115系概要


 まず本題に入る前に、115系電車とはどんな車輛なのか、というところから話す必要があるでしょう。そしてそのためには、彼らが生まれた昭和30年代後半の電車について語らねばなりません。この昭和30年代という時代は、実は国鉄の電車にとって大きな転機の訪れた時代でした。当時の国鉄の電車は全て旧性能の釣り掛け駆動でしたが、私鉄では新性能のカルダン駆動の電車を製造する会社も出て来るようになって来ていました。そこで、国鉄もこれに負けじと開発にとりかかり、昭和32年に国鉄初となる新性能電車・90形(後の101系)を製造したのです。音が静かでしかも速い、ということでこの101系が大変な好評を博したことから、国鉄はそれから矢継ぎ早に新性能電車の新製に取りかかります。昭和33年には国鉄初の特急形電車・151系を新製、東京〜大阪間の特急「こだま」に用いて人々の度肝を抜いてみせました。そして昭和35年には国鉄初の新性能急行形電車・153系と国鉄初の新性能近郊形電車・401系と421系が登場というように、この時期に現在の「通勤形電車」「近郊型電車」「急行形電車」「特急形電車」へとつながる車輛の原点がほぼ全て出揃ったのです。

 115系が生まれたのも、そのような流れの中ででした。この車輛のプロトタイプに当たるのは、昭和35年に登場した401系・421系という近郊形交直流電車で、常磐線と鹿児島線の電化に伴い登場しました。115系を含む国鉄型中距離電車の基本的スタイルである「両開き3扉・セミクロスシート」というスタイルはこの時確立されます。この車輛が、片開き2扉で通勤客をさばききれていなかった客車と比べて驚異的な収容力を示したことから、国鉄では同じく片開き2ドアの客車や元祖「湘南電車」・80系の天下であった東海道線にこれを導入することとし、昭和37年に401系を直流電車化した111系を新製し、翌年にそれに抑速ブレーキ(急勾配などで、スピードが出すぎないように軽くブレーキをかける装置)を導入した115系を東北・高崎線に導入、さらに翌年111系の後継車輛として113系が導入されたのでした。
 ここで、「あれ?」と思われた方もいることでしょう。そう、115系が番号の若い113系より先に登場しているのです。実際のところ115系は113系とほとんど変わりがなく、違いと言えば寒冷地対応であることと抑速ブレーキがついていることくらいのものです。そのため、「115系は113系をマイナーチェンジして造ったもの」という認識が一般的にあるのですが、車輛の機構の点では全くの間違いではないものの、時系列で見れば両者は全く別々に登場しており、それは誤りなのです。なぜ当時の国鉄がわざわざ「113」を飛ばして「115」を先につけてしまったのかはよく分かりませんが、とにかくも115系は113系の「弟」ではなく「兄」だったわけです。

 こうして、国鉄の近代化の流れの中で生まれた115系は、最初に投入された東北・高崎線と東海道本線で天下を取っていた80系を駆逐した後、郊外の方へと進出して行きます。115系は新潟方面や長野方面、そして急勾配の「セノハチ」を抱える山陽本線やその支線区へ進出し、仲間を日本中に増やして行ったのでした。しかもただ両数を増やしたばかりでなく、その進出先でさまざまな改造を受けたため、外見からして千差万別で、非常に興味の絶えない車輛でもあります。

 その走行線区は一時、東は東北本線から西は山陽本線までと東西の直流電化地域を総なめにする勢いでした。しかし東日本では発祥の地である東北・高崎線筋から平成16年10月15日に撤退したのを皮切りに撤退が相次いでおり、現在では中央本線など甲府・松本・長野周辺、上越線など高崎周辺、信越線など新潟周辺が残るのみとなっていますし、東海では全撤退の状態となりました。今もほとんど変わらぬまま運用されているのは西日本くらいのものでしょうか(リニューアルされたり切妻運転台の車輛が出来たりとそれなりに忙しいようですが)。このページでは「東北本線の115系」ということであくまでも過去の話を扱う予定ですが、現在生き残っている僚車にも末永く活躍してもらいたいものです。


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