驟 雨(はしりあめ)
作/苫澤正樹 

※このSSは、Purple software(パープルソフトウェア)のPCゲーム「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」及び同ソフトのファンディスク「はぴぶりファンディスク」を基としています。
※両者のねたばれを含みますので、両方とも未プレイの方だけでなく「はぴぶりファンディスク」のみ未プレイの方も充分にご注意ください。




「まったく、あっちもがんばるねえ」
黒部行の普通列車の車中で、僕はあきれたようにため息をついた。
今僕らは、名古屋高等裁判所金沢支部のある金沢から、富山へ戻ろうとしているところだ。
例の「鉄鎚」事件の被告人の片割れが往生際悪く控訴したために、裁判が富山から金沢へ持って行かれてしまい、傍聴するのも一苦労だ。
まあ、第二審の場合は第一審に問題がなかったか確認するのが主だから、前みたいに足しげく通う必要もないだろうけど。
「まさか控訴するとは思わなかったですから……あれ以上刑が軽くなると思ってるんでしょうか?」
眉間に手を当ててそう答える皐槻ちゃん。
「あの分だと思ってそうだよね。……それはともかくとしてさ、みんな。お昼、どうする?」
それに答えながらそうチョコが訊ねるのに、全員揃って顔を見合わせた。
こっちとしては二度と見たくもない被告人の面を拝んだ後だけに、裁判以外のことに考えが行かなかったけど……確かに富山に着く頃には昼過ぎだ。
「あ……困りました、何も買ってなかったです」
皐槻ちゃんがしまった、という顔で盆の窪に手をやるのに、チョコは、
「じゃあさ、いいお店あるから行かない?」
待ってましたとばかりにそう言い出した。
「え、いいお店って……」
「教えてもらったんだー、コミュニティで」
「ああ、あそこか」
現在、チョコは偶然インターネット上で知り合った呉東大学文学部の先生の紹介で、とあるSNSに入っている。
以前僕が紹介した掲示板での管理人や取り巻きの悪行により、チョコがひどく傷ついたことは既に書いたけど(「街」参照)、世の中捨てる神あれば拾う神ありというべきか、この掲示板を強く批難していたその先生のブログにチョコがコメントを残したのがきっかけになり、今では富山城下町の研究からお得なお店の情報までそこで仕入れて来るようになった。
「南富山のお店なんだけどね、居酒屋さんがお昼の営業も始めたらしいんだ……そのメニューに、コロッケがあるんだよー」
よだれを垂らさんばかりに言うチョコ。
チョコにとって僕との再会のきっかけになったコロッケは、今や彼女の大好物だ。
「南富山か……駅から随分あるねえ」
南富山は駅前から電車で15分ほどで行けるけど、途中西町辺りで乗り降りに時間かかることもあるから、必ずしもこれに収まるとは限らない。
「駄目かなぁ?うちからもそんなに遠くないよ?」
「いや、いいんだけど……よく見つけて来るよね、チョコも」
「そりゃそうだよ、ボクはコロッケのためとあらば、金沢だろうが福井だろうが新潟だろうが長野だろうが大阪だろうが飛んで行く覚悟の持ち主なんだ……そう、それこそがコロッケを極めし者の運命(さだめ)!」
そう言って、反り返らんばかりに胸を張るチョコ。
……「コロッケを極めし者」って、どうやったら極められるんだ、コロッケを……。
いや、その辺突っ込んでも無駄だからよそう。
「まあ、帰り腹ごなしに歩いても充分な距離だし……行ってみようか」
僕がそう言うのに、みんながめいめいにうなずく。
「やたーっ!コロッケだ、酒池肉林だー!!」
だから「酒池肉林」はやめなさいっての……。
そんな風に苦笑しながら喜ぶチョコをながめる僕たちに、これからとんでもない災難が降りかかろうとは、その時は思ってもみなかった。


「ありがとうございましたー」
それから1時間ほど後。
僕らは、チョコが紹介した件の店で午飯(ひるめし)を済ませていた。
「いやあ、驚いた……コロッケ一つでも、馬鹿に出来ないもんだねえ」
居酒屋さんのコロッケ、というから、みんなでつついてつまみにする程度のもの、つまり量だけあって味はまずまずだろうと、期待してなかったんだけど……。
「こ、これは……下手なデパートの惣菜よりおいしいんじゃないの!?」
実際はこうだった。
さくさくとした衣、肉・野菜・じゃが芋の絶妙なバランス、そして油のうまさ。
何でもご亭主が、元は総曲輪の肉屋でバイトしていたことがあったそうで、その時のやり方をアレンジしてるんだとか。
あまりのおいしさに我が家の庖丁人・皐槻ちゃんが大いに興味を示し、
「これ、どうやってこんな絶妙な味出してるんですか?」
ご亭主に製法を訊ね、
「あー……ごめんねぇ、企業秘密なんだよ」
苦笑混じりに返される一幕もあった。
女将さんによると、おつまみ用のフライになるとまたやり方を変えるそうで、
「よろしかったら、夜にもいらしてくださいね。年輩の方ばかりで、若い方には近寄りづらいかも知れませんけど」
そんな夜のお誘いまで受けてしまった。
それはともかく……。
「さて……どうしようか、帰り?」
そう言う僕に、真っ先に反応したのがチョコだった。
「電車にしない?眼の前に止まってるしさ」
指差す先を追うと、果たしてそこには折り返し準備をしている最中の電車の姿があった。
南富山駅は南北に鉄道線の不二越・上滝線が走っている西側へ、北向きに出入口が開いた形で駅舎が接続しており、その出入口のすぐ東側に電車乗場がある。
ラッシュ時なんかはこの乗場まで入らずに、手前で降車客を降ろすこともあるらしいけど、基本的にどの電車も駅舎出入口までやって来る。
このため不二越・上滝線からの乗り継ぎ客が多く、そのことも電車の収支を下支えしているとか……。
ま、そんなことはいいとして……何か運転士さん、走ってるぞ?
「遅れてるみたいだね。すぐ折り返しだろうから、乗るならすぐに乗っちゃおう」
「よーし、じゃ出発進行ー!」
僕の言葉に、てけてけと走り出すチョコ。
「あ、待って、段差あるから危ないわよー!」
それに続き、注意を喚起しながらほのかサンが走り出す。
さすがにこうなっては僕らだけのんびりしているわけにもいかないので、残り全員で団子になって電停へ早足で歩き始めた。
その時。
「あッ……!!」
「あう?あうーッ!!」
急に後ろから、皐槻ちゃんと雪乃の叫び声と、どんっ、という鈍い音が響いたものだ。
即座に立ち止まって見返ると、何とそこでは、皐槻ちゃんと雪乃が眼を回してひびきさんの膝の上に倒れていた。
「皐槻ちゃん!!雪乃!!ひびきさん!!」
大あわてで駆け寄る僕に、ひびきさんは、
「わ、私は大丈夫です。お二人を受け止めるために受け身を取って転んだので」
息を上げながらそう言うと、二人の顔をのぞき込み、
「気絶ではないようですね……びっくりされているのでしょう。気付けをします」
そう言い、懐から小さな瓶を出して二人にかがせる。
その瞬間、
「うん……」
「あう……」
二人がゆっくりと起き上がり、ぷるぷると首を振った。
「よかった、気絶していたらしゃれにならないところだったよ」
よく脳震盪(のうしんとう)で少し気絶=大したことはない、と言われがちだけど、あれは大嘘で、気絶するような脳震盪は脳損傷の恐れがある。
そういう意味でも、すぐに正気を取り戻したのは不幸中の幸いだった。
「どうやら、団子になって急ぎ足で歩いてるうちに、足がもつれちゃったみたいね、二人とも」
二人の後ろから歩いていたおねーさんによると、後ろにこけた皐槻ちゃんと、前につんのめった雪乃が互いに頭をぶつけたらしい。
皐槻ちゃんはあの大きな耳があるから、側頭部だったらとんでもないことになってるところだった。
「ごめん、ボクがせかしちゃったから……」
異常に気づいて飛び戻って来たチョコが謝るのに、
「まあ、僕らも不注意だったんだし……」
僕は手のひらをかざして構わない、と頭を上げさせる。
「にしても……こぶ出来てないかな?ひどいようなら、南富山駅の駅員さんに頼んで氷か何か包んでもらうけど」
そう言いながら、僕はまず皐槻ちゃんの後頭部に手を回す。
その時だった。
「え、何で後ろが痛いんですか……?」
突如、皐槻ちゃんが不可解なことを言い出した。
「だって後ろを打ったんだから、後ろが痛いのは当然じゃないか」
驚いてそう訊ねる僕に、
「そう言われても……私、確か額を打ったはずです」
さらに信じられないことを言い出す皐槻ちゃん。
僕が言葉を出せずにいると、横にいた雪乃が、
「あうっ!?あうあうあう……?」
ひびきさん相手におたおたとジェスチュアで何かを伝えようとしている。
「えっ……『後ろを打ったはずなのに額が痛いです、それに声が出ません』ですか!?」
雪乃がペンで書いて差し出した筆談用紙に、ひびきさんが絶句する。
さらに驚いたことに、そのメモをのぞき込んだチョコが、
「ちょっと待って、この字……ユキノの字じゃないよ!?」
そう言い放った。
「え……!?」
「だって、ユキノの字はもっと細めだよ。うちでこういう字を書くのはサツキだよ!」
「………!」
チョコの言う通りだ。
僕とおねーさんを除く琴芝家の面々はそれぞれペン字や書道を練習しているんだけど(「桃李成蹊」参照)、確かに雪乃はこんな力強い字は書かない。
こんな字を書くのは、骨太の六朝楷書を専門にしている皐槻ちゃんしかいないはず。
「え、何が一体……」
「あうあう……」
おたつく二人に、おねーさんが厳しい顔つきでコンパクトをかばんから取り出す。
恐らくは、僕と同じことを確信したんだろう。
「二人とも、これで自分の顔確認してみなさい」
そう言って渡されたコンパクトをのぞきこんで、皐槻ちゃんも雪乃も眼に見えて固まった。
「こ、これって……」
「あ、あう、あうあうあう……」
それを見たおねーさんは、こくりとうなずくと、
「典型的な、精神交換ね」
ゆっくりと診断を下す。
「………!!」
琴芝家全員の声にならない叫び声が、南富山の駅前広場に響いた。


