美濃町線電停めぐり


 さて、現存している電停はこれで終わりですが、美濃町線にはその他、1999年3月に廃止になった新関〜美濃間の電停があります。
 この区間は人気が非常にあり、廃止が決まると同時に全国から多くの人が集まって来ていたため、写真もかなりの枚数がかなりの人によって撮られています。既に多くのところでご覧になっている方も少なくないでしょうが、ここでは私が撮った同区間の写真を展示しておきます。


併用軌道の入り口から美濃方面を望む
1998.10.3

併用軌道の入り口から新関方面を望む
1998.10.3

併用軌道を走るモ592
1998.12.25

 現在、新関駅を出た線路は道を横断して関へと向かっていますが、廃止前は踏切に突入する地点から道の上に飛び出し、併用軌道となっていました。
 この区間は日中1時間に1本と路面電車としては異様な閑散ダイヤで、そのために沿線の設備はほとんど手が入っていませんでした。その分、本当の意味で昔ながらの沿線風景が楽しめる区間でもありました。
 この区間で一番すごいのは、やはりこの木の架線柱でしょうか。そもそも併用軌道で、こんな鉄道線のような架線柱自体が珍しかったです。路面区間の架線は岐阜市内では直接吊掛式(電柱からワイヤーを渡して真ん中に直接架線を吊り掛ける方式)ですし、併用軌道の上芥見付近では架線柱があったものの脚は片側だけでした。
 それに、やはり一番のポイントは木製、ということでしょうね。いくら美濃町線の沿線設備が古いからといって、さすがに木の架線柱は多くありません。しかも、すざまじく年季が入っていて、色が微妙に変化しています。こんなところも、美濃町線の独特の雰囲気を伝えていて微笑ましい思いがしたものでした。
 ただ、それはいいんですが、いかんせん道に歩道が全くないのが……(汗)。この区間を撮る時、どれだけ苦しんだことか……(涙)。

 この先、線路は関市役所の前を通りすぎ、なすび橋(名前の由来が気になる……)の手前で道の左へ入って行き、そのまま道路の左側に収まってしまいます。

なすび橋と道路の左へ寄る線路
1998.12.25

 このまま延々と道なりに走ると、この区間1つ目の電停・下有知(しもうち)がありました。


20.下有知 しもうち

所在地:関市下有知

下有知電停(前から)
1998.12.25

下有知電停(後ろから)
1998.12.25

下有知電停のそばにあるお稲荷さん
1998.12.25

 新関から延々と5分くらい道の横を走ってきたところにある電停でした。ちょうど裏を用水路が走り、河原に植えられた木に囲まれる形になって非常に雰囲気のいい電停でした。
 特に、道を挟んで美濃寄りの角にあるお稲荷さんは秀逸でしたね〜。お参りもしましたが、本当に道端の小さなお宮、という感じで、集落の人がこまめに掃除しているのかこぎれいです。ここの横を美濃町線が走っているわけですから、雰囲気は抜群でした。
 廃止後は、長良川鉄道に出来た新駅・関市役所前駅に代替されています。

 ここから先、しばらく線路は道端を走っていきますが、やがて大きく左に曲がり、本格的に専用軌道へ突入して行きます。


21.神光寺 じんこうじ

所在地:岐阜市下有知

(写真なし……すみません)

 道路から左へ曲がり、専用軌道に突入して随分走ったところにある電停でした。とりあえず交換電停で、しっかり2面2線の配線構造をしていたのですが、1時間に1本のダイヤでは交換しようにも出来ず、朝夕以外は使われていませんでした。しかも、周囲も横に中学校があるだけ、人家も田んぼを1つ挟んだところにあるなど、本当にがらんとした寂しい電停でした。
 廃止後は、そばにあった長良川鉄道の中濃西高前駅に代替されましたが、現役当時からここに吸い取られていたようで、本当に不運な電停でした。


22.松森 まつもり

所在地:美濃市松森

(写真なし……すみません)

