沿革(その1)


《沿革》

 富山市内の交通を担って立つ富山軌道線は、少し変わった沿革をたどったことで知られています。
 実はこの路線、目立たない路線ですが北陸の路面電車の中でも割合古株で、富山電気軌道の手によって、大正2年9月1日に現在の路線の東側にあたる富山駅前〜小泉町(現在の堀川小泉)間が本線、そして富山駅前〜西町〜総曲輪〜富山駅前間が支線として開業したのが始まりでした。この年富山で開催された「共進会」と呼ばれる産業博覧会に便乗しての開業で、本線が小泉町までなのもこの共進会の会場が小泉町にあったためです。
 むろんこの開業のねらいは共進会のみならず、富山市の市内交通としての意味合いもあったわけで、その後富山電気軌道は路線を伸ばし、大正4年3月13日には東側にあたる富山駅前〜堀川新駅前(現在の南富山駅前)が、大正5年11月22日には丸の内〜大学前(現在の大学前よりも西にあった)間を開業させています。
 しかし、富山電気軌道の経営は意外と苦しく、丸の内〜大学前間の建設にも富山市からの援助を受けていました。その状態が続いた結果、富山電気軌道は大正9年7月1日に富山市に買収され、富山市電軌課の経営下に入ります。市営化されて後も西町〜中教院前〜東田地方(ひがしでんちかた)間、東田地方〜電気ビル前間などを開業、着々と市内交通としての形を整えて行きます。

 こうして市営となった軌道線ですが、昭和に入ってから異例の出来事が起こります。昭和5年に設立された新興の鉄道会社・富山電気鉄道が、富山県内の交通の総合化に乗りだし、それに公営のはずの軌道線も参加することになったのです。この会社の社長である佐伯宗義氏は、私鉄史に残る敏腕経営者で、当時の鉄道会社の経営者としては珍しい全県的な視点をもって県内交通の一元化を図ろうとかねてから県内事業者の合併に努めていたのでした。そこにおりからの戦時統制が追い風となり、ついに昭和17年12月22日に富山県営鉄道(堀川新〜岩峅寺〜小見間)、日本発送電(小見〜粟巣野間)、黒部鉄道(三日市〜宇奈月間)、越中鉄道(六渡寺〜越ノ潟間、現在の加越能鉄道の一部)、加越鉄道(石動〜福野間、後に加越能鉄道に譲渡され廃線)、そして軌道線を合併し、現在の地鉄、すなわち「富山地方鉄道」を成立させたのです。これによって、軌道線は「富山地方鉄道富山軌道線」となりました。普通、私営から公営になった場合そのまま行ってしまう場合が多いのを考えると、非常に変わったケースと言えるでしょう。

 さて、このようにして地鉄の路線となった軌道線ですが、このころから日本は本格的に戦争へ突入して行きます。昭和20年に入ると本土空襲が日本全国に及び、富山も終戦直前に大空襲に遭い、焦土と化しました(余り知られていませんが、富山市は北陸3県で一番空襲の被害が激しかったのだそうです)。このために軌道線は車輛の多くを焼失、さらに軌道敷も爆撃のためにがたがたになり、翌年の1月まで全線運休を余儀なくされた上、完全復旧にも4年余りの時間を要しました。
 完全復旧の後は交通量の増加や人口の増加、そして戦災後の区画整理のために線路の付け替えが相次ぎ、昭和27年8月5日には護国神社回りだった丸の内〜安野屋間の付け替え、昭和39年には電気ビル前から分かれていた東田地方方面の線路を郵便局前(現在の地鉄ビル前)へ付け替えています。また、復興事業の一環として中教院前〜不二越駅前間の新線(通称『山室線』)建設も計画されたものの、都市計画の遅れから遅れ、昭和36年3月にやっと開業しました。

 こうして完全復旧した軌道線でしたが、昭和40年代に入るとご多分に漏れず自動車の発達から乗客数が大きく落ちこみ、合理化を迫られるようになります。その結果、昭和44年から45年にかけてワンマン化が行われたり、運行系統の大幅な変更が行われたのですが、途中水害に遭って部分不通になったことなどがあって乗客数は落ちつづけ、ついに昭和46年になってから一部路線の廃線が検討されるようになります。廃止の対象となったのは丸の内〜旅篭町〜西町間と中教院前〜東田地方〜地鉄ビル前間の2区間で、前者は昭和47年9月13日、後者は翌昭和48年3月31日をもって廃止となりました。
 この部分廃止で富山軌道線は現在の姿にほぼ近い形となり、1系統は大学前〜南富山駅前間、2系統は富山駅前〜南富山駅前間、3系統は西町〜不二越駅前間として運転されていましたが、3系統の走る山室線は盲腸線化したために乗客数が減りつづけ、昭和59年4月1日をもって廃止となりました。
 その後平成9年3月20日より1系統が県庁前まで延伸したものの、輸送人員が少なかったため4年後の平成13年12月10日に再び短縮、それ以来特に変化のないまま今に至っております。
 ただ全く変化がないわけではありません。富山港線が「富山ライトレール」として路面電車化されたのに刺激されたこともあって、西町〜丸の内間をつないで環状線にするという構想が起こり、現在西町から大手モールを通って鍵の手に丸の内へ向かう新線の建設が計画されています。また将来的には富山ライトレールとつなげる計画も持ち上がっています。

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