それから取るものもとりあえず、電車で家まで引き上げた僕らは、改めて二人に入れ替わっているかの確認を取った。
それに対して、二人は、
「確かに私は雪乃です。声が出ている時点でおかしいと気づくべきだったんですけど……」
『私は皐槻です。雪乃さんの声がいやに近くに聞こえると思ったら自分の声で』
明確に逆になっていることを証言した。
「そんな……漫画じゃあるまいし、精神交換なんて。科学的に有り得ないよ」
何かの事故で登場人物の心が入れ替わるというのは、古今東西漫画やドラマのお約束のようなものだ。
ただしこれは「肉体に霊魂が入って一人の人間」という考え方に基づくもので、「心はそれを司る脳とは不可分」とする現代医学では有り得ない現象のはず。
しかし、その言葉に、
「キミ、それなら私やこの子たちはどうなるの?」
おねーさんから厳しい突っ込みが入った。
「あ、そうか……おねーさんやみんながいる以上、常識が通じない可能性はあるんだった」
「そういうこと。特にこの子たちは魔法の産物だから、余計にこういうことが起こりやすいのよ」
それを前置きに、おねーさんは精神交換について説明を始めた。
「私が見た感じでは、ごくありがちなタイプの、物理的な精神交換ね。魔界じゃよくあることよ」
「よくあることって……」
「しょうがないじゃない、実際によくあるんだもの。衝撃だけじゃなくて魔法を誤って入れ替わるなんて事故も日常茶飯事よ、あっちじゃ」
そう言うとおねーさんは、あごに当てた手を離し、
「まあ、そういうことだから……存外簡単に治るわよ、これ」
うなずきながらそう言い出した。
「でもおねーさん、魔法使えないんじゃないの?」
おねーさんと言えば以前は魔法、だったんだけど、何せ今はリハビリ中で全然使えないからなあ……。
「いや、魔法使うまでもないわ。このレヴェルなら薬で一発よ」
そう言って、ひびきさんに眼を向けるおねーさん。
「そうですね、魔界では常備薬としてポピュラーです。富山の薬で言えば、反魂丹(はんごんたん)とまでは言わないまでも熊肝圓(ゆうたんえん)くらいの立場ですかね」
「そ、そんなに普通なんだ……」
「反魂丹」「熊肝圓」ともに、この富山を代表する胃腸薬だ。特に反魂丹は富山の売薬を全国に知らしめたことで名高い。
「じゃ、すぐにでも……」
「いえ、待ってください」
常備薬と聞いて安心した僕がそう言い出すのを、制止するひびきさん。
「申しわけありません……実は魔界から持って来た常備薬は、全部魔女の恢復薬の材料にしてしまったんです」
「え……!?」
「こちらで取れない薬草も多かったので、使わざるを得なくなりまして……」
「あっちゃー……運が悪いというか何というか……」
申しわけありません、と頭を下げるひびきさんを、いいから、となだめると、僕は、
「ひびきさん、それって作れないものかな」
「作って作れないことはありません、人間界にある生薬や薬草で何とかなりますので。ただ……」
「ただ?」
「いくつか仕入れに行かないといけないものがありますし、あとお店では扱っていない材料もあります。前者は今日中に揃うにしても、後者は自力で探さないと」
「………」
ひびきさんの答えに、みんな押し黙ってしまった。
いくら出来ないことはないといっても、材料探しから自力じゃ、相当に時間がかかる。
「……ともかく、ぐずぐすしていられません。生えていそうな場所は私も知らないわけじゃないですから、大急ぎで探しに回ります」
「私も行くわ。一応これでも、アカデミーじゃ魔法薬の授業は『優』だったからね」
「それじゃ、僕たちも……」
僕が言いさすのに、ひびきさんは、
「いえ、これは魔法薬の知識がない方には荷が重すぎます。高志さまたちは、普通に生活を続けてください。……大丈夫です、きっと見つけて来ますから」
きっぱりと僕らを制止すると、
「ただ、皐槻さまも雪乃さまも、お互いにご注意なさってください。その躰は、あくまで別人のものだということを忘れないでくださいね」
そう言い残して、すわとばかりに大急ぎで玄関を飛び出して行った。
こうして僕らは、しばらくの間皐槻ちゃんと雪乃が入れ替わった状態のまま、日常生活を送らざるを得なくなってしまったのだった。





あれから、2日が過ぎました。
いきなりの思いがけない事故で、皐槻さんと躰が入れ替わってしまった私。
初日は戸惑ったなんてものじゃありませんでした。いきなり頭一つ以上、視点が高くなってしまいましたから。
それに困ったのが料理です。皐槻さんの独擅場だった領域ですし。
皐槻さんも努力はしたようなんですが、何せ小さくて非力な私の躰なので、普段通りにことが進みません。
私も手伝いはしてますけど、元々そんな得意じゃないし……。
しかたなく、料理はチョコさんやほのかさんとの共同作業になりました。
こんな風に困ったことも随分ありましたが、ようやく慣れて来つつあります。
……そんな時でした、私が今の状況でたった一つ「よいこと」があるのに気づいたのは。
それは「言葉」です。
私は元々が金魚だったせいもあって、魔法をかけた際に声帯がきちんと形成されなかったとかで、喃語ばかりをしゃべってました。
まあそれはそういうものだからしかたないと思っていましたし、皐槻さんが通辞についてくれるので別に不自由ではなかったんですよ。おかげで字も随分覚えましたしね……。
でも……やっぱり、言葉はほしかった。それが偽らざる私の本音でもあります。
だって、高志さんとお話ししたくて人間にしてもらったんですから、そもそもが。
それなのに喃語じゃ……ちょっと寂しいですよ、やっぱり。
それを考えると、皐槻さんの躰に入って言葉が使えるのは、皐槻さんご本人には悪いですけどとても気分がいいです。
私の言うことを高志さんが直接耳で聞いてくれる。
私の言うことに高志さんが直接反応を返してくれる。
今まで皐槻さんを通すか、筆談でしか話せなかった私にとって、それはとても大きな喜びでした。
……もちろん、その代わりに皐槻さんが今度は「言葉」を失っているので、大っぴらに喜ぶのは不謹慎なんですけども。
それが分かっていても、やっぱりうれしかったんです。
それに皐槻さんって、高志さんと……。
それもありますから、余計に皐槻さんの躰に入ったのを喜びました。
こうして浮かれ気味となった私は、その日、思い切って高志さんを買い物に誘ったのでした。