 神光寺からまた田んぼの中を延々と走ったところにある、美濃市最初の電停でした。周囲は新興住宅地(……といっても相当古い)のようで、電停の周囲には家がたくさんありました。
 神光寺と違って長良川鉄道の駅がなかったので、それなりに乗客はいたようのなのですが……。
 廃止後は、長良川鉄道に新設された松森駅に代替されています。

 ここから先、線路は田んぼの中を一路美濃へ向けて走って行きます。


23.美濃 みの

所在地:美濃市広岡町

美濃電停構内
1997.12.26

美濃電停駅舎
1997.12.26

 徹明町・新岐阜から20キロ余り、美濃町線の本当の終点であった電停です。メインルートの終点、それも徹明町のように路上ではなく専用軌道とあってかなり立派な駅舎が建造されていました。ただし、末期には無人で、特勤で駅員がいるという状態でしたが……。
 構内は何と堂々たる2面3線で西側から1〜3番線とあり、その他に側線を何本か持つなど複雑な構造をしていましたが、使っていたのは一番西側の1番線と奥の側線が1本で、前者は折り返しに、後者は留置用に使われ、590形が1両いつも寝ていました。
 ここの電停で一番注目すべきはやはり駅舎でしょう。この駅舎はすごいです。洋風のスタイルといい、細部まで凝った装飾といい、さすがはメインルート、と思うような駅舎です。美濃市さんもこの駅舎の美しさには注目しておられたようで、廃止後に構内丸ごと保存されることが決まり、現在も半分線路をはがされながら堂々と残っています。
 廃止後は、すぐ近くにあった長良川鉄道の美濃市駅に代替されています。でも、あそこの駅って結構市街地から遠いんだよねぇ……。


 明治44年の開業以来、明治・大正・昭和・平成の4つの時代を必死で走りつづけてきたこの区間でしたが、昭和以来赤字が続いていました。もちろん美濃町線自体が(残念ですが)赤字だったのですが、ここの区間は特に赤字がひどかったようです。
 そして平成。この区間は経営改善に取り組む流れの中で不採算路線の1つとして取り上げられ、数年もめたあと、ついに平成11年3月をもって廃止されることになりました。

 下は、その廃止の前日に行った時に写してきた写真の数々です。なお、白黒なのはわざとです。ただ、一部露光不足で暗くなってしまいましたが……(汗)。

《新関電停にて》

新関2番線のさよなら電車
モ592 1999.3.30

美濃行の乗り場を示す立て看板
1999.3.30

乗り場案内
1999.3.30
この撮影の直後、撤去されてしまいました。

「下有知」の文字がある駅名標
1999.3.30

さよなら電車と
神光寺までの閉塞を示す標識
1999.3.30

モ592の運転台と仕業標
1999.3.30
窓の外で早々と案内板の取り替え作業が……。

新関〜下有知間の併用軌道を走るモ592
1999.3.30

《美濃電停にて》

美濃駅1番線ホーム
1999.3.30
ちょうど木蓮が花盛りでした。

構内転轍機
1999.3.30

車止めと駅舎
1999.3.30

駅長室
1999.3.30

改札口横の継続定期券の案内
1999.3.30
「精々ご利用下さい」って、
傲慢なんだか謙虚なんだか……(笑)。

改札窓口
1999.3.30

臨時改札口
1999.3.30

 この翌日、新関〜美濃間は美濃市さんの肝煎りで主催されたさよなら式典に見送られ、その88年にわたる歴史を閉じました。
 これに伴って翌日の4月1日、新関〜関間が開業、廃止区間の下有知・松森に対応する関市役所前駅が関〜中濃西高前間に、中濃西高前〜美濃市間に松森の2駅が長良川鉄道に開業しました。


 この廃止からおよそ1年、私は美濃町線から遠ざかっていたのですが、翌年4月の末に撮影のため再び行ってみました。
 新関電停の先に行ってみると、関へ通じる踏切が出来ていて、それと一緒に歩道が新たに整備されていました。これに伴い、踏切の前後数十メートルの間が舗装しなおされて綺麗になっていたのですが、そこから外れた先に、しっかりと併用軌道を撤去した跡が……。

併用軌道の廃線跡
2000.4.29

 ……南無。

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