっとも本人はトラさんと話すのが楽しみで、OBのおじいさんたちとはあまり交流はないとか。
そんな時は「北はアムール」を歌うと、仲間の輪に入ってくれるのだという。

 北はアムール 南は熱河
 東ゃポクラよ 西満洲里
 結ぶ絆は おいらの鉄路
 明日はスパイク どこに打つ

 明日のねぐらか 嘆くな女房
 蒙古風吹く 砂漠の果てで
 枕並べて 枕木抱いて
 嬉し仲間と 月を見る

女鹿さんを中心に歌うOB会の人たちと、手拍子をするトラさんの姿を見ている僕らの後ろに、誰かが立った。
「あ……雄太のおじさんとおばさん」
雄三郎さんと、瑛子さんだった。
「ひさしぶりに見たが、生き生きとしてるね」
「そうでしょう?でも……何も、主治医を降りることまでしなくてもよかったと思いますけど……」
あれから、雄三郎さんと瑛子さんは女鹿さんの主治医を降り、いずみ園を担当している同輩の医師に後を託した。
「そんなことはないさ。おのれの未熟のために、患者を一人不幸にするところだったのだから、当然だよ。けじめはつけるべきだ」
そう言うと、二人は静かにその場を去って行った。

 月はなくとも レバーは光る
 黒い炭さえ 真っ赤に燃える
 熱い思いを レールに乗せて
 飛ばしゃ曠野(ひろの)は 荒吹雪

 どんと荒波 玄海越えて
 千里の育ち 磨いた度胸
 今じゃ青空 興安嶺(こうあんれい)の
 お花畑で 昼寝する……

「北はアムール」の唄声が、ゆっくりと、しかし力強く響く。
遠く、電気ビルの膝元へと向かう水が、その唄声を乗せてとうとうと流れて行った。

<つづく>
(平22・8・23)
[平22・11・7/補訂]
[平30・6・23/再訂]
[平30・7・22/三訂]

[あとがき]
 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 「とやまはっぴ〜だいあり〜」第7話「電気ビル異聞」、いかがだったでしょうか。
 ここのところ長い作品が続いたため、今回は短めに仕上げてみました。もうお気づきとは思いますが、このシリーズは第2話からそれぞれのヒロインをメインにすえた話を続けていますが、今回皐槻ちゃんがメイン(というには些か弱いですが)となったことにより、こ れで一通り一巡したことになります。「おねーさんはヒロインか?」と言われそうですが、一応コンシューマ版でシナリオ持ちでしたし。
 今回のお話は虚言癖があると診断された認知症のご老人に対し、その恋の話に真実を見出した皐槻ちゃんが意地で彼の無実を晴らそうとするお話でしたが、これにはヒントとなった作品があります。山本周五郎さんが昭和9年に書いた「麦藁帽子」という短編です。この小説は海沿いの温泉地へやって来た青年がある老人と出会い、彼に想い人と添い遂げられなかった話をされるのですが、宿の女中に彼が虚言癖のある白痴(今でいえば統合失調症)で村の笑い者なのだと言われて「騙されたんですよ」と一笑に付されてしまいます。しかし青年は嘘であってもその老人の眼には真実が宿っていたと感じており、そのような扱いに反発を覚え、その老人に会いに行きます。そこで話を聞くうちに真実かどうかなどを越えて感動している自分に気づくのです。ですが結末では、その老人はまもなく海に転落死したとの手紙を受け取ることになります。
 このお話は、それを思い浮かべながら、「麦藁帽子」のようなやるせない終わり方ではなく、逆に当人の汚名が晴れてハッピーエンドとなるようにしたものです。「麦藁帽子」の登場人物に少し引かれたか、皐槻ちゃんが今回非常に人に食い下がるところを見せていますが……。
 あと満鉄がらみのねたは……生暖かく見守ってください、好きなんです(汗)。
 なお女鹿さんの病名について、作中でも説明しましたが「痴呆症」という表現が使われています。現在では「認知症」というのが普通ですが、実はこの言葉はそう古い言葉ではなく、この物語の舞台である平成16年にはまだ言い換えがようやく提唱された段階でした。このため時代を合わせるためにあえて使用したことを註記しておきます。
 それでは、また8話目でお会いいたしましょう。

「書庫」に戻る


Copyright(C) MasakiTomasawa.