「村下孝蔵の『初恋』かい?その鼻唄は」
西町へ向かう電車の中、高志さんがそう訊ねて来ました。
あはは、聞こえてしまいましたか……てっきり電車のモーター音で聞こえないかと思ったんですけど。
「ええ。魔……絵里香さんからCDを借りて、気に入ったんです」
「おねーさん経由か、いかにもあの人らしいなぁ。村下さんは父さんも好きでね、その影響で僕もファンさ」
そう言うと、ちらっとMP3プレーヤを見せてくれる高志さん。
……アルバムだけじゃなくてライブ音源まで……実は結構コアなファンですか?
でも何だかこうして趣味を共有出来るのって、気分いいです。
そう言っている間に、西町へ到着です。
「はい、西町、西町です。お降りの方は押し合わず、ご順にお進みください」
運転士さんがアナウンスするのに合わせ、人波が前扉に進んで行きます。
私、実はこういう時埋もれてしまいがちなもので、苦手だったんですけど……今は背の高い皐槻さんの躰ですから何てことありません。
ステップだって、思い切って降りることもありません。
電停上に降り立つと、ちょうどスクランブル交叉点の横断歩道の信号が青になったところでした。
「どっち行くんだい?」
「ええと、皐槻さんからもらったメモだと……今日はお茶の他、台所周りのものをいくつか買う予定です」
「じゃ、スーパーかな?」
そう言って、電停の南富山寄りにあるスーパーを親指で後ろに指差す高志さん。
確かに、これならそこでも済むでしょうけど……。
「いえ、中央通りのほうに行きます。皐槻さんも私の裁量に任すと言ってましたし、たまにはいいと思いますよ」
そう言って、私は高志さんの腕を引き、
「さあ、早くしないと赤になっちゃいますよ」
少々無理矢理に引っ張ります。
「あ、雪乃、ちょ、ちょっと」
そんなことを言いながらも、しょうがないなあ、という顔つきでついて来てくれる高志さん。
何だか、とっても幸せです。
「……雪乃、中央通りたって広いんだよ?店分かるのかい?」
「あ、それは大丈夫です。皐槻さんと以前一通り回ったことがありますから」
私の耳元で耳打ちする高志さんに、自信たっぷりに答える私。
ちょっと耳がこそばゆいですね。猫さんの耳ってこんなに敏感とは知りませんでした。
「それならいいけど……注意しなよ、今の君の姿は『皐槻ちゃん』だからね。商店街の人たちも皐槻ちゃんは知ってるし、不審に思われたら厄介だから」
「分かってます。なるべく、皐槻さんの真似をするようにしますから」
特にひびきさんの篆刻の先生でもある「小牧書道店」の小牧さんあたりは、鋭そうですしね。
ややあって。
「ありがとうござましたー」
まず第一目標のお茶屋さん「松翠園」は何ごともなくクリアです。
といいますか、私の顔を見るなり店員さんが、
「バタバタ茶ですか?」
そう機転を利かしてくれたので、ぼろを出す暇すらなかったんですが。
「あとはえーと……スプーンやフォーク、フライ返しねえ。どこかこういうの売ってる店あるの?」
「それなら小牧さんのところのお向かいが金物屋さんですから、そこで」
「小牧書道店」のお向かいさんの「金物の白川」は皐槻さんと一緒に何度か来ているので、お店はよく知っています。
個人商店とは思えないほどの品揃えに、皐槻さんが本気で店替えを考えたくらいのお店です。
ですから、そこで買っても別に問題はないでしょう。
北陸銀行の本店を通り過ぎ、「金物の白川」の看板が掛かった店へと入ります。
「へえ……昭和の風景だねぇ」
平台にずらずらと並ぶ鍋ややかん、天井からぶら下がるおたまや泡立て器、平棚に並べられた什器類という光景に、思わずそんな感想を漏らす高志さん。
「確かにそんな感じかも……。私は昭和の頃を知らないので何とも言えませんけど」
そう言いながら、メモに書かれた調理道具や什器類を手に取って行く私。
と、その時、ふと視線を感じた私は、お店の奥の方に眼を向けました。
見れば、ご主人が何やら驚いたような顔で私を見ています。
「あ、あの……」
「……お嬢さん、先日もいらっしゃいましたよね?」
盆の窪に手を当てながら、そう言い出すご主人。
あの時は私も一緒でしたから、特に返答に困ることもありません。
「ええ……でも、それが何か?」
「い、いやあ、大したことじゃないんですがね……あの時は悩みに悩んでうちの品物を品定めしてらしたようなのに、今日は随分威勢よく買いなさるな、と」
(………!)
ご主人の言葉に、私はぐっとつまりました。
忘れていました……確かにあの時、皐槻さんはおたまをいくつも手に取ってなじむかどうか試してみたり、お鍋の持ち具合を確かめたりしていました。
その本人が、品定めもせずにぽんぽん買っていれば、そりゃ驚きもしますよね……。
「い、いえ、今回の買い物は、そんな難しい買い物ではないので」
これは嘘ではありません。頼まれたものはどこで買っても大体同じな小さなものばかりですし、フライ返しだってここには一種類しかないんですから。
しかし、嘘でなくとも苦しい言いわけなのは変わりません。
「じゃ、じゃあこれで」
そう言って無理矢理会話を切ると、お勘定を済ませていそいそと店を出てしまいました。
そして、店から東へ百メートルほど行ったところで、
「はあー……危なかったなぁ」
「同じくです、まだ心臓どきどきいってますよ」
二人揃って大きなため息をついたのは言うまでもありません。
……う、うーん、こんなとこからぼろが出そうになるなんて、反則ですよ。
「すみませんでした、何だか余計な心配させてしまって」
そう謝る私に、高志さんは、
「まあ、あれは想定出来る方が奇跡だからさ……にしても、のどかわいたな」
なだめるように言うと、息をつくようにそう言い出しました。
(あ……!)
これは好機です。というのも、
「それなら、私いいお店を知ってるんですけど、そこでお茶しませんか?」
このことがあったからです。
……せっかく高志さんと二人になったんですから、これぐらいしないと。
「え、時間はいいの?」
「大丈夫ですよ、皐槻さんもそう急ぐ買い物じゃないと言ってましたし」
「それなら、一服して行こうか。どの辺にあるの?」
「ええと、中教院通りなんです」
「中教院通り」というのは、中央通りの東側を縦に走っている商店街のことです。
チョコさんによると、「中教院」というのは明治初期に政府が神道を土台とした新しい国教を作ろうと、全国に設置した神社の一種なのだそうです。
結局この政策は仏教側の反発であっけなく崩壊、以降名前だけが商店街に残ったのだとか。
「お国の押しつけたものの名前が、押しつけられた側の市民の作った繁華街の名前になって残るなんて皮肉だよねー」
とはチョコさんの弁です。
一応中教院自体も残ってはいるそうですが、狭い商店街の中に押し込められて、知らなければ通り過ぎてしまうそうです。
そんなことはともかく……。
「中教院通りね、ならすぐそこか。僕はここまで入らないから、あまりよくは知らないんだけど」
「なら、まかせておいてください。皐槻さんと一緒に、一度通ったことがありますから」
私は喜び勇みつつ、高志さんをエスコートします。
……本当は逆の立場の方がいいですけど、この場合はしょうがないですね。
しばらく進むと、商店街同士が交わっている場所に出ます。
そこを左に曲がって少し先が、私が調べて来たお店です。
ところが、お店の前に来た途端、
「ああ、こんなとこに喫茶店が……?」
高志さんがそう言いかけて、一瞬固まりました。
「……え?何か、まずかったですか?」
「あ、いや……まずくはないよ。この店なら、間違いなくいいコーヒーが飲めるだろうしね」
そう言うと、高志さんはそそくさと店の中に入り、奥の方に席を取ってしまいました。
その様子に不審を感じつつも、私が高志さんの横に座るのを確認して、店員さんが注文を取りに来ます。
とりあえずコーヒーを注文すると、高志さんはお冷やを一口飲み、
「……いやあ、驚いたね。『アルバトロス』の本店とは」
そう言って、ぐるりと周囲を見渡しました。
そういえば思い出しました、高志さんが高校の頃、ここの支店によく通っていたと。
しかし高志さんの様子は、驚いたというよりも、むしろ困惑しているような感じです。
……支店の方を知っているのですから、別に困ることなどありそうもないですけど。
「どうかしたんですか?」
コーヒーが運ばれて来ても、まだ戸惑いの表情を見せる高志さんに、私は思いきって訊いてみました。
「う、うーん……中身が雪乃なのに、こんなこと言うのも何なんだけどさ。皐槻ちゃんと『アルバトロス』の組み合わせって、僕には微妙に苦い思い出があって」
「苦い……?」
「ほ、ほら、あれだよ、2年前の偽デート……」
「あっ」
そういえば、そんなことがありましたっけ。
2年前、雄太さんとささいなことからけんかをした高志さんは、恋人を連れて来なければならなくなってしまいました。
しかしご存知の通り、高志さんに恋人はいません。
そこでしかたなく皐槻さんに恋人を演じてもらい、「アルバトロス」支店で偽デートをすることになったのでした。
その時、本物の恋人かどうかいろいろ試され、最後には嘘がばれて、皐槻さんが泣き出してしまったという……。
「まいったよなあ、あの時は……互いに通常の精神状態じゃなかったとはいえ、泣かせちゃったんだから。皐槻ちゃんはもう気にしていないみたいだけど、ついつい、ね」
「………」
私は、押し黙ってしまいました。
恐らく高志さんは、外見上「皐槻さん」の私を見たがゆえに、そういう思いになってしまったのでしょう。
せっかく二人で話せる時が来たのに、よりによって何でこうなってしまうんでしょうか……。
「あ、ああ、ごめんごめん。さっきも言った通り、中身は雪乃なんだし、過剰に反応する僕が悪いや。気にしないで」
そうフォローはされたものの、あの時のことは私も話で聞いて知ってますから、ついついぎこちなくなってしまいます。
結局高志さんとは無難な世間話をしただけで、すぐに店を出ました。
ああ、もう何で今日はこううまく行かないんでしょう。
……かくなる上は、最終手段です。
「高志さん、よかったら気分転換に、いたち川の川べりを散歩しませんか?」
これです。最後の最後、この高志さんとの「買い物」名目の合法的(?)デートを、一気に本物のデートに持って行くためにとっておいたものです。
「ん……ああ、いいよ。北方向なら、桜橋に出ればそのまま電車で帰れるし」
そう言う高志さんに、
(やった!)
私が心の中で密かに凱歌を上げたのは言うまでもありません。
別にこうしたからってどうなるわけでもありませんが、少なくとも桜橋までは高志さんをひとりじめ出来るわけですし。
いたち川へは、途中大きな道を渡って数分の距離。
東橋から、私たちはゆっくりと川の左岸を歩き始めました。
さっきまでの微妙な気分も吹き飛んで、私は思わずスキップを踏みたい気分になって来ました。
しかし、好事魔多し、とは本当によく言ったもので……。
「あ、あれ?今、ぽつりと来なかったかい?」
「そうですか?……って、わっ、ばらばら落ちて来ました」
ちょっと進んだところで、いきなり驟雨(はしりあめ)が襲って来ました。
こんなの反則です、傘持っていませんよ!
パニクった私は、ともかく雨宿りの場所を探そうと、高志さんと一緒にいたち川を渡ります。
そして、対岸にあった大きな病院のような建物の軒下に身をようやく休めたのです。
「はあー……驚きました」
「いっやー、降るとは思わなかったな」
髪の毛や服の水を払いながら、私たちがそうつぶやいた時です。
「お、おおーい、高志やないけー?」
建物の中から、急に高志さんの名前を呼ぶ声が聞こえて来たのです。


「いやあ、よりによって突然の雨ちゃあ気の毒ちゃ」
「いやいや、それより施設の人に迷惑かけちゃって」
「ええちゃええちゃ、孫さかい、それくらいはいいちゃろ」
そう言って、にこにこと笑うごま塩頭のご老人。
この人こそ琴芝宗市さん――高志さんの、父方のおじいさんです。
あれから……。
突然の呼びかけにあわてて振り返った高志さんに、
「よっ」
気さくに手を挙げてみせる宗市さんに、私は何が何だか分からず固まってしまいました。
高志さんも驚いたらしく、ひさしの上に書かれた建物の名前を見て、
「『老人養護施設・いずみ園』……ここ、おじいちゃんの入ってる老人ホームだ。声かけられたからには、顔くらい見せないと」
困ったように天を仰いでいましたが、ややあって、
「なあ雪乃、悪いけど『皐槻ちゃん』としておじいちゃんに会ってくれるかな」
そう言い出しました。
「え……?」
「実は前、皐槻ちゃんの買い物を手伝った帰りに一緒にお見舞いをしたら、おじいちゃんがいたく皐槻ちゃんを気に入っちゃってね……出来れば、会ってほしいんだよ。あんな元気そうだけど脊椎カリエスの後遺症で苦しんでてさ、父さんたちに迷惑をかけたくないからと自分で入ってはみたものの、やっぱり寂しいみたいで」
脊椎カリエス……確か、脊髄が結核菌によって滅茶苦茶にされる病気だって、テレビで聞いたことがあります。
そういう事情ならしょうがないです、演技に徹しましょう。
「あ、それと雪乃、『満鉄』って分かるか?」
「は、はい?え、えーと……戦前に、日本が中国大陸でやってた鉄道会社、南満洲鉄道……ですよね」
え?何でここでそれが出るんですか?
鳩が豆鉄砲食らったような顔になっている私に、高志さんは、
「ま、それだけ知ってれば何とかなるか……とりあえず、あまりぐずぐずしてると変だから入ろう」
そう言って、私と一緒に施設の中に入ったのでした。
そして、今こうして雨で濡れた頭を二人して施設の人から借りたタオルでぬぐい、電動車いすの宗市さんと対面しているわけです。
「おじいちゃん、腰は最近どうなの?」
「なあん、まあつかえん(大丈夫)ちゃ。よくもなし、悪くもなし。脊椎の骨抜いて移植しとるさかい、下半身麻痺が少ない分だけ感謝せにゃあかんちゃ」
柔らかな富山弁でそう言うと、宗市さんはにこっ、と笑い、
「まあ、そいでも他っところが一つもじゃまない(大丈夫)ちゃ。この腰さえ我慢すりゃ、気楽なもんちゃあ」
ちらり、と入居者の方が集まっている談話室に眼を向けます。
「あの、あの人たちは……?」
その人たちに向ける視線が、一瞥にしては少々熱のこもった感じだったので、私はつい訊いてしまいました。
「ああ……ありゃ、わしの元同僚連中がいちゃ」
「同僚ですか?会社か何かの?」
「う、うーむ、会社と言えば会社がやけど……満鉄出身で戦後国鉄に入った、鉄道マン連中がいちゃ」
「え、鉄道マン!?」
「そうですちゃ、わしゃ日中戦争が始まってすぐの頃に満鉄に入って、戦後引き揚げてから国鉄の職員になったんですちゃ」
宗市さんの言葉に、私はようやくさっきの高志さんの不可解な質問のわけが分かりました。
なるほど、満鉄の元社員さんなら、話にそっちの話題が混じる可能性は充分にありますよね……。
しかし、次の瞬間、
「しかしこん話、こないだ皐槻さんが初めて来た時にした覚えがあるんちゃが……わしの思い違いやったけ」
そう言って首をかしげる宗市さんに、
(………!)
私は思わず身を固くしました。
そりゃそうですよね、自己紹介みたいなものですから、してなければおかしいはずです。
冷や汗が背中を伝うのを感じる私。
高志さんも冷静を装ってますが、気が気じゃないとばかりの様子で、
(雪乃、変に自分で言いわけしても逆におかしいから、僕が何とかフォローするよ)
私に耳打ちして来ました。
「ま、まあ皐槻ちゃんもこないだは急に来たから……。それより、父さんたちからは何か連絡はない?」
「ああ、宗和のやつなら、こないだ電話して来たちゃ。ひとせ(しばらく)戻れそうにないいう話ちゃな、大変なこっちゃ」
……どうやら、うまく話題がそれてくれたようです。
「しっかし、まさか大連とは……わしも満鉄じゃ配属は大連埠頭局(満鉄にあった鉄道管理局の一つ)だったさかい、親子二代で満洲住まい経験すっことになったんちゃな」
「確かにそうだよねぇ、僕は唄くらいしか聞かないけど」
「そうけ!はあ……こりゃ三代にわたって伝染したけ」
かんらかんらと笑う宗市さんに、盆の窪に手をやって困ったような笑みを浮かべる高志さん。
……困りました、入り込めないです。
これが本当に初めて会ったということになっているのなら何とかなるんでしょうが、今の私は外見上「皐槻さん」なので、中身の私が初めてでも会うのは二回目の扱いになってしまいます。
しかも見たところ、しっかりとした方のようですし……ごまかしがききません。
それを思うと、うかつに口が出せず、話を投げられても当たり障りのない受け答えだけになってしまうのです。
いくら偶然のこととはいえ、これじゃ息が詰まります。
せっかく高志さんの血縁者でご両親以外の方にお会いすることが出来たのに、やってるのは皐槻さんの真似。
(私、一体何してるんでしょう……)
そんな虚しい気持ちに段々私がとらわれ始めた時でした。
急に宗市さんが、
「そういや、皐槻さんと高志は、どこまで進んどるけ?」
とんでもないことを訊ねて来ました。
「ぶっ……お、おじいちゃん、それはこないだ話したじゃないか、何にもないって」
高志さんにとっても想定外の質問だったらしく、お茶を吹きそうになりながらあわてて答えます。
「何もないて、お前がうぶなのは知っとるが、ねんね(子供)じゃないんちゃ、少しは仲が進展してもよかろ」
「勘違いしないでよ、単に一つ屋根の下ってだけなんだから」
「何ちゃ、はがやしい(歯がゆい)こっちゃ……皐槻さん、もっとモーションかけたらんとかっさらわれるちゃ、この朴念仁は」
「おじいちゃん、からかわないでよ……ほんとに何にもないんだから」
その会話に、私はさっきから遠く感じていた高志さんと宗市さんからの距離が、もっと遠くなったように感じました。
(宗市さんは、高志さんと皐槻さんがつき合ってるって思ってるんですね……)
このことです。
もちろん、孫をからかうために戯れに言ってる可能性もありますが、そういう戯れが頭に浮かぶこと自体が、高志さんと皐槻さんが「恋人」でも違和感なく見えたことを示しています。
……果たして、もし元に戻った後に私が一緒に会いに行ったら、そう言ってくださるでしょうか。
そう思って、思わず私が眼を伏せた時でした。
「おーい、会長!ちょっと社歌歌うさかい、参加してくれちゃー!」
後ろの元社員の方々から、声がかかりました。
「えっ、『会長』って……何の会ですか?」
「この『いずみ園』の満鉄OBで作っとる、『いずみ園満鉄OB会』がいちゃ。これも話したと思うんがやけど……」
頭をひねりつつも、電動車いすを操作しながらみなさんのところに向かいます。
「どないしたちゃ、急に社歌なんて」
「なあん、この学生さん、老人ホームの研究をされてるらしいちゃ。うちの会の話を聞いてここへ来られたらしいちゃけど、せっかくじゃから聞かせたろと思ったちゃ」
見れば、どこかの大学生とおぼしき人が立ち上がり、宗市さんにぺこり、とおじぎをしています。
「ま、この部屋なら多少歌うてもじゃまないちゃ、よかろ」
宗市さんがそう言うと、宗市さんに呼びかけたご老人が立ち上がり、
「よっしゃ!……満鉄社歌ーッ、斉ッ、唱ーッ!!」
応援団のように大きな声で指揮を取り始めます。
直後、スピーカーからオーケストラとおぼしき音楽が流れ、すぐに唄に入りました。

 東より 光は来たる
 光を乗せて 東亜の土に
 使いす 我ら

 我らが使命 見よ 北斗の星の
 しるきがごとく 輝くを

 曠野(ひろの) 曠野
 万里続ける 曠野に

みなさん八十過ぎとは思えない、朗々たる唄声。
「二題目(二番)ーッ!」
そうしている間にも、社歌は続きます。
「黎明ーをー、破りーて鐘はー……」
……えっ?た、高志さん……歌えるんですか!?
あわてて私も追随しようとしますが、節も歌詞も分からないのでどうにもなりません。
そのうちに、社歌は後奏とともに終わってしまいました。
「ありがとうございました、いやあ……みなさん堂々たるもので、驚きました」
「いやいや、そんなこたないがいちゃ。東海林太郎(戦前の流行歌手、元満鉄社員)が歌った方がよっぽどうまいがいちゃ」
学生に感謝されつつ、謙遜する宗市さん。
「まあ、わしらも『満鉄魂』……ちょいと説明は難しいがやけど、自分の使命を全うし、困難に対してはみんなで団結して全力を尽くすちゅう、そういう心だけは持っておりますがいちゃに。会社自体が向いた方向はちょいと、いやかなり間違ったとは思うがいちゃけど、わしらは今も元満鉄社員としての誇りを持って暮らしとりますちゃ」
そう言いながら、指揮を取っていた方の方を向くと、
「松橋(まつばせ)さん、すまんがやけど、わしは孫が来ちょるがいちゃに、お先に失礼しますちゃ」
こちらに車いすをゆっくりと走らせます。
「しっかし、相変わらず松橋さんは大声だねぇ」
「あいつはすごいちゃ、下手な機関車の汽笛なんぞ勝てやせんちゃ。あいつを負かしたのはパシナ(特急「あじあ」の牽引機)くらいのもんちゃ」
「あはは、パシナとはねえ」
何気なく、交わされる高志さんと宗市さんの会話。
一方、先ほどから私の中に起こった孤立感は深まるばかりです。
先ほど、満鉄OB会のみなさんの団結ぶりを、この眼にしてしまったからでしょうか。
何のために、私はここにいるんでしょう。
何で皐槻さんの真似までして、高志さんにしがみついているんでしょう。
そんな私の心を知るよしもなく、宗市さんが、
「おい、もう2時ちゃ。じゃまないけ?」
腕時計を見ながら言い出しました。
「あっ、さすがにまずいな……ごめんね、皐槻ちゃん、時間と手間を取らせてしまって」
「いえ、そんな」
高志さんの声にも、私はただ簡単な言葉を返すことしか出来ません。
「じゃ、また気が向いたら来られ(来てくれ)」
そう言って、私たちを施設の入口まで送りに来てくれる宗市さん。
と、その時、宗市さんが何か気づいたように首を上げると、
「皐槻さん、ちょいと耳を……」
そう言って、私に手招きをしたのです。
その言葉通りに耳を近づけた時でした。
「慣れないことはやめられ……人間、そう他人になぞなりきれるもんじゃないですちゃ。次来られる時は、元の躰で来られ」
宗市さんの口から、予想だにしなかった言葉が飛び出したものです。
(この人……まさか私が精神交換を起こしていると知って!?)
あっけにとられて立ち尽くす私をよそに、宗市さんは会釈をすると、静かに建物の中へ戻って行ってしまいました。
「雪乃……おじいちゃん、何言ってたんだい?」
さすがに不審に思ったのでしょう、そう訊ねる高志さんに、私はありのままを伝えました。
「そ、そんな馬鹿な……精神交換なんて、眼の前で見せつけられでもしなきゃ発想すら出来ないはずだよ!?」
眼をむいて驚く高志さん。
「で、ですよね……でも確かに、『元の躰に』とおっしゃったんです」
「そんな……おじいちゃん、確かに昔から鋭かったけど、これはいくら何でも……」
理解不能な事態に、高志さんはついに頭を抱えてしまいました。
「ああ、いや、考えていてもしかたないや……とりあえず、桜橋まで歩くかい?」
その高志さんの問いかけに、私はひとつかぶりを振ると、
「いえ、いいです……それより、用事を思い出したので私はこれで……」
そう言って歩き出し、二三歩歩きます。
しかし次の瞬間、何か衝き動かされるような気持ちにとらわれた私は、そこから一気に走り出してしまったのです。
「ちょ、おいっ……雪乃ーッ!!」
あわてふためいた高志さんの声が、私の背中越しに虚しく響くのが、やけに遠く聞こえました。


ざああっ……。
いたち川の水音が響く中、私はひたすらに川べりを走り続けます。
(馬鹿!馬鹿!私の馬鹿!!)
自分に悪態をつきながら走る私。
もう、いくつ橋を越えたかも分かりません。それほどまでに、私は追いつめられた気分でした。
(私、皐槻さんの躰であることを利用して、それで高志さんを……)
このことです。
自分の躰では手に入らない、「言葉」を手に入れた喜び。
その喜びからつい調子に乗り、高志さんをひとりじめしようとしました。
それ自体は、別に責められることではないかも知れません。
でも、私はどこかで、
(最近高志さんと特に仲のいい皐槻さんの姿なら、絶対にうまく行く)
そう期待していた節があります。
……冷静になればとんでもない考えです。そんなことをしたって、高志さんが私を好きになるわけないのに。
それどころか、皐槻さんをだしにしたと嫌われてしまいます。
「アルバトロス」での一件も、「いずみ園」でのことも、全部そんな私の甘い考えから起こったことだったのでしょう。
それが宗市さんの一言で間接的に暴かれた瞬間、私はいたたまれなくなってしまったのです。
そんな私をあざ笑うように、再び驟雨が降りしきって来ました。
こんなにみじめなことってあるでしょうか……。
ばしゃばしゃとやけになりながら道に出来た水たまりをはね、木町の浜(藩政時代の荷揚場)の常夜燈が見えて来た時です。
「きゃ……ッ!!」
舗装道からいきなり草地に足を踏み込んだ私は、ぬかるみに足を取られ、そのまま転んでしまったのです。
「う、ううう……」
そのまま立ち上がることもなく、膝を突いたまま泣き出す私。
服も何もみな水で濡れ、泥はねも相当なものですが、気にしちゃいられません。
ただもう、みじめで、みじめで……このまま、人魚姫のように泡になってしまいたい気分でした。
その時です。
私の手を、握る人がありました。
いきなり走った人の温もりに、はっとして見上げた先にいたのは、
「あうっ!(雪乃さん!)」
「私」の姿をした、皐槻さんでした。
「さ、皐槻さん……ど、どうして」
いるはずのない人の登場に、私が硬直していると、
「皐槻ちゃーん!!雪乃は……あ、いたッ!!」
雨に濡れながら高志さんが猛然とこちらへ走って来ました。
「よ、よかった……いきなり走り出すから、どこへ行ったのかと」
息を切らしながらそう言う高志さん。
そして、まだもぽかん、としている私に説明が必要と感じたのか、
「あれからすぐに追ったんだけど、とんでもない勢いで走って行くから月見橋の袂で見失ってしまって……そしたら、僕らを探して迷っていた皐槻ちゃんと出会ったんだ」
「そ、そんな」
「あうあう、あうあうあうあーうあうっ(そうなんです、どうしても心配になってしまって)」
何て偶然なんでしょうか……。
見れば二人とも、雨と泥でひどい状態。きっとあの雨の中、私を必死で探してくれたに違いありません。
でも私は、そんな二人と眼を合わせることが出来ませんでした。
言葉のしゃべれない、背丈も頭一つ違う躰になっていながら、私を案じてくれた皐槻さん。
その人を、私は踏み台にしようとしたんです。どんな面をしろというのですか。
その時でした。
「あう……あうあうあ、あうあうあうあう(雪乃さん……私のことなら、別にいいんですよ)」
皐槻さんが、私の手を握る手を強めて、優しくそう言いました。
「『私のことなら別にいい』って……!!皐槻さん、私が何をしようとしたのか分かってるんですか!?」
そう言って涙をぬぐおうともせず見上げる私に、皐槻さんは、
「あうあうあう。……あうあうあうあーうっ、あうあうああうあう(分かっています。……高志さんからの話で、おおよそ見当がついたので)」
「高志さんの話で見当が、って……!?」
その言葉に思わず高志さんの方を振り向く私。
「ああ。雪乃、今日は随分浮かれていたし、いつもよりも積極的だったからさ……特に、僕としゃべりたくてしょうがないって、顔に出ていたし」
「あう、あうあうあーうあうあうああうあうあうあうあう、ああうあーう(だから、もしかすると私の躰になれてうれしかったんじゃないかな、と思ったんです)」
「そんな……」
私の気持ちが完全に見抜かれていたことに、私は少なからず驚きました。
でもそれを「別にいい」と言われても、私は赦されたわけじゃありません。きっちりと、自分の本当の罪を告げなければ。
「皐槻さん……そこまで分かっていたんですか。でも、それだけじゃないんです。私は皐槻さんの姿になったことを……」
そう言いさした時です。
「あうっ、あうあうあうっ(雪乃さん、それ以上はなしです)」
有無を言わせぬ皐槻さんの言葉によって、その告白は遮られました。
「な、なしって……」
「あう、あうあうあうあーうあうあうあうあうあうあうああうあう。あうあうあうああうあう、あうあうあうあう(人間、精神状態が変わった時に魔がさすのはよくあることです。雪乃さんのはそれだった、それでいいじゃないですか)」
「そんな……私を、赦すと?」
「あうああうあうあ、あうあうあうあうあーうあうあうあ(赦すも赦さないも、そもそも罪自体がないんですから)」
そう言って、再び私の手を強く握る皐槻さん。
「そうだよ、雪乃……むしろそれに関しては、僕の方が謝らないといけない」
「えっ……」
「雪乃、僕と直接話が出来るようになれて、さらに二人になれる機会まで得て、とってもうれしかったんだろ。なら僕の方もそれに乗らなきゃいけないのに、皐槻ちゃんの姿だからってことを意識しすぎて、結果的に傷つけてしまった。『いずみ園』でのこともしょうがないとはいえ、結果的に僕とおじいちゃんたちだけの世界を作って孤立させちゃったんだから……よっぽどそっちの方が問題だよ」
そして言うなり、高志さんは私の眼の前に座り込むと、
「ごめん、雪乃。この通りだ」
そう言って土下座したのです。
「そ、そんなことしないでください、高志さん」
「……赦してくれるのか?」
「そんな、気にしていないと言ったら嘘になりますけど、そこまで謝ってもらうほどのことでは……」
おたおたとしながらも、とりあえず土に膝をつけた高志さんを起こし上げます。
「あうあ、あうあうあうあうあうあうあう(どうやら、来た甲斐があったようですね)」
感慨深げにそうつぶやきつつ、筆談用紙を高志さんに見せる皐槻さん。
「ああ、その通りだよ……君にしかられてなけりゃ、僕も気づけないところだった」
「えっ……」
「雪乃を探していた時、今日のことを話したら、筆談用紙越しにしかられたんだ。『女心をもっと分かってあげてください』とまで言われちゃって……一言もなかったよ」
そう言ってばつが悪そうに眼を伏せる高志さん。
「あうあうあーう、あうあうああうあうあうあう。あうあうあうーうああうあう、あうあうあうあうあうあーう(今回のことは、誰が悪いんでもありません。普通の状態でなかったために起こったちょっとしたすれ違い、それでいいじゃないですか)」
「………」
その言葉に、私は凝(じっ)と皐槻さんを見つめました。
ぴょん、と2本の毛が立つ薄い栗毛の頭に、琥珀色の眼をした幼い少女。
私――「加積雪乃」という少女の姿を、私は今初めて第三者の視点ではっきり見ました。
どうしてしゃべれないくらいで、この躰を拒絶するような真似をしたんだろう。
こんななでたくなるようなかわいらしい姿――それこそ、皐槻さんには遺伝子を根本から変えなければ無理な姿――をしていながら、何で別の躰をうらやんだんだろう。
そう思った時、私は思わず「私」の皐槻さんと、高志さんを抱きしめ、
「ありがとうございます……皐槻さん、高志さん……」
そう、涙ながらに感謝の言葉を述べていました。
「あうあうあうああうあうあう、あう(雨降って地固まる、ですね)」
その皐槻さんの言葉が、耳に優しく響きました。




それから1時間ほど後。
日も傾きかけた神通川の河原に、私たちの姿がありました。
さっき雨と泥でやられたのもものともせず、がさごそと河原の雑草をかき分ける私たち。
はたから見れば奇妙な光景でしょうが、私たちにとってはやらねばならないことなのです。
あれから、私が落ち着いたのを見た皐槻さんは、実は自分が来たのはもう一つ、伝えたいことがあったからだ、と言い出しました。
「えっ、じゃあ、あと1つだけなのかい、見つかってない草は」
「あう(そうです)」
何でもその草は、日本に自生していることは確かなものの、北陸地方にあるかは微妙なものなのだといいます。
ところが、チョコさんの協力を得て松川やいたち川、神通川べりの犬たちの話を聞いたところ、神通川の河原で見かけたことがあるという証言が得られたのです。
その子は具体的な場所まで覚えていて、護国神社の裏、松川と神通川が一番接近する辺りだと証言しました。
何でそんなに詳しく覚えていたのかというと……。
「え、草自体から変わったにおいがするんですか!?」
このことです。
何でもとても奇妙なにおいで、人間にはジャスミンに似た爽やかな香りと感じるのに、動物にはいわゆる「シモ」のにおいに感じるんだそうです。
「うーん、そりゃスカトールって物質の量の問題じゃないかな。スカトールはいわゆる『シモ』のにおい成分なんだけど、薄い場合はジャスミンみたいな香りになるんでね。そのぎりぎりの境界に位置すると考えれば分かる。人間と動物じゃ感受性が違うから、同じにおいなのにそんな両極端になるんだろう」
「ス、スカトール……すごい名前の物質ですね」
「感心してる場合じゃないよ。もしかして、それ探してる最中かい?」
「あうあう。あう、あうあうああうあう(そうなんです。今、総がかりでして)」
そちらはチョコさんが鼻係になって探しているそうですが、いかんせん捜索範囲が広いため、なかなかはかどっていないのだそうです。
それを訊いた私の決断は早いものでした。
「皐槻さん、高志さん、私たちも探しに出かけましょう。鼻係は、私がやります」
「え、雪乃、大丈夫かい?」
「要はその、便所臭い草をさがせばいいんですよね?それなら、猫の鼻で何とかなりませんか」
そう言って皐槻さんの方を向くと、
「あうあうあうああうあうあうあう、あうあうあうあうあああうあうあうあう(猫の鼻は犬より鈍いですが、この場合は臭いが極端なので大丈夫でしょう)」
しっかりとした答えが返って来ます。
「じゃあ、今すぐに行きましょう。早く見つけて、この状態を何とかしないと」
その結果、桜橋電停から大学前行の電車に乗り込んで安野屋で乗り捨て、大急ぎで証言のあった場所に駆けつけたのです。
ひびきさんやチョコさんたちはまた別の場所を探しているらしく、私たちだけの単独行動になりました。
しかし、やはりなかなか簡単に見つかるものではありません。
「シモ」の臭いなんてすぐ分かるだろうと思いましたが、いろんな草のにおいが立ちこめていてなかなか弁別が出来ません。
しかも雨が降った後なので、湿気が充満して鼻がなかなか利かないと来ています。
でもやらなきゃいけないんです、今鼻係をしているのは私なんですから……!
「くそ、軍手くらい買って来ればよかったな」
手を泥だらけにして草をかき分けながら、土手の草をつぶさに見る高志さん。
「あう、あううあうう……(うう、届きません……)」
道のない土手の斜面で、自分よりも高いところに生えた草にたどり着こうとと苦しむ皐槻さん。
早く見つけないと、陽が落ちる前に私たちがダウンしてしまいます。
(絶対に、見つけてやる……!)
私が自分の躰に戻るためにも、そして皐槻さんが戻るためにも必要な草。
もはや、これは単なる薬草探しじゃありません。
私が私であることを取り戻すための、闘いです。
――自分の使命を全うし、困難には団結して立ち向かう。
八十過ぎの宗市さんが、まるで当然のように語っていたことを、私たちが出来ないわけがありません。
(きっと、どこかにある!)
その時でした。
「………!!?」
私の鼻が、異様な臭気をとらえました。
思わず吐き気をもよおし、ぐっ、とつばを飲み込む私。
「雪乃!?どうしたんだい!?」
その様子に気づいたのでしょう、高志さんがすっ飛んで来ました。
鼻がねじ曲がりそうな臭気に飲まれそうになりながら、私は、
「今、きついにおいが……。恐らく、今度こそ本命だと思います」
ようやくそれだけ言いました。
「そりゃ本当かい?」
「多分、ですが。『シモ』と、におい方が違うんですよ」
「シモ」は醗酵したにおいがしますが、今のはそういうことはなく純粋に「臭い」のです。
「うーん、ただ草が香ってるだけにしか思えないけども。とりあえず、どの辺?」
そう言う高志さんに、私は松川と神通川を結ぶ大きな水門に設けられた柵の辺りを指差します。
「向こうは水門か、一応柵はあるけど、注意するに越したことはないな」
そう言いつつ、中腰になって草をていねいに見ながら進む高志さん。
「うっ……きついです」
徐々に近づいて来る臭気に顔をしかめながらも、私も続きます。
そして柵のそばまで来た瞬間。
「………!!」
臭気の源が、眼の前に現れました。
「皐槻さん、この草でいいんですか!?」
私が訊ねるのに、皐槻さんは写真を取り出してつぶさに眺め、こくりとうなずきます。
「よし、ではこれを……!」
そう言って、草を握った瞬間。
「また見つけた!」
聞き慣れた声とともに、同時に誰かの手が同じ草を握っていました。
驚いて顔を上げると、果たしてチョコさんです。
「サ……じゃないユキノ!?どうしてここに!?」
「皐槻さんから、この草のことを聞いて……自分だけのうのうとしていられなくて探しに来たんです」
その言葉とともに、私はチョコさんの手を押さえます。
「じゃあ、抜きますよ……根は、完全に抜いた方がいいですか?」
「なるべく完全に。根っこも少し使うから。じゃあ、いっせーのーせっ!!」
チョコさんのかけ声とともに、草がずぼり、と抜けます。
そこに、ひびきさんと魔女さん、ほのかさんも合流して来ました。
「……雪乃さま!」
「それよりも、この草でいいんですよね?」
驚くひびきさんをとりあえずにしておいて、再確認する私。
「は、はい……今引き抜いた草で、560グラム。これだけあれば、2人分の薬は充分に出来ます」
土を取り除いて手早く古風なばねばかりで秤量し、そう告げるひびきさん。
「あ、じゃあ、これで……終わりだったんですね」
その言葉を聞いた途端、私はへなへなとその場に座り込みました。
「それより、三人ともひどいありさまね……何かあったの?」
私たちの泥だらけの姿に気づいたのでしょう、ほのかさんが訊ねて来ました。
「あ、その……」
何と説明したものか、困って顔を見合わせる私たち。
と、そこに、
「あら、そういう話は立ち話でするものじゃないわよ」
魔女さんが助け船を出してくれました。
「まあとりあえず……何があったかは、今は訊かないわ」
そしてひとつ服をはたくと、私たちの方に向き直り、
「でもあなたたち、今とってもいい顔してるわよ」
にっこりと笑いながらそう言ったのでした。
「魔女さん……」
感極まって私が泣き出しそうになるのを遮るように、魔女さんは、
「さ、じゃあ帰りましょ。……ひびき、今日の薬研は、私がとるわ」
ひときわ元気な声で言って歩き出します。
「ついでに、みんなにも少しずつ手伝ってもらうけど、いいかしら?」
「はい!」
みんなの声が重なったのを聞いて、
「……やっぱり、あなたたちはそうじゃなきゃね」
満足げに笑う魔女さん。
神通川の水面を赤く染めながら、夕陽が遠く呉羽山に落ちて行きます。


翌日の朝。
寝ぼけ眼をこすりつつ、厨房に現れた僕に、
「あ、おはようございます。もうすぐ出来ますから」
皐槻ちゃんがいつも通り甲斐甲斐しく呼びかけて来る。
「あうー……」
そこに、とことこと雪乃が入って来る。
「眠気、残ってしまったみたいですね……」
「まあ、すぐに取れるっていうから大丈夫じゃないかな」
そう、僕たちに、いつもの日常生活が戻って来たのだ。
河川敷から撤収し、自宅に戻った僕らは、一家総出で例の薬の調合に取りかかった。
宣言通り、薬研を挽くのはおねーさん。
こんなかっこいいおねーさん、随分久しぶりに見たというくらいに気合が入っていた。
そこに既に生薬としてあった薬草をひびきさんが適量を秤量し、手術の道具出しよろしく手早く渡して行く。
僕らは厨房の鍋や庖丁で生のままの草を煮たり、切ったりの作業だ。
時々、伝令として雪乃が飛んで行き、処方の方法を伝える。
1時間半後、おねーさんの薬研の生薬類と僕らがボウルに上げた草が、乳鉢で混ぜ合わされ直径5ミリほどの丸薬となった。
おねーさん曰く、
「ただ飲むだけじゃ効果ないからね。皐槻と雪乃、互いに頭をくっつけて寝た上で飲んでね」
とのことで、取りあえずくっついていればいいということで、皐槻ちゃんと雪乃の頭頂部を合わせた形にしてから薬を飲ませる。
そうして小一時間後、時間に比して長く感じるほどの眠りを経て、二人はようやく元通りになった。
へとへとになりながらも、ようやく元に戻ったことに、僕らが深い安堵を覚えたのは言うまでもない。
特に「元の躰に戻りたい」という熱意を持っていた雪乃は、元に戻れたのを確認するや、
「あ、あうあうーっ!」
涙を流しながら皐槻ちゃんにひしと抱きついたほどだ。
「でも、本当によかったよねぇ、戻れて。一時はどうなることかと、気が気じゃなかったからね」
「ご迷惑をおかけしました」
「あうっ、あうあう」
「いいよいいよ、雪乃までそんな頭下げなくても」
そう言って僕が座る頃になって、おねーさんがひょいと顔を出した。
「おはよー……あら、珍しく少ないわね」
「いや、そりゃあの騒ぎだったしね」
「ま、それもそうか。ひびきも、珍しく眠りこけちゃってるし」
そんな話を、おねーさんとしていた時。
「あうっ」
雪乃が、ぽすりと皐槻ちゃんの腰辺りに手をやると、
「あう、あうあうっ」
何かを決意したように彼女の顔を正視して語る。
それを聞くと、皐槻ちゃんは、
「『私、負けませんからね』ですか。……その挑戦、是非とも受けて立ちましょう」
莞爾(かんじ)たる笑みを浮かべて、穏やかにそう言った。
言葉の割に雰囲気が優しいのを見て、
「ん……何の挑戦だろうなぁ」
僕が不思議にとらわれつつ言うと、おねーさんが、
「はあ……肝腎なとこはこれなんだから、この朴念仁。顔でも洗って来るわ」
あきれたように肩をすくめつつ、洗面所へ出て行った。
頭の上に疑問符を浮かべる僕の肩越しに、すっかり暖かくなった春の陽差しが差し込んでいる。

<つづく>
(平22・3・7)
[平22・3・12/補訂]

[あとがき]
 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 「とやまはっぴ〜だいあり〜」第7話「驟雨」、いかがだったでしょうか。
 今回は、前回に引き続き短めの作品となりました。もうお気づきとは思いますが、このシリーズは第2話からそれぞれのヒロインをメインにすえた話を続けていますが、今回雪乃がメインとなったことにより、これで一通り一巡したことになります。「おねーさんはヒロインか?」と言われそうですが、一応コンシューマ版でシナリオ持ちでしたし。
 それにしても、やっぱりシリアスになったり、趣味に走ったりするのは避けられない部分がありますねぇ、私のSSは……。第4話で猛烈なシリアスをやり、第5話で猛烈な趣味走りをやって以来、何とかしようとはして来たのですが。そんな私にかかると、どうやら「精神交換」というSSの世界ではごくありふれたモティーフの作品までもが、こんな風に雪乃の成長話・努力話のようになってしまうようです。どうしても人物が成長する話、努力する話が好きなもので、今回の雪乃にも結構苦労させてしまいました。雪乃ファンのみなさま、どうも申しわけありません。
 でも喃語しかしゃべれない雪乃が、もし事故であっても言葉を手に入れたらどうするか、そのことに対しては興味が随分あったんですよね。だって「高志と話がしたいから」が人間化の最大の理由だった娘だったわけで……いくらあんな天真爛漫な性格でも、欲求不満はあったんじゃないかと思うんですよ。それがヒントになって、この話が生まれました。
 しかし、今回の高志はちょっと女泣かせな感じになってしまいまして……。彼って私としては女性関係に鈍いいわゆる朴念仁で、無神経なタイプではないというイメージなんですがね。まあ普通の状況じゃないですし、このSSでは皐槻ちゃんとの接近が著しいという設定なので、変に意識して余計におかしくなってもしかたないかとは思います。
 あと高志の祖父・宗市さんのところで満鉄の話が出て来てますが、これは単に私が鉄道趣味的に好きなだけで、別に他意はないことを申し添えておきます。
 なお文中、「スカトール」という何ともアレな名前の化学物質が出て来ましたが、それについてはこちら(Wikipedia)をご参照ください。
 それでは、また8話目でお会いいたしましょう。
[追伸]
 連載開始から4年(休んでいる期間の方が多かったですが)、前回からは早や半年以上が経過してしまい、いろいろ本作で舞台に擬している富山を取り巻く状況も変わってきました。
 まず、作中でもたびたび登場する富山地方鉄道富山軌道線ですが、昨年より西町電停と丸の内電停の間を結んで環状化する工事が進み、平成21年12月23日に無事開通と相なりました。本作の舞台は平成16年なので残念ながら作中で取り上げることは出来ませんが、この場を借りまして遅ればせながらお祝いを申し上げます。
 あと、残念なことにこのたびの春のダイヤ改正より、東京と富山・金沢を結ぶ寝台特急「北陸」が廃止となり、急行「能登」も臨時に格下げされることになりました。「能登」号は私が初めて来富した時から常連として来た思い出深い列車であり、それに常連客がついていることから安泰だろうと思っていたこともあって、今回の臨時格下げは寝耳に水、到底承伏しかねるものがあります(一部では東日本の労働組合がかんでいるのではないかという噂もあります)。しかしもはやどうになるものでもありません。せめて最後まで、無事にその役目を全うすることだけを祈るものです。

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